須呵珈琲店で会いましょう

十余一

須呵珈琲店で会いましょう

 都会の雑踏から離れ、入り組んだ路地裏にひっそりと佇むレトロな珈琲店。薄暗い店内にはほのかに甘い香りが漂い、ゆったりとしたジャズ音楽が耳に心地良い。初めて訪れる店なのに、どこか懐かしい気持ちになれる場所だ。


 目の前に音もなく置かれたコーヒーに、添えられたミルクを注ぎ入れると黒と白が混ざり合い調和する。目を瞑り、ほろ苦いそれを味わう。カップをソーサーに戻してから意を決して目の前の女性に語りかけた。


「やあ、久しぶり」

「久しぶりね」


 正面に座る彼女は昔と変わらず美しかった。艶やかな黒髪が真っ白な着物によく映え、控えめに引かれた紅もよく似合っている。着物にあしらわれた細やかな萩の綸子りんずも、花が好きな彼女らしい。その麗しい姿を見て僕は急に初々しい恋心を思い出して恥ずかしくなってしまい、照れ隠しに白髪の混ざる頭を掻いた。


「その、えっと、……そちらはどんな景色なのかな」

「蓮の花が綺麗に咲いているわ」


 元気にしているかと聞くのはなんとなく憚られ、妙な問いかけをしてしまった。しかし彼女はしどろもどろな僕のことなど気にすることもなく、遠い情景を語る。僕は気持ちを落ち着かせるためにコーヒーを一口飲み、彼女の声に耳を傾けた。


「鮮やかな中紅なかべにに染まった花弁が晴れ空によく映えて綺麗なのよ。大きな葉に透明な雫が集まり煌めいていたのも幻想的だったわ。一つ一つ表情が違う花や葉がそよ風に小突かれるのを眺めながら、池の真ん中を通る木橋を散歩したの」


 彼女が紡ぐ詩のような言葉たちが僕の心にじんわりと入り込む。共有することのない、彼女の目だけに映る光景。隣に並んで一緒に見ることは今の僕には許されていない。


「凄く、素敵なところなんだね」

「ええ、とっても。だから安心してちょうだい」


 穏やかに微笑んだ彼女は、次はあなたが話す番よとでも言いたげに視線を寄こす。僕は緊張した喉にコーヒーを流し込み、少しだけ思案してから口を開く。


「……、こちらでは彼岸花が綺麗に咲いているよ。覚えているかな、昔一緒に行っただろう。今年も川沿いが一面韓紅からくれないに染まったんだ。木漏れ日を受けて輝く花が本当に綺麗でね」


 彼女と歩いた散歩道を独りで歩き、彼女と見た満開の花を独りで見る。


「帰りに寄ったお豆腐屋さんがあっただろう。豆乳が美味しかったあのお店、相変わらず大盛況で外まで行列が出来ていたんだ」


 彼女と一緒に食べたもの飲んだもの、それらも今では一人で味わうしかない。思い出をなぞればなぞるほど、未練がましい気持ちが溢れ出てくる。君と一緒でないと花は色褪せ、食べ物は味気なくなってしまう気がするんだ。やっぱり僕は君のところへ……。


「いきたい。僕も君のところへいきたい。一緒に蓮池を歩こう」

「駄目よ」


 彼女が強く否定する。拒絶の中に優しさを込めて、彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。そしてすぐに目尻を下げて、諭すような口振りで話し始める。


「私のことなんか忘れて、誰か別の良い人を見つけてって言ったでしょう」

「忘れるなんて出来ないよ」


 僕の目からは堰を切ったように涙が溢れだす。ぼやけた視界の先で、彼女は困ったように微笑んでいた。そして左手で懐紙を取り出し、僕の涙を優しく拭う。


「あと五十年は来ちゃ駄目」

「その頃にはもう、僕はしわくちゃのお爺さんだよ。髪もきっと真っ白だ」

「じゃあ、その皴と白髪ごと愛してあげるわ。だから逝きたいだなんて言わないで、生きて」


 彼女には敵わない。彼女の隣にいたいという僕の願いも、すぐには叶わない。彼女だけがいなくなってしまった世界で、心に穴を開けたまま生きていくしかないんだ。


「私の目の黒いうちは……、いいえ、黒くなくなってしまった今でも、勝手に後追いしようとしたら許さないわ」

「君の目はいつだって黒曜石のように綺麗だよ」


 僕の渾身の誉め言葉に彼女は今日一番の笑顔を見せた。僕の大好きな、満開に咲く花のような笑顔だ。

 冷めきったコーヒーは、カップの底に僅かばかり残っている。それを最後の一滴まで飲み干し、目を開けると彼女の姿はどこにもなかった。


 帰り際、「またのご来店をお待ちしております」とは言われない。ここは須呵すか珈琲店。一生に一度だけ会いたい人に会える場所。カップ一杯のコーヒーを飲みながら、大切な人に再び会える場所。

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