第15話 あなたにとってわたしは
「お嬢様」
グレイスフィールの部屋の前。ノックもそこそこに、メイド長が告げる。
「お嬢様。お目覚めでいらっしゃいますか。至急旦那様の執務室においでください」
イーディスはまだ震えていた。首の皮一枚で繋がっていたものが今まさに切れようとしている。
「お兄様が? 一体何事なの?」
令嬢の声が尋ねる。「ねえ、キリエ。イーディスは?」
「……こ、ここに」
か細い声が喉から溢れて床に落ちた。もう、隠せなかった。メイド長の前なのに、涙が出てきた。
前世では縦横無尽に駆け回り、どんなクレームや悪態にも耐えたけれど。今のイーディスはただの16歳の少女だった。
「お嬢様。……わたし、わたし、どうしよう……っ」
「イーディス?」
「このままではイーディスはクビになってしまいます。旦那様がそうお決めになりました」
メイド長がつとめて冷静に告げた。彼女自身も何かを堪えているようだった。
「……他でもないお嬢様がお望みなら、旦那様もイーディスの処遇を考え直してくださるかもしれません」
「…………────」
しばらく沈黙があった。
イーディスのしゃくり上げる声だけが、廊下にこだまする。
やがてグレイスフィールは、静かに告げた。
「キリエ。中へ。髪の毛を結って頂戴」
「は、はい!」
「……部屋の中。びっくりしないでね」
メイド長はそっとドアを開けて中へ滑り込む。「ぎゃっ」という叫びが聞こえてきたが、今のイーディスには、
「イーディスは、落ち着いて。落ち着いて聞いて」
「うう、ううっ、は、い」
「わたくしはあなたを友人だと思っています。使用人として以上に、メイドとして以上に。友達だと思っています」
「おじょうさま……」
「この屋敷の中で、誰よりも“わたくし”を尊重してくれた。この2日で、それがよく分かりました。わたくしはあなたを、はいそうですかと手放すつもりはありません」
「はい、はい……ありがたきお言葉……ううっ」
心強い言葉に一層涙の勢いは増し、鼻水まで出てきた。イーディスは自前のハンカチで鼻をかみ、その場にしゃがみ込んだ。
「では、参りましょうか。お兄様のところへ」
ドアが開くと、そこには気品漂う令嬢の姿があった。何本もの三つ編みにまとめた銀髪を後ろ頭でぐるりとまとめている。服は、あわい緑のフリルをあしらったシンプルな白いワンピースだ。イーディスの素人目でも、素材から高価なものだとわかる。
思わず、呟いた。
「お嬢様が……お部屋着じゃない……?」
「本当はね。今日、あなたをさそってアーガスティンの港に出かけるつもりだったのよ」
グレイスフィールは照れ臭そうに言った。
「それがこんなことになるなんてね。早めに支度しておいて正解だったわ」
グレイスフィールの後ろに控えているメイド長はイーディスに何か言いたげだった。お嬢様の汚部屋に対して思うところがあるのだろう。しかし今はその時ではない。
「お兄様」
「グレイス。……」
グレイスフィールが執務室に入ると、ヴィンセントは椅子から立ち上がって、妹の格好を上から下まで眺め回した。
「どういう風の吹き回しだ」
「今日はメイドと共にお出かけをする予定だったのよ」
グレイスフィールは、棘のある言い方で続けた。「そのメイドに、お兄様がお暇を出そうとなさるなんて、思いませんでした」
ヴィンセントは俯くイーディスとグレイスフィールを見比べた。
「キリエの言うことは、本当だったのだな」
「イーディスはこの2日、とても良くしてくれたわ。これ以上なくわたくしを尊重してくれたわ。これ以上のハウスメイドはこの屋敷には居ません。それを、クビにだなんて、あんまりです」
「……確かに、今のお前のわがままを聞けるメイドは少ないだろうな。たしかに」
ヴィンセントもまた、棘を剥く。
「だが、お前が“まとも”であれば。僕の言うことを聞いてくれる可愛いグレイスであったなら、こんなことにはならなかったんだ」
グレイスフィールはあからさまにムッとした。
「……どういう意味?」
「モンテナのガラス製品会社、ツェツァン社の、ユーリ専務から。イーディス・アンダントを欲しいと、交渉があった。メイドや小間使いとしてではなく、通訳としてだ。こいつは、モンテナ語を話せる。ネイティヴレベルだと、専務は仰っていた」
イーディスも、グレイスフィールも、そしてメイド長までもが、驚愕の表情を浮かべた。
「……!?」
「なぜ!?どうしてそんなことに」
グレイスフィールが拳を握る。メイド長が口を押さえて叫びを抑えている。
イーディスにだけは、心当たりがあった。
『モンテナ語をどこで習ったのか』
先ほどのあの問いかけは、そういうことだったのか……!
「僕は、」
「承諾してしまったの!?どうして!!」
グレイスフィールは執務机に歩み寄って、だんっ、と勢いよく手をついた。しかしヴィンセントも、そんな妹の目を見据えた。
「お前が、社交界に出ないと言ったからだ!!」
「っ!!」
「会社にはもはや後がない!僕らの売りは新聞のような安価な紙だ、高級紙じゃ競合企業に勝てっこない!市場に生き残れるかどうかは、モンテナ進出にかかっている!
そのモンテナの企業が、
「お兄様、」
「父上も母上も行ってしまった!妹は部屋から出ない、社交界にも出ない、僕には後がない!お前ならどうした!」
「……」
イーディスは硬直したままその話を聞いていた。メイド長も、「鍵持ちの執事」も、彫像のように固まっていた。グレイスフィールは俯いて、しばらく兄の言葉が放った衝撃に耐えているようだった。震える肩が、小さな声でつぶやく。
「……そうね。全てわたくしが悪いわ」
「お嬢様、」
「自己責任だわ」
青い目に涙を浮かべて、グレイスフィールはイーディスを振り返った。
「……イーディス」
何も言えず、その目から涙が溢れるのを、見た。イーディスには、涙を拭って差し上げることができない。
「わたくし、覚悟を決めたわ」
「覚悟を……?」
まさか。
グレイスフィールは涙を拭い、言い放った。
「出ます。……社交界デビューの場に」
執務室がしん、と静まり返った。令嬢の言葉だけが、空気を震わせる。
「確か主催はアーガスティンのお偉方でしたわね。モンテナからの貴賓もいらっしゃる。ツェツァン専務もご出席なさるのでしょう」
「どうしてそこまで知ってる!?」
ヴィンセントが驚愕する中、グレイスフィールは兄のツッコミを無視して続ける。
「ツェツァン専務には、わたくしからお断り申し上げておきます。イーディスはわたくしたちの使用人であって、通訳も兼ねておりますと。……そもそもお兄様。モンテナ進出を狙うのであれば、イーディスのような人材は確保しておくべきでしてよ」
「あ、ああ……それは、それで、いいんだが」
ヴィンセントは妹の掌返しに戸惑っているようだった。
「お断りするのなら僕の口から言うのが筋だと……」
「ダメです。お兄様は夜会を欠席なさってください」
グレイスフィールはきっぱり告げた。
「パーティーへは、わたくしとイーディスの2人で出席します。これが、私の社交界デビューの条件です」
「ダメだ。僕にはお前をエスコートする役目がある!」
「いいえ。甘く見ないで。一人でも夜会を乗り切れますわ。お兄様、実はわたくし人のお顔と名前を覚えるのは得意なの」
「それに」とグレイスフィールはイーディスを振り返った。
「我が社にはよい通訳がおりますもの。ね、イーディス」
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