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「わたしたち、記憶を奪われちゃうんじゃないの?」

 自分の推論を述べた時、オリガがどんな顔をしていたのか、フローラはよく覚えていない。覚えていたのはとにかく無表情なことだけで、雨の音がうるさい寝室の中で、オリガはどこまでもどんよりした目でこちらをを見つめていた。

 記憶を奪われちゃうんじゃないの?

 記憶。あるいは人格。今、物事を考えている、今この瞬間ここにいる、自分という存在そのもの。

 オリガはスッと目を細めた。フローラは、

「……確信はなかったし、今でもないよ。自分でも、おかしいこと言っているなって思っている。違ったら、笑って聴いて」

 笑って聴いてと言っているのに、オリガはニコリともしない。スッと細めた目のまま、フローラが口を開く瞬間を待っている。

 自分でも驚くくらいに、推論は淀みなく口から流れ出た。

「この間、ペギーが来たって言った時……。オリガ、すごく怒っていたよね? 『ペギーが来るわけない』って」

 フローラは俯く。

「実はさ、あの日……。わたしもペギーを見たの。……いいや、見たなんてものじゃない。会ったの」

 あの土砂降りの雨の中、黒い傘とおばあさんみたいなワンピースと歩きやすそうな靴で。

「あの時ね、ペギー、わたしのこと見ても、知らないみたいに振る舞ったの。助け起こしてくれたけど、傘の中には入れてくれなくて『元気?』とか『久しぶり』とか、そんなこと、ひとつも言ってくれなかった。

 でもわたし、あの子は本当にペギーだったと思う。左手のここ、傷があったから」

 自分を助けてくれた時の傷が。木から落ちた自分を助けてくれた時、小枝だか小石だかに引っかけて裂けた、あの傷跡が。

「ペギーはわたしのこと、最後まで、全然知らない人みたいに振る舞った。あの日、オリガ、言ってたよね。『ペギーはもういない』って。でもペギーはいた。だってわたし、本当に会ったんだもん」

 目を上げられなかった。オリガの顔を見ることができなかった。こんなバカバカしい推論を、自分の想像だか妄想だかを聴いてくれているオリガがどんな顔をしているのか。確かめるのが怖かった。

 フローラは言葉を続ける。

「あれってってことだよね?」

 あのペギーは、ってことだよね?

「ペギーの記憶は……。過去は、人格は、もう消されちゃっているんだってこと……。オリガ、知ってたんだよね?」

 知っていたから『ペギーはもういない』って、あんなこと言ったんだよね?

 フローラはカップを見つめた。砂糖もミルクも入っていない紅茶の水面に、自分の顔が映っている。

 笑わないで聴いてと、そう前置きした。オリガは約束を守って、一度も笑わないで聴いていてくれた。

「わたし、あの時ね……。ペギーの形をしたカップの中に、ペギー以外の誰かの中身が入っているような、そんな気がしたの」


 フローラの話を聞き終えてからたっぷり五秒、オリガは黙っていた。黙ってカップを傾けて、中の紅茶をすべて飲み干した。

「……すごいね、フローラは」

「え?」

 フローラが呆気に取られている目の前で、オリガはカップに手を突っ込んだ。取り残されたレモンをつまみ上げ、そのまま口に放り込む。彼女の口が、頬が、もごもごと動く。その咀嚼そしゃくの間ですら、今のフローラには永遠のように感じられ、もどかしい。

 ごくんとレモンを飲み込んでから、オリガは、

「そうだよ、その通り。フローラ。あんたの推論はほとんど合ってる」

「じゃあ……」

「私たちはね、十六歳になったら、『人格』を消されるの」

 記憶も思い出も性格も。口癖も個性も、何もかも。

「なんで? なんで、そんなこと……」

 声が震えた。意識しても、止められなかった。そんな風に動揺するフローラを見て、オリガは肩をすくめる。

「フローラ。答えはちゃんと、自分で出しているじゃない。『ペギーのカップに入った、ペギー以外の中身』って」

 中身の減っていない紅茶の水面から、バカみたいに泣きそうになっている自分の顔がこちらを見上げている。

 自分の体に入ってくる、自分以外の誰かの人格。

 オリガは、

「体を失って、『人格』だけがデータとして残された人たち……。その人たちの延命のために、この体をあげるんだよ」

「体を……、あげる……?」

「そう。私たちはね、その人たちのクローン。人格だけが残された人たちの『延命』のために、そのために、体を提供するために、生まれてきたの」

 雨の音が、ものすごく近くに聞こえる。

 趣味も嗜好も、ちょっとしたクセから利き手まで。真実を知った今なら分かる。マヌエラ先生の過度な指導も、全ては『元の人間』に近づけるためだったのだ。より素晴らしい『器』であるために。より完璧な『模倣品』であるために。

 フローラは首を振った。

「で、でも……。わたしたちが、『そんなの嫌だ』って言ったら?」

「嫌だなんて言えないよ。嫌だなんて、言えないんだ……。私たちクローン人間に、人権はない」

「そんな……」

「私たちはクローン。人格を消されるために生み出された。私たちは紅茶のカップで、中身を注がれるために存在している。拒否する権利は一切ない……。それが、十五歳の誕生日に聞かされる『真実』だよ」

 フローラは肩を落とした。自分の推論が、最後まで想像や妄想の類であればいいと望んでいたのに。自分たちに待ち受ける運命に、頭をぶん殴られた気がした。

 これが自分たちの未来だった。これを知ってしまったから、だからオリガは変わってしまったのだ。

 大好きだったペギーが、自分たちの知っているペギーの『人格』が抹消されてしまったことを知った。だからピアノを辞めたのだ。長い髪を切って、ズボンを履いて、バレーボールをやり始めて。彼女は先生たちから決められた『義務』を全て拒否したのだ。それはオリガにとっての抵抗だった。誰かの『器』になることを拒絶して、自分たちに定められた『運命』に反抗するために、彼女はピアノを辞め、裁縫用のハサミで髪を切り落としたのだ。


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