第5話 ハウスメイドはクビになる!?

『なら、3日だ』


 ヴィンセントの言葉を思い出しながら、イーディスは腕組みをしてグレイスフィールの部屋の前に立ち尽くしていた。足元にはインクの真っ黒なシミとインク瓶のかけら。窓ガラスの穴からひややかな風が吹きつけてくる。お嬢様の私物はそのまま廊下に転がっていた。


 あの後、ヴィンセントはいつも通り経営する製紙会社へと赴いた。そしてメイド長はフラフラしながら、1時間遅れの指示出しを行ったらしい。いつも通りのオルタンツィア家の1日が始まった──数時間経っても、未だ今朝の出来事に囚われているイーディスを残して。


『3日で、グレイスを“まとも”にしてくれ。3日経ってもああなら、私は悪魔祓いを手配する』


 イーディスは大きく息を吸い込んだ。ため息にするのはやめた。落ち着いて、目の前のドアを見つめる。

 この世界にも悪魔祓いの概念がある。イーディスは反射的に「エクソシスト」と言い換えてしまったのだが、ヴィンセントには難なく通じていた。

 ということは、この世界にはキリスト教がある。ならば悪魔も、悪魔祓いも、「私」の想像しているものとそう変わらないはずだ。イーディスはそう考えた。

 

 仮に、この「レスティア大陸」の世界に、本当に悪魔がいるとして。

 お嬢様の中に「それ」がいるとは思えない……。


 イーディスは勇気を振り絞って、目の前のドアをノックした。等間隔に3回。


「お嬢様、あの」


「……聞いていたわよ、全部」


 イーディスははっと一歩引いた。声が、ごく近くから聞こえたからだ。まるで、ドアに寄りかかっているか、張り付いているか。とにかく、「こちらに意識を向け続けていた」らしい。イーディスがドアをノックするのを待っていたかのようだった。


「3日ですってね。“まとも”、なんて。もう無理よ。無理……」


 グレイスフィールはドア越しに大きくため息をついた。

「はあ。わたくしの中には悪魔がいる。それでいいでしょう。あなたも体を張る必要はないわ」

 そう言い切ってから、また彼女はため息をついた。……これが彼女の癖なのだ。イーディスはいたましく思いながら、言葉を選んだ。


「お嬢様。わたくしでよければ、お力に」

イーディスは囁くように言った。

「お力になりたいのです。お嬢様」


「そんなこと、いいのよ。問題はね」

 しかしグレイスフィールは、イーディスの渾身の言葉をするりと交わしてしまう。

「……お兄様は、お付きのボーイとさえ会話をなさらないの」

「え?」

「ボーイはお兄様の一部。お兄様の手足。お兄様の意のまま。お兄様の所有物よ。物と会話しようとする人間はいないわ」

「…………」

「そんなお兄様が、“屋敷の一部”のあなたと、あんな風に言葉を交わしたんですもの。あなた、わたくしを“まとも”にできなかったら、間違いなく暇を出されるわよ」


 暇を出される。

 つまり、クビ。


「えっ。そんな。そんなことってあります?」


 素で驚いてしまった。グレイスフィールは呆れたように続けた。

「まさかそんなことも気づかずにあんな真似をしてしまったの?……今ならまだ間に合うわ。キリエに、思い違いでしたと。“私”は悪魔に取り憑かれているからと。そうお言いなさい。そうすれば、貴女だけでも」


「お、お嬢様!」


 それっきり、声はしなくなった。彼女はドアから離れてしまったようだ。

 

 イーディスは文字通り途方に暮れた。

 本当にそれで、いいんだろうか?






 

「イーディス、3日後にこのお屋敷を辞めるって本当なの!?」

 厨房から飛び出してきたアニーが、泡だらけの手でイーディスの胸ぐらを掴む。


「どうするつもりなのよ。救貧院になんか帰れないでしょう。物乞いでもするの?この冬に?」

「待って待ってアニー、や、辞めないわよ。なんで?」


「メイド長が朝のミーティングでそう言ってたわ。旦那様の判断で、ですって……一体階段上で何をやったのよお!」


──お嬢様、もうダメです。失敗する前提で話が進んでいます。


メイド長のキリエだけではなく、ヴィンセントにも、期待されていない。対等に渡り合ったというのも、見せかけだ。


“一部”というグレイスフィールの言葉が脳裏を掠めた。

『ボーイはお兄様の一部。お兄様の手足。お兄様の意のまま。お兄様の所有物よ。物と会話しようとする人間はいないわ』


そうか。

ここはそういう世界で、イーディスはそういう身分なのだ。たくさんある部品の一つに過ぎない。代わりはいくらでもいるのだ。


 アニーは鼻をすすった。彼女は泣いていた。


「確かにあんたは輸入物の金縁の皿を10枚も割っちゃうし、モップ掃除したあとは床がマダラ模様になってるし、洗濯もちっとも上手じゃないし、どこの部署に回されてもあまりものになってるようなポンコツだけど、だけど」


 友人に盛大に貶されている。イーディスは胸元で啜り泣くアニーの肩をたたいた。

「だけど?」


「たくさんたくさん、迷惑もかけられたけど、やっぱり私と一番気の合う友達よ。うう……」

「アニー……」


 アニーの涙を受け止めながら、イーディスはひとごとのように自分の立場を反芻する。グレイスフィールお嬢様をまともにする。3日後までにできなければ首が飛ぶ。そうでなくても「たかがハウスメイド」、期待されてはおらず、ほとんど解雇が決まったような状態で……。

 絶望的。

 通り越して、絶望。

 しかし、イーディスははたと思い当たった。


「アニー。そういえば、3日はあるのよね」

「へ?3日しかないのよ」

 アニーはキョトンとしている。しかし、イーディスは「今すぐ荷物をまとめて出て行け」とは言われていないのだ。本当にクビにするのなら、今すぐにでもできるはずの屋敷の主人が、やはり「3日」という猶予を設けている。

 今日を含めて、3日。

 イーディスは拳を突き上げた。

「3日はある!」

 そうか。3日もあるじゃないか!イーディスはアニーを抱きしめてぐるぐる回った。アニーは振り回されながら何が何だかわかっていないようだった。

「そうと決まったらこんなことしてる場合じゃない!」


 アニーを離して、駆け足で廊下を行く。背後からアニーの声が追いかけてきた。

「イーディス!どこ行くの!」


 そんなの決まっている。イーディスは叫んだ。


「ハウスメイドの、お仕事よ!」

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