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 そこまで思い出してフローラは日記帳をパタンと閉じた。

 耳と目と鼻と皮膚が、現実の世界に帰ってくる。二〇二一年八月八日の日曜日はよく晴れていて気温はぐんぐん上がっている。ぬるい風に木の枝がなびく。葉に切り取られた日差しがチラチラと揺れる。斜面を埋め尽くす緑の草が、風に押されて一斉にこちらを向く。

 他の子たちが無邪気に遊んでいる声が風に乗って届く。土の匂いがする。雨の前の匂い。空はくっきり青く晴れ渡っているけれど、西の空に立ち上る入道雲には不穏の色があった。

「……日記なんて読んで、楽しいの?」

 オリガが言う。つたない手でギターの弦を弾く。お世辞にも綺麗とは言えない音が、夏の風に連れて行かれて消えていく。

「うん、結構楽しいよ」

「自分が書いたのに?」

「うん」

 フローラは頷き、オリガは目を伏せる。このギターはペギーのものだ。ペギーが残した、左利きの彼女のためのギター。

 オリガがそれを弾く度に、弦を張り直せばいいのにとフローラは思う。でもオリガはその提案を頑なに拒むのだ。毎回毎回。五回目でオリガが怒って、そしてフローラは何も言わなくなった。だからまだオリガは左手で弦を弾き続けている。

 オリガの左手が、ぽろんぽろんと頼りない音を紡ぐ。フローラは目を伏せる。オリガの下手くそなギターの音が、いつの間にかものすごく上手い演奏に置き換わっていく。フローラの頭の中で、ギターを奏でているのはオリガではなくペギーだった。ペギーが弾くギターを、こうやってオリガとふたり並んで聴いた。ペギーとオリガは歌っていた。ペギーが高音を、オリガが低音を。ふたりの口ずさむメロディーは完璧で、当然、その世界もまた完璧だった。

 天気は快晴、夏で暑くて、おまけにその日は日曜日。孤児院の近くの小高い丘。一本だけ生えた木の下で、フローラはふたりの歌に聞き入っている。

 ふたりのメロディーは途切れ、ペギーの手は伴奏を続ける。

「さあ、フローラも」

「わたしも?」

「そうよ」

「でも」

「いいから」

 ペギーがそう言い、オリガがポンと背中を叩く。フローラはふたりに合わせ、覚えている旋律と歌詞を、必死に吐き出した。フローラの歌は下手ではないけれど、それでもふたりと並んで歌うには、あんまりにも恥ずかしかった。

「そうよ、その調子」

 ペギーはほんとうにすごいと思う。ギターを弾きながら歌うなんて。オリガだってすごい。高音に引きずられることなく、自分の歌うべき音程を、しっかり確実に口ずさんでいる。

 フローラが歌うのに慣れたころ、ペギーは少しずつ声を小さくして、やがてまったく歌わなくなった。歌うのをやめたペギー。ギターの音色はますます澄んで透明になり、真夏の風がシンと冷たくなった。目を閉じて、ふたりの歌声を聴きながら、彼女の左手はどこまでも美しい音色をかき鳴らし続ける。

 ペギーとオリガ。ふたりは似合いの『カップル』だった。ふたりの存在する世界はあまりに整い過ぎていで、その世界に入れてもらえることが、フローラにとっては何よりも誇りだった。

 ふたりのことが、フローラは大好きだった。

 ふたりのそばにいられるだけで、自分は幸せだったのだと思う。


「フローラ、フローラ」

 ギターの音を聴きながら、いつの間にか夢の世界を漂っていたらしい。ギターを置いたオリガが、心配するような顔をしてこちらを覗き込んでいる。

「大丈夫? 熱中症?」

「うん、ちょっと。過去に行ってたの」

 まだペギーがいた世界に。完璧だった、あの夏の日に。

「……読み返すの面白いんだ」

 フローラは日記の表紙をなでる。

「ちょっと前のことでも、もういろいろ忘れているんだなーって。ほんと、ビックリしちゃう」

 忘れている。

 そう言った時、強い風が吹いて、木々が、枝が、バサバサと揺れた。オリガの表情もほんの少しだけ動いたのだけれど、でもフローラは気づかなかった。

「……その日記さ、私のことも書いてあるの?」

「うん、たくさん書いてあるよ」

 むしろ最近、オリガのことしか書いていない気がする。

「……そっか」

 そう呟いて、オリガはふたたびギターに戻った。しばらくまた、下手くそな旋律を爪弾いてから、

「フローラ。……私のこと、忘れないでいてくれる?」

 何を言っているのか意味が分からなかった。でも彼女はこちらを見なかった。いつもはものすごく強くてまっすぐな目が、フローラの目を見なかった。

 フローラは首を傾げて、

「何言ってるの? 当たり前じゃない」

 なんでこんな、当然のことを訊くのだ、と思う。

 そんなの日記に書かなくたって、忘れるわけないじゃないか。

 笑おうとした。笑い飛ばそうとした。でも、できなかった。オリガの表情はまじめで、笑い飛ばそうとするにはあんまりにも真剣すぎる顔をしていた。

「……ねえ、オリガ。なんでそんなこと訊くの?」

 オリガの尋常ではない雰囲気に気圧される。フローラは驚いて、無駄に日記帳の表面をなでる。

「……十五歳」

「……え?」

「十五歳になれば、きっと分かるよ。記憶だって思い出だって、永遠に覚えているわけはないんだって」

「オリガ……?」

「どれだけ楽しい思い出も、どれだけ大切な記憶も。いつかはきっと、必ず忘れる……」

 十五歳。

 十五歳になれば、きっと分かる。

「私も日記、つけようかな?」

「どうせ三日坊主でしょ?」

 フローラが笑って言うと、オリガも「そうだね」と肩をすくめた。いつも通りの顔で。いつも通りの、ちょっと大人しそうな男の子みたいな微笑みで。

 いったい十五歳になったら『何』を知らされるんだろう。

 こんなにもオリガに悲しそうな顔をさせる『何か』とは、いったい、何なのだろう。

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