一章(2)ポンコツメイド、覚醒す?

 ――「私」の好きなもの。漫画。アニメ。ゲーム。日本が誇るカルチャーだ。

 二次創作の同人にも手を出したことがある。でも、周りの人ほどの才能はなかった。だから「見る専」だった。

 インターネットを眺めて、隣人の才能を羨んだこともあったけれど、身の丈に合わないとわかってかえって諦めがついた。「私」はできることを、向いていることを職にすべきだ。そう、たとえば。たとえば……?


 イーディスが目を覚ました時、世界は様変わりしてしまっていた。

 まず住み込みの部屋が狭い。寒い。殺風景だ。何もない。あるといえば、壁にくくりつけられた鏡と、ハンガーからぶら下がっている数着のメイド服のみ。他は無。

 これが「私」の部屋?

 地下だから日も差さない。電灯を点けるとオレンジ色の暗い光がぼんやりと部屋の中を照らし出す。ない。何もない。ドアを開けようかと思ったけれど、時計を見るに「鍵持ち」が来るにはまだ早い。だから扉は、開かない。

 ……というか部屋の外鍵。人権侵害にもほどがある。内側から鍵をかけられないなんて問題、というか若い娘や召使いの男を「所有物」扱いするだなんて、おかしいじゃないか。改善を要求しなければならない。

 問題はまだある。賃金が安い割に、起きる時間が早過ぎるし、寝る時間も遅すぎる。八時間なんかゆうに超えて十八時間労働。週休なし。こんなのどう考えても労働基準法に違反する。労基が黙っていない。何だこの職場。あんまりだ。貯金できないから私物も増えないし、休みもなければ趣味を持つ余裕もないじゃないか。心が病む。アキバに行かせろ。ブクロに行かせろ。

 ストライキだ。いっそ爆破してやろうか。

……変わったのはイーディスであって、世界ではなかった。


 鍵持ちがひと通り扉の鍵を開け終える頃、きっちりとメイド服を着こなしたイーディスが広間に姿を現すと、真っ先にアニーが駆け寄ってきた。

「イーディス、大丈夫なの? 三日も寝込んで心配したわよ」

「大丈夫。熱は下がったみたい」

 ああ、ここは中国知識のある世界なんだ、とイーディスは思った。「大丈夫」という言葉の語源は中国にあり、仏教と共に伝来したとか、なんとか。イーディスも「かつて」は創作者だったことがある。その程度の知識はあった。

 でも「ここ」は──レスティア大陸を擁するこの世界は、中国のある地球とは別のところにある。

 つまりは異世界。異なる宇宙の、異なる星の、異なる海に浮かぶ、異なる文明。

「私」はイーディスとして異世界転生をしたのだ。イーディスの思考はそこへ着地した。

 そう思うと、変に肝が据わったような感じがした。何がこようが。「私」はイーディスとは違い、十六歳の無学な小娘ではない。根拠なく無敵になったように思えた。「私」は確実にイーディスの味方で、よりよく、より多くのものを知っているのだ。

 とはいえ、イーディスも「私」のこと――前世のことを全て思い出したわけではない。覚えているのは、「私」がファンタジーとミステリとボーイズラブが好きな成人おたくだったことくらいだ。他は全て靄がかかっていた。よくある異世界転生もののように、「私」は「イーディス・アンダント」として生まれ変わったのだろう。その事実はすんなりとイーディスの中に入ってきた。ごく自然に、鍵のないドアでも開けるように。

「バカは風邪をひかないって言うけどねぇ」

「あはは」イーディスは笑って流した。日本のことわざが出てくるとなぜか安心する。

 アニーの隣で、シエラが何か言いたげにしている。イーディスは彼女の目を見た。

「どうしたの、シエラ」

「あの、あのね」シエラがつっかえながら、手をパタパタ振った。「お嬢様の様子が変なんだって。おとといから、ずっとその話で持ち切りなの。イーディスも知っておいた方がいいかと思って」

「お嬢様が?」

「何を知る必要があるって言うのよ」

 そこへお嬢様のメイドたち――が姿を現す。エミリー、メアリー、ジェーンの三人組だ。

「お嬢様のお相手をするのは私たちよ。そこの『金皿十枚』にそんな機会ないわ。知らせるだけ無駄よ」

 年かさのエミリーが言った。イーディスと違い、リボンやカチューシャで身を飾った彼女たちは、つんと澄まして広間の奥へと向かう。奥に行くほど、位の高いメイドと決まっていた。アニーが広間の奥に向かって舌を出してから、イーディスの耳もとで囁いた。

「お嬢様は前から『御付きレディース・メイド』だけに心を許していらしたでしょう、けど、ここ三日は誰も部屋に入れないの。兄君あにぎみのヴィンセント様すらお部屋に入らせてもらえないそうよ。マグノリア夫人まで呼び出したのに……」

「マグノリア夫人⁉」

 マグノリア夫人はオルタンツィア家の家庭教師ガヴァネスを務めあげた剛毅ごうきな夫人である。物腰は優雅かつ柔らかく優美だがその指導は厳しく非常につらいと聞く。屋敷の主人、ヴィンセントすら泣いて音を上げたという、あの夫人ひとが尋ねてきてもダメということは、それはもはや誰もその扉を開けられないということである。

「食事はおとりにならない、清掃すら断る、部屋に入ろうものなら大声でしかられるそうよ。今はメイド長がお嬢様となんとかコミュニケーションをとっているらしいんだけど」

 アニーはそこまで勢いよく喋って、ちらと広間の奥を見た。御付きたちもこちらを見ていた。

「とにかく、何が起こるかわからないってこと。いつ何が降りかかってきてもおかしくな――」

 そうしているうちに、階段上からけたたましい音が鳴り響いた。目覚まし時計のアラームのような音。続いて、ガラスが割れる音がした後、メイド長の悲鳴が聞こえて来る。

「お嬢様! お嬢様! お気を確かに! お嬢様!」

 あきらかに、只事ではない。続けざまに鳴り響く破壊音、破裂音……イーディスは居ても立っても居られず、メイドの群れを飛び出そうとした。アニーが手首を掴んだ。

「待ちなさいイーディス! 今の話聞いてたでしょ⁉」

「聞いてた!」

 イーディスの脳裏には、あの冬の日、ぼろを分け合って流星を眺めた彼女の姿しかなかった。アニーの手を振り払う。

「イーディス! もう! バカ!」

 イーディスは階段を一段飛ばしに駆け上がった。左右に分かれた廊下を見渡して、まずバルコニーのある左へと走った。お嬢様の部屋に行く前に、することがある。

 おそらく現場に赴いても、イーディスには何もできない。でも「彼」になら。兄君である彼なら、話は別のはず。ヴィンセント様!

 ちょうど、ヴィンセントがボーイを引き連れて部屋から飛び出して来るところだった。危なくぶつかるところを、すんでのところでかわす。

「一体なんの騒ぎだ?」

「わたくしにもわかりかねます」

 不敬、不敬というサイレンが頭の中でぐるぐる回ったが、構っていられない。

「お嬢様とメイド長の間で何かあったようです。ヴィンセント様、どうか、お嬢様のお部屋に」

「グレイス、またか……」

 ヴィンセントは整えたばかりの銀髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

「わたくしもお供いたします」

 イーディスは毅然として言い放った。ヴィンセントは何も言わず、スーツの裾を翻して妹の居室に向かった。それを許しと受け止めて、イーディスも小走りであとに続いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る