第16話 わたしにとってあなたは


 自室に戻るなり、グレイスフィールは散らかった部屋の散らかったベッドの上に突っ伏して喚いた。


「私のばか!ばかばか!考えなし!それだから前世でもダメだったのよ、ダメダメなのよッ!口先ばっかりで後のことは全く考えないんだから!!」


 口先ではああ言ったものの、本当は何もかもが不安なグレイスフィールである。

 グレイスフィールの前世が「この異世界の原作者」であるため、情報の利はある。

 だがしかしグレイスフィールという少女も、前世の漫画家も──典型的な内弁慶なのだ。家の中ではなんとでも言える。しかし外に出れば借りてきた猫だ。美しいヴィンセントの隣を飾る花くらいにはなれるかもしれないが……。


「ウワー!もー!バカー!」


──自ら率先して挨拶をしに行くような真似は到底できそうにない。

 高価なマットレスが絶叫を吸い込んでくれる。

「お嬢様、あの」

 扉の向こうからイーディスの心配そうな声がする。グレイスフィールは顔を上げて涙を拭った。

 やらなければならないことがある。叫んでいる場合ではない。

「入って、イーディス。作戦会議しなくちゃならないわ」





 グレイスフィールは所在なげに佇むイーディスに椅子を勧め、自分はいつもの部屋着に着替えた。それも、すっかりインクまみれになってしまっている、ほとんど作業着のようなものだ。

「お嬢様、あの。わたくし……」


「固くならないでいいわ。私のこともグレイスと呼んでちょうだい。一晩だけかもしれないけど、あなたは私の通訳になるのよ」


 グレイスフィールは紙を5枚取り出して、ペンを握った。

 1枚目の紙に、日本語でこう記す。


「……ユーリ、ツェツァン」


「何者なんですか、あの人」

「モンテナのガラス製品を扱う老舗企業の三番目の息子よ。兄二人が頼りないから跡継ぎは彼」


 輪郭から、垂れ目がちな目を描き込む。髪の毛は真っ黒で長く、三つ編みにして垂らしている。いい男だが、性格に難あり。


「モンテナ語を話せるのね、イーディス。どうして?」

「モンテナ語は英語でした。イギリス英語です」

グレイスフィールはガクッと頭を揺らした。心当たりがあった。

「そう、そうね……たしかにモンテナはイギリスっぽい国の設定にしてたわね……」

「前世では、ホテルのコンシェルジュをやっておりまして」

イーディスが恥ずかしそうに言った。

「外国人観光客の方を主に相手にしていたものですから」

「なるほど?」

 道理で、イーディスの振る舞いには、他のメイド達にない距離があったわけだ。そしてその距離が、ここまでの信頼を築き上げたわけだが。


 そうしているうちにツェツァンの顔が出来上がった。グレイスフィールは紙をイーディスに手渡す。

「ユーリ・ツェツァンよ」

「……この人、ヴィンセント様に暴言を吐いたので……つい“聞こえてますけど“って。喧嘩を売ってしまって」

 そしてこんなことに……とイーディスは肩を落とす。


 グレイスフィールは内心驚いた。イーディスは、意外と喧嘩っ早い性格なのかもしれない。

 そして、おそらくだが。ユーリ・ツェツァンはそんなイーディスを「おもしれー女」だと思ったんだろう。

 ユーリという男は、「おもしれー女」が好きなのだ。


「見初められたのね?」

途端にイーディスは嫌そうな顔をした。グレイスフィールは肩を震わせて笑った。

「もう!グレイス様!からかわないでください」

「まだいるわ。マリーナとその取り巻きたち。ちょっと待ってね」


アルベルト。木材加工会社の跡取り。

レオニール。印刷会社の副社長。

ハインリヒ。若手新聞記者。

そしてマリーナ。……商工会のお偉方の孫娘。


 5人分の顔を描き終え、グレイスフィールは額の汗を拭う。

イーディスはそれを見て何か言いたげに口を開けたが、なにかを思いついたようにこう言った。

「そういえば、ティッシュが無い、この世界」

「そうね。そういえばそうだわ」

「会社で開発してみてはいかがでしょう?柔らかくて肌触りのいい紙を、なににでも使える万能の紙として」

 いいアイデアだ。新製品として売り出すことができれば、会社にとってプラスになる。何より……作画作業が楽になる。


「……お兄様は聞いてくださるかしら?」

「聞いてくださいます。グレイス様のお話ですもの」


 久しぶりに、兄と食事を共にするのもいいかもしれない。父母が逝ってしまってから、部屋で食事を摂ることが増えた。広いテーブルに、2人分の食事しか用意されないことがあまりにも悲しくて。


 でも、そのテーブルを今、兄は1人で使っている。


「イーディス、この作戦会議が終わったら」

グレイスフィールは汚れた手を見つめた。

「着替えを手伝ってくれる?それからキリエとトーマスに伝えて欲しいの。今日からお兄様とお食事を取りたいと」


イーディスは5枚のイラストから顔を上げ、頷いた。

「かしこまりました、グレイス様」






 テーブルの上に広げられた2人分の豪奢な食事を前に、ヴィンセントは思わず目を擦った。

「今日はいったいなんだ?明日は槍でも降るのか?」

「槍など降りませんわ。これからは雪の季節です」

 グレイスフィールは薄いピンクのワンピースを揺らしてヴィンセントの隣に立った。

「おかえりなさいませ、お兄様」

「グレイス……」


「おかえりなさいませ、旦那様」

「おかえりなさいませ」

 メイド達が声を揃える。グレイスフィールはヴィンセントを上座へ促した。

「久しぶりに2人で食べると言ったら、我が家のコックが腕を振るってくださったのですって。一緒に食べましょう」

 壁際に並ぶメイドの中には、イーディスもいた。グレイスフィールは、イーディスに笑顔を向けた。




「あのね、お兄様。今朝お話したことなのだけど」

「ああ」

「わたくし、精一杯頑張ってくるわ。足りないかもしれないけど。いいえ、未熟だからこそ。ぶつかってくるわ」

「……本当に、エスコートは要らないのかい」

「ええ。だってそうしたら、わたくしじゃなくてお兄様が主役になっちゃうでしょう。わたくし、お兄様を飾る花ではなくってよ」

グレイスフィールはステーキを切り分ける手を止めて、兄を見上げた。

「グレイスフィール・オルタンツィアとして、勝負に出たいの。お兄様と肩を並べられるようになりたいわ」


「グレイス……」


「そして、うっかり者のお兄様を守って差し上げなくっちゃね」

ヴィンセントは眉を寄せたが、グレイスフィールは微笑んだままだった。


 そしてその笑顔の意味は、イーディスだけが知っているのだった。



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