一章(1)ポンコツメイド、何かに気づく

 ハウスメイドたちの朝は早い。ロージィが消えてしまった部屋で一睡もできなかったイーディスは、大変な大寝坊をしてしまった。それはもう大変な大寝坊である。四時には起きださなければならないのに、六時に出ていったのだから当然怒られる。慌てて着替えたため乱れたメイド服のまま、ずれ落ちそうな帽子を押さえる。抜き足差し足で人目を避けて、適当な仕事を見繕おうとしているイーディスの背後から、低いどすの聞いた女の声がかかった。

「またお前ね、イーディス」

メイド長ハウスキーパー」だ。何十回目かになるお決まりのセリフ。イーディスはすくみ上がった。

「もももっ、申し訳ございません、もうしわけごずっ」

 噛んだ。

「昨日のことはトーマスから聞いています。お前はいつになったらこの屋敷のハウスメイドである自覚をもてるのかしら」

 昨日のこと。ぐっと唇を噛んだイーディスは、ロージィが居ないことを思い出し、項垂れ、「すみません、ごめんなさい」と小さく呟いた。メイド長は冷たく言い放った。

「お前の謝罪は聞き飽きたわ」

 他のハウスメイドたちはイーディスに気もかけず、慣れた様子で掃除を始めている。主人おつきのボーイはそろそろ屋敷の主人・ヴィンセントを起こしに行った頃だろうか。

「だいたいお前は仕事もろくにできない、時間通りにも来れない、言いつけは守れない、何ならできるの。何だったらできるの。お言い」

「それは……その」

「お言い。イーディス・アンダント」

 イーディスはただこの嵐が過ぎるのを待った。彼女の気がおさまるか、彼女のもとに何か面倒ごとが舞い込まなければ、彼女は「このまま」だ。イーディスは痛いほどよくわかっていた。

 たしかに全体的にイーディスに非があるのは明らかなのだが。メイド長は、こうして必要以上に長々と説教をすることでストレスを発散するのだ。彼女のはけ口になるのは一番できの悪いイーディスと決まっていた。きっとメイドの数が減ったことで気が立っているのだ。……イーディスは悲しくなった。

――ロージィ姉さん。どうして、逃げたの。どうしていなくなっちゃったの。

 何かと庇ってくれた姉はもういない。イーディスの眦にすこし、涙がにじんだその時。

「……メイド長!」

 思いがけず救いの手が差し伸べられた。お嬢様お付きのメイド達レディース・メイド数名が、揃いも揃ってこちらへ走ってくるところだった。メイド長はお小言を引っ込めて、彼女たちに体を向ける。

「何? お嬢様がどうかなさったの」

「ひどくご機嫌を損ねていらして……私たちも部屋から締め出されてしまって。二度と入ってくるなときつく言いつけられてしまい……とにかく、何が何だかわからないのです!」

「私たち、粗相をしたとは思いません!」

「いいわ。私が行ってお話をお聞きします。……イーディス。お前は屋敷の窓でも拭いていなさい」

「は、はい!」

解放される。期待から声が大きくなった。しかし、

「全部よ。全部。一階から二階まで全て。終わるまで階段下ベロウステアには降りてこないで」

「……、はい」

一体何時までかかるやら。イーディスはメイド長の背を見送ってから、がっくりと項垂れた。

「やるしかないのよね……」

 そうなった以上はやるしかないのだ。どんなにつらくったって、やり始めたら意外とすぐ終わる。

――やると決めたらやるしかない。これがイーディスの座右の銘だった。

 イーディスはしょんぼりしながら、水を入れたバケツと雑巾、それから脚立を携えて、言いつけられた通りに外へ向かった。玄関先のカーペットを箒で掃いているハウスメイド、シエラを見ながら、「ルンバがあれば楽なんだろうな」などとイーディスは考える。ルンバ。あの丸い形状。勝手に掃除をしてくれるロボット……。ロボット? ロボットってなんだっけ。

「……っていうか、なによ、ルンバって」

 イーディスは呟いた。

「どうしたの、イーディス。またしかられるわよ」

 玄関のタイルを拭き上げていたアニーが不審そうにこちらを見ていた。イーディスはそそくさと外へ向かう。頭の中には妙な円盤がくるくると床の上を滑るイメージがあって、それが付きまとって離れなかった。確実に、何かがイーディスの中に。でも、イーディスは「今日は朝から何か変だなぁ」と考えただけで、それ以上追及しなかった。


 ここ数年で産業が爆発的に進歩したアーガスティンの街は公害に悩まされていた。それが、新しい工場群の煙突からもくもくと出る、真っ黒な煙だ。

 煙の中に混じっている煤が窓に付着すると黒く汚れて、たいそうメイドたちの手を煩わせた。産業の発展は人々に潤いをもたらした。けれども、こうしたところで「しわよせ」がきていたのだ。

 イーディスは雑巾を固く絞ると、脚立を上って背伸びをした。一拭きすると、雑巾はたちまち煤まみれになってしまう。

「……そもそもあの煙、地球に優しくないわ」

窓を拭きながら、イーディスは呟く。つぶやいたところで、あれ、地球って何だっけ? と考える。やはり変だ。何かがおかしい。

 イーディスがいるここは、レスティア大陸の端にある臨海都市で、アーガスティンはその中でもほとんど港と言ってよい。またの名を「水の都アーガスティン」である。主な貿易国はオルガノ海を挟んだ向こうにある島国、モンテナ島。今は産業の発達で、貿易の品がくるくると変わっているけれど……

「地球……?」

 誰も聞かない呟きで、イーディスは頭の中を整理していく。

「地球の六大陸は、ユーラシア、アメリカ、南アメリカ、アフリカ、オーストラリア、あと……南極。じゃあ、レスティア大陸はどこに? ここはどこ? 地球じゃないなら……」

窓の上の部分が綺麗に磨き上げられた。下の部分を磨くために脚立を降りる。作業は順調だが、イーディスの頭の中はしっちゃかめっちゃかだ。

「待って、地球って何? 私と何の関係があるの?」

問いに答えるように、耳元で言葉が鳴った。

──日本。

誰かが囁いたようにも思えた。それくらい自然なひらめきだった。イーディスは手を止めて、呟いた。

「日本……東京?」

 言葉が引き金となって、瞼の裏に火花が散った。地面に座り込む。バケツの水を派手にこぼし、メイド服を汚す。けれどもイーディスは衝撃を逃す方法を知らなかった。頭を抱え、目を見開いた。瞼がけいれんして、視野がぐらぐらと揺れた。

「私」は、以前地球にいたことがある。かつて、地球の、東京にいたことがある……。そこで「私」は生きて、生活をして。……じゃあ今は? 今はここでハウスメイドを……なぜ?

 頭が沸騰しそう──実際に昨日の無茶で高熱を出してしまっていることを知ったのは、全ての一階の窓を拭きおえて倒れてしまったあとだった。

 すぐさまアニーとシエラが呼ばれ、イーディスは引き取られ、引きずられるように部屋に運び込まれた。

「イーディス! ひどい熱よ、イーディス!」「イーディスしっかりして!」

アニーが呼ぶ。シエラが濡らしたハンカチを額に当ててくれた。けれども実感が湧かない。は本当に自分なんだろうか? 

 朦朧とする頭の中で、ずっと、東京……日本のことを考えていた。

異なる世界。異世界。ここが異世界なのか、それとも「地球」が異世界なのか。「私」は何なのか。「イーディス」とは何なのか。そんな哲学めいた問いを繰り返しながら、イーディスは深く眠りに落ちた。全く同じ悩みを抱えて苦しんでいる、もう一人の少女の存在に気づかないまま。

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