二章(1)イーディスの「ギフト」

――兄君を愛しているグレイスフィールお嬢様は、兄君をヒロインに取られたくない……。

 イーディスは静かに頭を回転させながら、静かに令嬢の作業風景を見守っていた。

グレイスフィールお嬢様の絵の技術は素人目から見ても明らかに卓越していた。リアルタッチの絵から、かわいらしいデフォルメのキャラクターまでなんでも描きこなす。その上、その場にないものを記憶から描きだすのが本当に上手だ。

「日本食が恋しい」

そう言いながらグレイスははたと顔をあげた。「イーディス。好きな日本食は?」

「うーん、やっぱりお寿司ですかねえ」

イーディスは――「私」は正直に告げた。

「中トロと、……あさりのお味噌汁が食べたいです。回るお寿司の」

「回る寿司派ね? 私もよ」

グレイスフィールはさらさらと輪郭をとっていく。皿の上の寿司。中トロを意識したのか、照りがすごい。見ているだけでお腹が空いてきた。

「ええと。『寿司』、と」

「漢字なんか久しぶりに見ました。懐かしい……」

「そうよね。お寿司があったのもずいぶん前のことだものね。ちなみにレスティア語ではこう書くの。ス・シ、と」

 お嬢様は達筆な『寿司』の上に何事か書いた。イーディスにもかろうじて読めた。

「スは分かります! 名前に入ってますから」「シもできれば分かってほしいわ」

イーディスは思い切って尋ねた。「私、レスティア語はてんで駄目なのです。お勉強のためにこれをもらってもいいですか?」

「いいわよ。寿司だけと言わず、なんでも言ってちょうだい」

「じゃあ……」

 少女二人、にぎやかに騒ぎながら、午後は過ぎていく。イーディスは時計を見てはっとした。

「しまった。そろそろガラス修繕の方がいらっしゃるんでした。急がないと」

 イーディスは貰った紙をきれいに折りたたみ、それをエプロンのポケットにしまい込んだ。そして性急に令嬢の汚部屋を出る。

「何かありましたら申しつけてください。そのあたりに控えておりますから」

「ありがとう」


 とは、言ったものの、だ。

 ――どうしよう。

 おそらく、ヴィンセント様の「お嬢様をまともに」という条件には「社交界デビュタントに出てくれるお嬢様」も入ってくることだろう。それが達成できなければイーディスは明後日からよくて物乞いだ。

 でも、グレイスは、ご自身の社交界デビューによってヴィンセントと「マリーナヒロイン」が出会うのを恐れている。なによりも、お嬢様自身が、「出たくない」と仰っているのだ。平行線にも程がある。

――どっちの意見も通すのは無理だわ……私が物乞いになるか、お嬢様が悪役令嬢ルートに入ってしまうか……。でもどっちも避けたい……。

 その時だ。

『窓、ガラスの、シューゼンですが』

 そこへ渦中のヴィンセントが、美しい男性と連れ立って歩いてきた。

イーディスは慌てて距離を取る。このよれよれの姿を旦那様とそのお客人に見せるわけにはいかない。二人は令嬢の部屋の前あたりで立ち止まり、話を始めた。

『こちら、デス』ヴィンセントが片言で破れた窓を指差す。……なぜ片言なんだろう。

『おお、これは確かに真ん中ですね』

 滑らかに美青年が言った。黒い髪に黒い瞳。日本か中国か、アジア系の顔立ちだ。俳優みたいだ、とイーディスは思った。

ヴィンセントは数拍遅れて、うんうん大げさに頷いた。『妹ガ、開けたあな、デス』

『窓の寸法を測ります。……ちょっと離れていてください』

 ヴィンセントが首を傾げた。……ひょっとして、伝わっていないのだろうか? 

そこでイーディスはハッとした。

これ、英語では?

『……寸法を、測ります。なので、離れてください』

面倒臭そうな雰囲気をにじませながら、美青年はゆっくりとヴィンセントに告げた。

 ヴィンセントはニコニコしながら離れた。美青年は、苛ついた様子を隠しもしないで、懐からメジャーを取り出し、さっさと寸法を測る。

『なるほど』

『どう、デスカ』

『わざわざおれを呼び寄せておいてガラス窓の修繕一枚とは、笑わせるなよ、紙狂いの狐』

ヴィンセントはまた首を傾げている。性悪美形男はにこにこと笑みを絶やさないが……。

──あー⁉ あー⁉ 言ったな⁉ 今、言ったな⁉

 イーディスはせっかく隠れていたのに、それを聞いたらたまらなくなって、飛び出してしまった。

『まあ! 修繕業者の方ですかぁー!』

 美男子はギョッとしたようにイーディスを見下ろした。よれよれのメイド服の女が踊るように飛び出してきたら誰だってこんな反応をするかもしれない。

『レスティアの海岸沿いは冬風が厳しいので、窓の穴にはほとほと困り果てておりましたの、大変助かります。屋敷の者どもも皆、あなた方に感謝しておりますわ。ところで』

イーディスは挑戦的に彼を見上げた。

『通訳が必要でしたらお申し付けください?』

黒髪の男は、誰もを魅了しそうな笑顔を浮かべて、挨拶でもする様にイーディスを見下ろした。

『……うるせえ、ブス』

──はぁー⁉

「おい、御客人になんて真似をするんだ」

ヴィンセントが「またお前か」と言わんばかりに眉間に皺を寄せたので、イーディスは努めてしおらしく答えた。

「ご挨拶の言葉を知っていたので、つい」

言い訳をしつつ、黒髪男をチラリと見遣る。それ以上、突っ込んでくる気はないらしい。イーディスはさっとエプロンドレスを翻して、逃げるように廊下を走り去った。その時、お嬢様からもらった落書きの紙を落としてしまったが、イーディスは気づかなかった。


階段を駆け下りて一階へ。ちょうど厨房から顔をのぞかせたデアンが、「何してるんですか」と言ったところで、イーディスは早口で助けを求めた。

「ちょっとだけ匿って、デアン!」

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