一章(10)オルタンツィア、揺れる
ヴィンセント・オルタンツィアの耳もとで囁く声がある。
――所詮親の代の成金。
誰が言ったか、それは自分自身の言葉でもあったかもしれないのだが――弱冠十五歳で、右も左もわからぬまま継いだ会社は、いまゆっくりと傾き始めていた。先代の築いた盤石な経営体制は、今の時世では立ち行かなくなっている。安価で質のいい紙が競合企業から出回り始め、オルタンツィア製紙の需要は低くなるばかり。
屋敷のこともそうだ。親の残した広大な屋敷を維持するための使用人の確保も難しくなってきた。これ以上使用人の数は減らせない。しかし……、
――所詮親の代の成金……。
ヴィンセントは頭を抱えた。そんなそぶりを他人に見せることはないけれども、彼は迷っていた。
「グレイスフィールが、一人前の
淑女になるとは、すなわち婚姻の準備ができたということを意味する。
「グレイスフィール、どうして」
「旦那様」
苦々しい表情のまま、見ると、ドアの前に鍵持ちの執事トーマスが石の彫像のように立っていた。「本日のご予定の確認に参りました。よろしいでしょうか」
「ああ、分かった。今日の予定は?」
──ハウスメイドの朝は早い。
メイド達が集った広間で、メイド長は今日の旦那様の予定を読み上げていく。
「旦那様は本日、一時間早く、六時に出社なさり、午前の間に戻られます。正午から二階の窓ガラスの件で、貴賓室でモンテナの業者との打ち合わせ、そして価格交渉が入る予定です。この時の給仕は私、それからメアリー。ジェーン、エミリー」
「はい!」
呼ばれたメイド達が声をそろえた。面々を見て、アニーが小さく舌打ちをした。
「いつもの顔ぶれね。ちッ」
「以上四名で勤めます。他は普段通り、夜の七時にご夕食の予定です」
つまり、今日はヴィンセント様がオルタンツィア家にいらっしゃるということだ。気を引き締めておかないと、何か粗相をしてしまいそうだ、とイーディスは思った。
「そしてお嬢様はいつもの通りお過ごしになられます。お嬢様のお付きを、イーディス」
「……へ」
びっくりした。まさか、「金皿十枚のイーディス」が、この場で呼ばれるとは思っていなかった。今までこの朝のミーティングで、一度も名前など上がったことがなかったのに。
「イーディス」
メイド長は再び呼び、イーディスをじっと見た。ようやく、呼ばれているという実感が湧く。
「昨日より三日間の期間に限り、です。粗相のないよう、勤めなさい」
「はい!」
「では、本日の担当部署の発表を。アニー、シエラ、……」
ミーティングは続いていく。厨房担当、屋敷の清掃、それから庭の手入れ、備品の管理……これらの担当振り分けは、メイド長に一任されていた。屋敷の持ち物は全て、メイド長の管理下にある。屋敷における権力は、「鍵持ちの
「ミーティングは以上です。皆、今日もよく勤めなさい」
「はい」
お嬢様を起こすまでにまだ時間はある。今のうちに身なりを整えておこう。そう思ってイーディスは一度、私室に戻った。小さな鏡に全身を映す。長いスカートは足首丈のマキシマム。それに合わせた白いエプロン。髪を纏めるための帽子。イーディスの「装備」はたったそれだけだ。
早くに作ってしまった借金──金皿十枚分の弁償のため給金はぎりぎりまで天引きされている。もちろん真っ当な貯金がないから、他のメイドのようにリボンやカチューシャを買うお金がない。……本当は勉強のために、鉛筆やノートが欲しかったけれど、それも買えないままだ。
でも、これくらいが自分に合っているとイーディスは思う。
「よし」
鏡の中の自分は準備万端。
今日は二日目。残された三日間のうち、二日目だ。
お嬢様が起きる前に何をしておこうか? とイーディスが考え始めた頃、階段上からお嬢様の叫び声が聞こえてきた。
イーディスはすぐさま階段上へすっ飛んでいく。起きるには早い。何があった? 出来うる限りの全速力で廊下に差し掛かると、ドアの前に旦那様……ヴィンセントが立ち、力づくで妹の部屋を押し開けようとしていた。
──なにこの状況⁉ どういうこと⁉
イーディスはすぐさま駆け寄った。
「ヴィンセント様⁉」
「グレイス。開けるんだ。私の顔を見てもう一度言ってご覧」
「いや! 開けない。開けないったら!」
「ヴィンセント様、おやめください! ヴィンセント様!」
イーディスはヴィンセントの腕に取り付いた。力なら負けない。何せ、やってきたのは力仕事ばかりだ。
「何をするんだ。放せ。メイドの分際でッ!」
乱暴に振り払う腕をかいくぐり、主人の腰にしがみつきながら、イーディスは首を激しく振った。
「いけません。個人のお部屋を、許しなしに開けるのは、いけません!」
「屋敷の主人でもか」ヴィンセントは怒気も露わにイーディスを睨みつけた。美しい瞳に宿る怒りはひどく鋭い。「私がグレイスフィールの兄でもか」
「ええ、そうです! たとえ実の兄君でもです!」
「お前達はいつもグレイスの部屋に入っているじゃないか!」
「わたくしは、入っておりません! 断じて!」
イーディスの思いがけず激しい声に、ヴィンセントはドアを押す力を緩めた。勢い余って、イーディスは尻餅をついた。
「いたっ」
「お兄様。……ごめんなさい。ご期待には添えない、わ」
「……グレイスフィール。グレイス。聞き分けてくれ。会社のために、お前の社交界デビューが必要なんだ。必須なんだ。夜会に出ると言ってくれ」
「ごめんなさい……」
「グレイス。お願いだ。もう、父様も母様もいない。私には、いや僕には……後ろ盾がないんだ」
イーディスは立ち上がるタイミングを逃して、呆然と座り込んでいた。話は、イーディスのはるか上を行き来していた。
後ろ盾がない。何の? ヴィンセントの? それとも――オルタンツィア製紙会社の後ろ盾が?
「お前の、嫁入りだけが、今の僕と会社の希望なんだ……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、お兄様、ごめんなさい」
グレイスフィールは扉の向こうで泣きじゃくっていた。あまりにも重たい話だった。
「……」
ヴィンセントは何も言わず、座り込むイーディスを一瞥もしないまま部屋の前をあとにした。聞こえてくる啜り泣きだけが、沈黙を絹のように割いていた。
「お嬢様。聞こえていますか。イーディスです」
「うう、うう、イーディス。ありがと、」
「何か、温かいお飲み物をお持ちします。何にいたしますか」
イーディスは部屋へ這い寄って、その扉に額をつけて耳をすませた。
「紅茶。香りのいいものがいい。ミルクはいや……」
「かしこまりました。厨房に伝えてまいりますね」
お嬢様は傷ついていらっしゃる。早く紅茶をお持ちしないと。
ヴィンセントと揉み合いの格闘をしたせいで、ぼろぼろになったイーディスが、メイド達の視線を痛いほど浴びたのは言うまでもなかった。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。
厨房を訪れると、奥の方からデアンが顔を出した。
「ものすごい衣服の乱れようだけど、どうしたんです、イーディスさん。なんか……クマにでも襲われました?」
ズレた帽子を直してから、イーディスはできるだけ平静に伝えた。
「ええと。お嬢様が香りのいい紅茶をご所望なの。すぐに用意できる?」
デアンはしばらく黙って、イーディスの頭のてっぺんからつま先まで観察していたが──最後には頷いた。物分かりが良くて助かる。
「了解。何がいいかな」
「あなたの方が詳しいはず。お任せするわ」
しばらくして、花柄のティーポットとカップが届けられた。デアンはポットの蓋を開け、その匂いをイーディスに嗅がせた。
「柑橘系?」
「ベルガモットの香りの紅茶です。アールグレイっていいます」
この世界にも……というツッコミはもはやイーディスも飽きてきたところだ。
「ありがとう。助かるわ、デアン」
紅茶を持って階段上へ上がり、お嬢様の部屋をノックする。
「お持ちしました」
「ありがとう」鼻をすすり、泣きつかれたような声がそう言った。
「一杯、ちょうだい」
ドアの隙間から、インクまみれの手が伸べられた。イーディスは紅茶を注いで、その手にカップを手渡す。
「お砂糖はいかがなさいますか」
「いらないわ」
令嬢は二口目を口に含む。香りを楽しむように息を吐き、それから努めて明るい声を出した。
「……聞かれちゃったわね……私の悩みの一つ」
「ええ……」
オルタンツィア製紙会社の後ろ盾のこと。グレイスフィールの
「本当は、分かっているの。分かっていた、という方が正しいかしら」
イーディスは口を挟まず、グレイスフィールの言葉に耳を傾ける。
「お父様とお母様が亡くなったから……お兄様は十五で会社を継がねばならなくなって。さまざまな苦労を重ねて、会社をあそこまで成長させた。……もう、十年よ。わたくしは十年も、お兄様を一人で戦わせてしまっているの」
イーディスは先ほどのヴィンセントの言葉を思い出した。
『お前の嫁入りだけが僕と会社の希望なんだ』
「お兄様は、はやくから大人にならねばならなかった。だからわたくしも、いつかは大人にならねばならない。社交界デビューをして、一人前のレディとして、名前を売り込んでいかなければならない。婚姻を結んで会社のために尽くさねばならない。そう思ってたわ」
「思っていた?」
それを聞いた令嬢は、おもむろにイーディスの手首を掴んで、部屋へ引き入れた。
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