第三話

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 グリーンヒル女子孤児院。

 この孤児院こそが、十四歳のフローラにとって、世界の全てだった。

 だから『一般的な常識』がどういうものなのか分からない。フローラが知っている『一般的な常識』は、ほとんど映画や小説で得たものである。彼女の価値観は知識ばかりで、経験が圧倒的に足りていない。

 それでも、おかしいと思ったことはいくつかある。自分の暮らしている世界と、外の世界。自分の常識が、外の世界で暮らす人たちからすれば非常識なのではないか。その疑問は、今までずっと考えていた。

 趣味から食べものの好みまで、ありとあらゆる自由を許されなかったこと。身体的な特徴からちょっとしたクセのひとつひとつまで、細かくチェックされること。そんなマヌエラ先生みたいな監視役、映画でも小説でも、一度も目にしたことはなかった。映りの悪いブラウン管の画面の中、映画に出てくる人たちは、好きなものを食べて好きなものを飲んで、好きなことをしていた。好きな香りの香水をつけて、紅茶に入れるミルクや砂糖の量も口うるさく言われないで、もちろんペンやスプーンを右で持とうと左で持とうと、誰もその手を叩いたりはしない。

 ここではそんなこと、許されはしない。オリガはピアノを弾くことを強制されているが、最近は鍵盤の前に座ろうとはしない。ペギーだってピアノよりもギターの方が好きだったし、ずっと上手かった。なのにフローラにはピアノを弾く義務は課せられていない。昔、一度だけ弾いてみようとしたら、マヌエラ先生に激怒された。その時のマヌエラ先生の顔は鬼みたいで、彼女はものすごい剣幕で、フローラをブラウン管のテレビの前に引きずっていった。

 映画や小説が好きだったのは幸いだったと、フローラは思う。

 自分にとって、映画や小説に触れるのは興味からではない。義務だ。与えられた義務が自分に合っているのは幸せなことだ。山のような映画を見て、山のような本を読んだ。少なくとも自分は、嫌いなことを義務にされているオリガやペギーよりは幸せだったのだ。

 なんで個人個人、与えられた義務が、課題が違うのだろうか。先生たち、特にマヌエラ先生の期待と重圧は半端ではない。マヌエラ先生の目の奥の輝きにはまるで、自分たち個人個人ではなく、他の誰かの影があるような気がしてならない。

 先生たちが何を考えているのか分からない。世間一般の『先生』というものがどんな存在なのか、フローラには分からないのだから。

 ひょっとして先生たちは、自分たち生徒に、誰かの真似をさせているのではないか。自分にもオリガにもペギーにも、それぞれの生徒にお手本がいて、そのお手本により近づくために、それぞれ違う課題を与えられているのではないか。だとしたら一体、何のために?

 いくら考えても、その先の答えは思いつかなかった。しょせんは妄想、想像力巧みな自分の描いた世界の出来事。笑われるのが分かっているから、誰にも言ったことがない。これは日記に書くことも憚られるような、自分のただの妄想なのだから。

 疑念が、想像が、妄想が、捉えどころのない影となってよぎっていく。その先にはオリガがいる。「忘れないでいてくれる?」と口にした時の彼女の表情。「十五歳になったら全て分かる」と言った彼女の声。疑念と想像と妄想は、そんなオリガの悲しそうな微笑みの中に、吸い込まれて消えていく。

 フローラの十五歳の誕生日まで、もう少し。


      ※


 二〇二一年八月十四日 土曜日。

 今日はわたしの十五歳の誕生日だった。楽しいはずの誕生日。でも今日はちょっといろいろありすぎて、ちゃんと書いてまとめることができない。だから今度落ち着いたら、落ち着いたら必ず、今日のことをきちんとまとめなくちゃ。忘れないうちに、なるべく早く。

 とりあえずこれだけ。少なくとも今言えることは、今日という日はわたしの短い生涯の中で、いちばん衝撃的な日だったということ。

 今はそれだけしか、書けません。


      ※


 せっかくの十五歳の誕生日は曇り空で、お昼過ぎには雨まで降りはじめた。窓からむせかえるような草木の青い匂いがしている。規則正しく落ちてくる雫が、ぴちゃん、ぴちゃんと静かに音を立てている。薄暗い廊下が、他の子たちの笑い声を切り離していく。喧騒の切り離された世界の中、フローラは寝室の扉を開けた。

 先客がいた。オリガだった。

 まるで結核か何かの療養所みたいに並べられたベッド。個性も好みも何もないシーツの上で、オリガはうつ伏せで転がっていた。

「オリガ。そこ、わたしのベッド」

「うん……」

 フローラはため息をついた。こういう時、ナーバスになっている時のオリガはちょっと面倒くさい。何か話したいことがあるのだろうと思う。でも今回ばかりはじっくり聴いてあげる余裕はないのだ。

「オリガ」

 オリガはむっくりと体を起こす。シャツとズボンにシワが寄っいるのが見える。こんなだらしない格好でいるのを見つかったら、またマヌエラ先生は激怒するだろう。

「話があるの。聞いてくれる?」


 フローラが思うに、オリガは男の子っぽくさっぱりと振る舞ってはいるけれど、元々そんなに明るい性格ではないのだ。どちらかと言うと大人しくて、口数が少なくて、淡々としていて、しかもちょっと引っ込み思案でネガティブだ。今日の彼女はまさしくそんな感じで、表情にはどこか思い詰めたような、触ったら破裂してしまいそうな色が浮かんでいる。危うさを感じる表情。今にも泣き出しそうで怒り出しそうで、そのくせ笑い出しそうでもあった。

 たった今淹れてきたばかりの紅茶を、フローラは砂糖もミルクも入れないでゆっくりすすった。

「オリガ、笑わないで聞いてくれる?」

「うん、いいよ? で、何の話?」

 話し出すまでに、少しの時間が必要だった。フローラは砂糖もミルクも入れないままスプーンをかき回し続けていて、オリガはその姿をじっと見つめている。

 雨の音だけが響いていた。その間、オリガは紅茶を三口飲んで、フローラはカップの中を百回くらいかき回した。

 やがて、

「この間、言っていたよね。『十五歳になったら全て分かる』って。わたしね、今日で十五歳になったんだよ」

「うん、知ってる」

 カチャカチャ、カップ、スプーン、ぶつかる。フローラはカップの中を見下ろした。

「この間からさ、ずっと変だと思ってたんだ。急に『私のこと、忘れないでいてくれる?』なんて言い出してさ……。いいや、それだけじゃないの。それだけじゃないんだ」

 赤茶色の水面に映る自分の顔が、手の震えに合わせて小刻みに揺れる。

「ペギーがいなくなってから、オリガ、ずっと変だと思ってた。だからわたしなりに考えたの。他にもおかしいこと、たくさんあると思っていたから」

 趣味や嗜好や特技までもを強制される暮らし。利き手や使う石けんや、紅茶の飲み方まで指図されて。外の世界のことなんて何ひとつ教えてはもらえず、『卒業』した子たちは誰ひとりとしてここを訪ねては来ない。ただひとり、ペギーを除いて。そのペギーだって、まるで別人みたいだった。

 フローラはペギーの冷たい態度を思い出しながら、

「オリガ、ひょっとしてだけどさ」

 顔を上げた。オリガは目を伏せたまま、紅茶の入ったカップを片手に、サナギの抜け殻みたいな無表情でこちらを見つめている。

「わたしたち、記憶を奪われちゃうんじゃないの?」



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