二章(3)イーディスの前世
「ないぃ……」
イーディスは庭に膝をついてがっくりと項垂れた。木製のオルゴールはどこにも見当たらない。「らしきもの」すらない。
「オルゴールなんてないのよ、なかったのよ」とアニーがくたびれ果てて言った。「もう日が暮れてるわ。ご飯に間に合わなくなる。もうやめましょう。明日また時間を作って探すべきだと思う」
「ご飯が食べられないのはやだよぅ」シエラも音をあげた。「お腹がすくもの……」
「でも、窓ガラスに穴を開けたのはオルゴールだと思うのよ」
イーディスは執念深くあたりを見回した。
「絶対に、オルゴールだわ……」
「これはもしかして、庭師の
シエラが言った。「なんでも拾うもの、あの爺ちゃん。私が落とした髪飾りまで拾ってた」
……確かに。この家にはお抱えの庭師がいて、すぐ近くに住んでいるのだが、なんといっても手癖が悪いのだ。シエラの髪飾りをはじめ、誰かが落としたペン、ハンカチ。何でもかんでも拾っていく。流石にものであれば持ち主へ返すこともあるけれども、お金を落としてしまったら二度と戻ってこないと思っていい。――まあ、私物も小遣いもないイーディスには全く無関係な話題なので、すっかり思考の外だったのだが。
「木の箱でも……拾ってるかもしれないわね」
イーディスは立ち上がった。シエラが呆れたようにいう。
「って、まだ爺に話を聞いてなかったの、イーディス。もうとっくに聞いたんだと思ってた」
「頭がいっぱいで忘れてたのよ! アニー、シエラ、付き合ってくれてありがとう」
「ちょっとイーディス、まだ探す気⁉」アニーが叫んだ。
「爺のところに行くだけよ。すぐ戻るわ」
言い残してイーディスは走り出した。置き去りにされた二人は、顔を見合わせて、首を傾げた。
「イーディス、昔からああだったっけ? なんだか、最近変だよ」
シエラが言う。アニーは、消えていくイーディスの後ろ姿を見送ってから、洗い桶を拾った。
「いいえ、昔からああよ。最近特にひどいだけだわ。……ほんとにひどいけど」
「ジョンさん! ジョンさん! 夜分にごめんなさい!」
イーディスはけたたましく木のドアを叩いた。叩くを通り越して、蹴る勢いだ。
「オルタンツィアのメイドです! ジョンさん!」
庭師の爺ことジョンは、ひどく耳が遠い。だからこうでもしないと伝わらないのだ。
「あん?」
小柄な老人がドアを開ける。その足元に、小さな女の子がまとわりついていた。孫だろうか。
「あの、ジョンさん。オルタンツィアの庭で、木の箱を見ませんでしたか」
「なんだって?」
ジョンは耳を寄せてくる。イーディスは腹の底から叫んだ。
「あの! オルタンツィアの、庭で!」
「なんだって?」
「オルタンツィアの庭で! オルゴールを! 見ませんでしたか!」
その時だ。澄んだオルゴールの音色が響き渡った。ジョンの孫が手に持っているのは確かに木の箱で、開けるとラッパを持った天使がくるくる回るようになっていた。流れるメロディは、子守唄のような優しい響き。
「あ、あった……」
「……と、言うわけでして」
イーディスはぐったりしながらグレイスフィールに告げた。
「見つかりましたが、ジョンさんのお孫さんがいたくオルゴールを気に入ってしまっていて、持ってくることができませんでした。申し訳ありません」
少し間をおいて、令嬢はドアの向こうでため息をついた。
「そんなにくたくたになるまで探し回ったの。切り上げて、明日にすればよかったでしょう。ご飯まで食べ損ねて……どういうつもりなの」
「お嬢様がお待ちかと思って……」
令嬢がふふ、と笑い声を漏らす。
「──そういう貴女の正直でばかなところ、わたくし、嫌いじゃないわ」
褒められたのか貶されたのか、と疲れ切った頭でイーディスが考えていると、令嬢は続けた。
「よかった、無くなったのではなくて、拾われていたのね」
「ええ、大事に大事に抱えておりました」
「そう。ならその子に、大事にしてねと伝えてちょうだい。明日でもいいわ」
「いいのですか?」
「いいのよ。……もう十年も聞いていないオルゴールだもの。音を奏でているほうがきっと幸せよ」
イーディスはそれ以上何も言えなかった。あのオルゴールは、探さねばならないほど大事な品だったはずなのだから。おそらく亡くなったご両親の形見なのだろう。
けれどグレイスフィールがそれでよいというのなら。
「かしこまりました」
「イーディス。もう休みなさい。お風呂に入って、ゆっくり体を休めなさい。今日はこれ以上は働かないように。命令よ」
「承知いたしました。……おやすみなさいませ、お嬢様」
「おやすみ」
イーディスはさっと風呂を済ませ、早々にベッドに潜り込んだ。
お嬢様に言われるまでもなく、限界だった。目を閉じると、穴に落ちるように意識がとんだ。
イーディスは夢の世界へと誘われる。
「火事だー!」
「火事です! 火事です!」
「避難してください、階段から、押さないで、ゆっくり降りてください!」
あの日、ホテルは火事に見舞われていた。出火原因までは思い出せない。けれど六階からの出火で──六階から上を巻き込む大きな火災になった。夜を裂くように炎は燃え上がり、黒い空に溶けていった。お客様がぞろぞろと列を成して外へ避難するのをよそに、ひとりの若手ホテルマンが咳込みながら駆けてくる。
「店舗長! 七階のお客さまが一名、応答ありません!」
「まさか七二九号室⁉」
「あの部屋か! 漫画家先生が缶詰しているっていう部屋か」
「煙が充満してて、とてもじゃないけど呼びかけを続けられず、」
「落ち着け、落ち着くんだ」
「消防はまだなの⁉」
「七階ですから……煙を吸って意識を失っているのかも」
「……──他は!」
「避難完了です」
その時イーディスは……「
「七階、見てきます!」
「おい! 勝手な行動をするな!死ぬぞ!」
「消防なんか待ってたら、間に合いません! お客様が!」
「火事に関しちゃズブの素人だぞ! 素人に何ができる!」
「やるしかない、じゃないですか……! 人の命ですよ!」
──そうか、そうだったんだ。
「私たちは、人の命をお預かりしているんですよ!?」
イーディスはなんとなく、この先「
お客さま。お客さま。お願いです。返事をして。ドアを開けてください──!
開けてください。開けて。どうか、ドアを……。
ドアは開かなかった。熱で歪んで、とてもじゃないけど。開けられなかったのだ――。
「――ッ!」
自分の叫びで、イーディスは目覚める。全身にびっしょりと汗を掻いていた。まるで今まで業火に焼かれていたかのように、体が熱くなっていた。汗で濡れた顔を覆うと、なぜか涙がこぼれてきて、イーディスは横になったまま、嗚咽を漏らした。
「うう、……ううううぅ」
――
でもここにママンはいなくて、イーディスに与えられた小さな部屋に、彼女を慰めてくれる存在は居なくて――ロージィはいない。いなくなってしまった。泣くイーディスを慰めてくれた姉はもう、どこにもいない。
――ロージィ姉さん。どこに行っちゃったの。どこに……。
弱音を吐きそうになる自分を抱きしめ、身体を丸め、イーディスは繰り返した。
「──泣くな、イーディス。泣くな」
涙声で叱咤する。からっぽのイーディスの部屋に、声ばかりが響き渡る。
「泣くな。泣いても何も変わらない」
だけど十六歳の少女の身体は泣くのをやめなかった。イーディスは、泣いているのが誰なのか、もはや区別できなかった。
夢はもう、イーディスと「私」を一つに融合してしまったらしかった。
「泣いたって生き返れない!」
そう、泣いたってこの現状は変わらない。イーディスの生活は首の皮一枚で繋がっていて、明日……今日で決まる。
全てが決まり、そして終わるのだ。
「やるしかない。やると決めたらやるしかないのよ。イーディス」
イーディスは薄い毛布を握りしめてぎゅっと目を閉じた。両瞼から、涙がつうと伝って落ちた。
「もう、この世界で生きていくしかないんだから!」
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