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二〇二〇年十一月二十九日 日曜日
今日は大事件が起きた。オリガが髪を切ってしまったのだ。
ペギーの『卒業』から今日でちょうど一週間。ここ最近オリガはずっと元気がなくて、わたしは心配していた。元気がないだけではありません。ここ最近のオリガはなんだかずっとそわそわしていて、落ち着きがないのだ。アンやジェニファーの些細な言葉に突然怒ったかと思うと、その次にはシュンとして静かになったり。もちろんオリガにとってペギーの存在はとても大きいものだった。でもペギーが『卒業』していなくなったからといって、それだけであんなに元気がなくなったり、落ち着かなくなったりするものなのだろうか?
※
昼食後、颯爽と庭に現れたオリガの姿を見て、フローラはギョッと目を剥いた。
秋の終わりというより冬の始まりだった。晴れた空の色はすごく薄くて、凍るように冷たい風が、穏やかに枯れ枝を揺らしていた。そんな初冬の庭の景色の中を、オリガは大股で歩いてくる。自慢の長い三つ編みをバッサリ切り落とした姿で。ここ一週間、ペギーが『卒業』した後、一番晴れやかな笑顔を浮かべて。
フローラは唖然としたままオリガを見上げた。
「オリガ……。その髪」
「切ったの」
オリガは肩をすくめて、
「自分で切ったの。ダフネから、ハサミ借りて」
フローラはダフネのハサミを思い出す。布断ち用の、まるで悪魔が持っているような大ぶりのハサミ。
「先生、いいって言ったの?」
「言ってないよ。後でめっちゃ怒られると思う」
オリガの言うことにウソはないのだろう。風に揺れる短い毛先は、よく見ればガタガタだった。これではオリガだけでなく、ハサミを貸したダフネもキツいお叱りを受けるのは明白だ。
「フローラ。私、生まれ変わるよ」
「え?」
「もう先生たちの言うことは聞かない。私は私のやりたいようにする。髪は伸ばさない、スカートも履かない。ピアノは辞める。もう女の子らしいことは何もしない」
「オリガ……」
どうして?
そう訊きたかったけれど、言葉がのどにつかえて出てこなかった。オリガがあんまりに晴れやかな顔をしていたから。乱雑に切られた髪の先っぽが、踊るように風に揺れていたから。
その時、フローラの胸はドキンと高鳴った。髪の短くなったオリガ。あらわになった横顔。女の子らしいことを辞めると宣言し、男の子みたいな振る舞いをするオリガ。
「フローラもきっと、そのうち分かるよ」
「男の子みたいになることが?」
「違う違う」
パタパタと手を振って否定するオリガ。ピアノを弾く彼女の手は、フローラの手よりもずっと大きくて骨張っている。
「自分らしく生きること、さ」
趣味も特技も好き嫌いも。体を洗うのにどんな石けんを使うのか、ってことも。
オリガの言葉の意味が、その時のフローラには理解できなかった。今もまだ、理解できていない。
オリガは有言実行の人だ。
それからのオリガの行動力はすさまじいものだった。髪を切り落とした後裁縫上手なダフネに頼んで、自分のスカートをズボンに仕立て直してもらった。さすがにダフネはそれを拒否したけれど――そんなの当然だ。ただでさえダフネは『散髪事件』の共犯者としてマヌエラ先生にこってり絞られているのだから――それでもオリガはダフネに拝み倒し、一日デートを交換条件としてその願いを聞き入れた。ダフネにとって、オリガは憧れの人だった。ダフネは間違いなくオリガに『恋』していたのだと思う。
ダフネが仕立てたズボンを履いたオリガは、そのまま女の子からの脱却を目標に行動を起こした。あれだけ上手かったピアノに見向きもしなくなり、ジェニファーや他の子たちを誘ってバレーボールに興じるようになった。ボールをレシーブするオリガはとても楽しそうだった。フローラは一度もバレーボールの輪には入らなかった。自分らしくバレーボールをするオリガの姿を見るのが大好きだったからだ。
自分らしく生きること。趣味も特技も好き嫌いも、先生たちから押し着せられた生き方を否定すること。先生たちへの反抗。オリガがなんで急に反抗するようになったのか分からない。でもペギーの『卒業』に関係しているのは確かことのように思われた。
『たとえすべてが× × × ×としても、あたしたちの× × × ×は永遠よ』
あのささやきが、オリガを抱きしめた時、ペギーがささやいたあの言葉が鍵になっているのではないか。そう思っているけれど、オリガからの真意はまだ聞けていない。
ズボン姿のオリガは数え切れないすり傷をこしらえ、もちろんその度にマヌエラ先生は大激怒した。そんなマヌエラ先生の隣でフローラが考えていたことと言えば、髪を短くしたオリガはとてもステキだとかカッコいいだとか、そんなことばかりだ。彼女はスラッとして背が高いから、ショートカットもズボン姿もものすごくキマる。オリガは生まれ変わった。自身が宣言したとおりに生まれ変わり、女の子らしさから脱却したオリガは、誰よりも生き生きして輝いていた。ペギーがいなくなって落ち込んでいるかもと思ったが、そんなことは杞憂だった。先生たちの言うことを聞かないで自分らしさを手に入れたオリガが、フローラは大好きだった。
マヌエラ先生大激怒にちなんでもうひとつ。あの時ほど激怒した彼女を見たことはないが、それでもなぜあの時、あんなにも彼女が激怒したのか。
あの時。
あの日、なぜ自分が木に登ったのか覚えていない。その後の出来事が、あんまりにもショックだったから。
大体、木登りなんて上手な柄ではないのだ。でもそれでも自分が木に登ったのは、何か理由があったはずなのだ。降りられなくなった子猫でも、枝に引っかかった風船でも。必要性があったから木に登った。得意じゃなくても、木に登った。
そして案の定、木から落ちた。
その瞬間のことを、まるで巻き戻したビデオみたいによく覚えている。体重をかけるにはあまりに頼りない枝を、右足が踏み抜いた。左足が木の幹を引っかいて、そしてそのまま下へと落ちた。掴んでいた枝が強くしなって葉が揺れた。細い小枝が巻き込まれて、バキバキ折れた。
そして、その瞬間は訪れた。
その時の光景を克明に思い出すことができる。でもあの時、自分には枝と葉の隙間からこぼれる空の色しか見えなかったはずだ。それでもなぜかペギーの表情を覚えていて、彼女はこちらに手を伸ばし、必死の形相で頭から滑り込んできた。
自分を助けるために。自身の危険を顧みずに。
結論。ペギーの判断は正しかった。彼女はフローラを受け止めることに成功し、そしてフローラにケガはなかった。
しかし、
「ペギー……?」
枝と葉の隙間からこぼれる空の青さ。緑の草木と温かな日差し。温かくて明るい日差しの中で、ペギーの左手からだらだら流れる赤い色を見て、フローラはハッと息を飲んだ。
自分はケガをしなかったのに。それはペギーが助けてくれたからであって、
「フローラ」
ペギーは自分の手の傷なんてなかったかのように、優しい微笑みを浮かべてフローラを見つめている。
「ケガはない?」
「う、うん……。でも、ペギーが」
小さな石だか枝だかを引っかけたのだろう。左手の甲から手首を超えて腕へ、ザックリと皮膚が裂けている。縫合が必要なのは素人目にも明らかだった。
でもペギーは微笑みを本物の笑顔にして、
「あたしは大丈夫よ。こんなもの、ツバ付けておけば治るのよ」
そう言いながらウィンクして、そしてようやく自分の腕の傷を見て、
「……やっぱりツバ付けるだけじゃ、無理だわね」
白い肌の滑り落ちる血の赤は、今もなおフローラの目に焼き付いて離れない。あの後、イライザ先生に包帯を巻かれ、右手でスプーンを持っていたペギーの姿を見た。そして自分の罪の重さを感じてわんわん泣いた。
その日、マヌエラ先生は大激怒した。フローラは木登りをしたことを。ペギーは体に消えないだろう傷を作ったことを。
フローラは甘んじてその叱責を受け止めた。自分が怒られたことは納得している。でも、ペギーまで怒られたことは納得ができない。確かにあの傷は将来も残るだろう。でも悪いのはフローラであってペギーではない。どうしてマヌエラ先生は、ペギーのことを怒るのだろう。ジェニファーなんかいつもそこらじゅうすり傷だらけなのに。ジェニファーのことは怒らないのに、なんでペギーには怒るのだろう。
イライザ先生はそこまででもないけれど、ことマヌエラ先生に限っては、ケガをすることにやたらと厳しい。ケガだけではない。他には姿勢が悪いこととか、ちょっとしたクセだとか、あとは利き手がどっちかってことも。
マヌエラ先生はペギーが左利きなのを特に怒っていて、事あるごとにペギーの左手を叩いていたから「この際、右利きに矯正しましょう」と言い締めて、お叱りの会を終わらせた。
マヌエラ先生は本当に意味不明だ。でもペギーの左利きを咎める一方で、アンが右利きなのもダメだと言うのだ。ペギーの左手を叩くのと同じように先生はアンの右手を叩き、その度にアンは泣きながら左手でペンを握った。だったら足でペンを持てばいいのではないかとフローラは思ったが、お叱りを受けたのは昨日の今日だ。実践する勇気はまだない。
ケガをするのもダメ。右手でペンを持つのも、左手で持つのもダメ。アンの左手はぐにゃぐにゃとゆがんだ線を書き、その隣でペギーがいたずらっぽい笑顔を浮かべながら、右手で字とも絵ともつかないぐちゃぐちゃの何かを描いていた。
彼女の左手の包帯が眩しい。
あの左手甲の傷跡を、フローラは生涯忘れることはないだろう。
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