第19話 それはあなたの物語
ツェツァンが離れていったあと、グレイスフィールは不安げにイーディスの腕を掴んだ。
「ねえ、最後、なんと仰っていたの?」
「なんと……言えばいいのか……」
情報量が多すぎて上手くまとめられない。イーディスは、グレイスフィールが一番知りたいであろうことを告げた。
「今日のところはひとまず見逃すと」
「どういうこと!?」
「手は引くけれど諦めてはいないと」
「なんでよお……」
グレイスフィールは天を仰いだ。そして遠くでシャンパンを飲んでいるモンテナ男を見た。
「こんなにきっぱりお断りしたのに……!?」
いつか必ず買収する、と言われたことは伏せておいた。
「会社間の交流に影響は無いでしょうが、都度お声がけがかかるかもしれないってことですね」
「ハァー!」
グレイスフィールは顔を覆って大きなため息をつく──イーディスは令嬢の袖をひき、まだ公衆の面前であることを教えた。
「グレイス様、まだパーティーは続いておりますよ」
グレイスフィールはハッとしたように背筋を伸ばした。会場の人は増えている。挨拶回りも済んでいない取引先があるのは確実だった。気分を切り替えるように、グレイスフィールはイーディスと腕を組んだ。
「まあ、うん、いいわ、いいことにするわ、とりあえずあなたはこれからも私のメイドなんだから」
「ええ、もちろんです」
「来たら来たで追い返すまでよ」
「ふふ、力強いお言葉……」
イーディスがグレイスフィールの顔を見つめたその時。
背後で何かが割れる音がした。振り返ると、マリーナが蹲って頭を抱えていた。割れたグラスからこぼれたオレンジジュースがカーペットに染み込んでいく。
「う、うう、……ううう」
「マリーナ嬢!」
ざわめきがホールを包み込む。イーディスは素早く彼女の肩を支えた。
「どうされました!」
「頭が……痛いの、割れそう……う、あ」
「ああ、流星が降ってきたんだわ」
グレイスフィールが囁いて、窓の外を見た。
「
「どなたか、手をお貸しいただけませんか!横になれる場所までお連れしたいのです!」
イーディスは叫んだ。
「誰か!『助けてください!』」
なんだなんだと集まってきた男性陣をかき分けて、中国マフィアが手を伸ばす。
早い。
『何事だ、イーディス』
『この方も“流星の子”です』
『わかった』
全てを察して、ユーリ・ツェツァンがマリーナを抱きかかえた。それはもう、乙女ゲームもかくやという、絵になる光景だった。
『休憩室があるそうです。そちらへ』
ツェツァンは頷いた。ホール係の給仕が走ってきて、ツェツァンを誘導する。
「……本来、ここで運ぶ役目を負うのはお兄様のはずだったの」
グレイスフィールがまた囁いた。たしかに、ヴィンセント様がマリーナ嬢を抱える様は漫画に映えただろう。
「これで……筋書きから一旦、逸れたわ。……よかった」
「私たちも向かいましょう」
聞かず、イーディスはツェツァンの高い背を追いかけた。グレイスフィールが困惑しながらついてくる。
「え、どうして?」
「あの野獣がマリーナ嬢に何かしやしないかと!」
「心配しすぎじゃない?」
「グレイス様、あれを見くびりすぎです、あれは……ッ」
「……鈍いのね、あなた」
グレイスフィールは呟いて、パーティホールに残った。イーディスは気づかないまま、マリーナとツェツァンを追うのだった。
暗く灯りを落とした部屋で、マリーナはソファに横たえられ、気を失っていた。ツェツァンは長い足を組んで、マリーナを見もせず、外を流れていく流星を眺めていた。
『……ツェツァン様』
『この世界が誰のためにあるのか、考えたことはあるか』
『宗教のお話ですか』
イーディスは部屋の中に入った。廊下の明かりが、イーディスの影を長く伸ばしている。
『いや。……
『違和感』
『俺たちは誰かのための物語の駒に過ぎないのではないか。時折、“何かに動かされている感覚”に陥ることがある。お前にもあるだろう、それが』
『……私には、わかりません』
「ユーリ・ツェツァン」は原作にもいるメインキャラクターだ。だから、この世界の「
「あっ、お嬢様」
『あの女狐なら一人でもなんとかなるだろう』
『……その言い方は不愉快です。撤回してください』
『従順な女給だな、イーディス。“俺”にもそうしてくれればいいのに』
『誰があなたなんか』
ツェツァンは笑った。
『お前をからかっている時が一番、違和感から逃れられる。“そうしなければならない”という無意識の義務感に苛まれることもない』
無意識の、義務感?
『今この時もその……義務感というのはあるのですか』
『今はないな。お前がいるからだろう。お前が廊下に飛び出してきたあの時、お前は我を自由にした。我は我の人生を生きることができる……おそらく、お前となら──』
ツェツァンは振り向いた。
『真剣に口説いているんだが、聞こえているか?』
『……聞こえています』
『どうなんだ。イーディス』
言われなくてもわかる。散々口説いてきている、この男。
『……私はもう、この
ツェツァンは黒い瞳をイーディスに向け続け──椅子から立ち上がり、イーディスを見下ろすように立った。
「なに!?」
『……ならば我はお前を追いかけよう。そのためにこの人生を使い尽くそう』
──えっ、
ツェツァンはイーディスの肩に触れた。そして、すれ違いざまにこう告げた。
『後悔するなよ』
「イーディス、遅い!」
取り巻き三人衆とテーブルを囲んでいた令嬢は膨れっ面でイーディスを迎えた。イーディスはぼやっとしたまま、令嬢の膝の上に腰掛けた。
「イーディス、ちょっと!イーディスどうしたの!?顔がおかしいわよ?なんで世紀末みたいになってるの?」
「頭がいっぱいデス。処理落ちしマス」
「もう……」
グレイスフィールは膝の上のイーディスの腰に腕を巻き付けた。
「ところで、マリーナ嬢はどう?回復したの?」
「あ。……忘れてた」
「何しにいってたのよ」
まさか、モンテナ男に「人生を賭けて攫いに行く」と言われたなんて、さすがにグレイスフィールにも言えなかった。
イーディスは何かに酔ったフリをすることにした。グレイスフィールの肩に頭を預け、目を閉じる。
──疲れたな。
そのころ目を覚まし、前世の記憶を得たマリーナは、「自分を支えてくれた麗しいお姉様」を探すと固く心に決めていたのだが、それはまた別の話になる。
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