第二話

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 二〇二〇年十一月二十二日 日曜日

 今日の天気が晴れで良かった。わたしは秋の晴れた日が大好き。今日みたいな秋の終わりの晴れた日は特にいい。森一面が黄色い落ち葉で覆われて、その上を歩くとふかふかのじゅうたんの上を歩いているような感じになる。なんか映画の主人公になった気分!

 違う違う。今日が晴れで良かったのはそれが理由じゃない。今日は特別な日だったから。今日はペギーの『卒業』の日だった。『卒業』の日はいつも悲しいけれど、でもそれはおめでたいことなのだから、送り出すわたしたちは笑顔でお祝いしなければならない。

 ペギー。

 わたしにとって、あなたは憧れの人でした。いつかあなたみたいに、大人っぽくてステキなお姉さんになることが今のわたしの夢なのです。そしてあなたがいなくなった後のオリガを、あなたの不在で悲しみの底に沈んでいるオリガを支えるのが、今のわたしの目標なのです。

 ……なんちゃって。こんな風に大げさに書くと、ちょっと小説みたいでしょ?


      ※


 在校生が具体的に何人いるのかフローラは知らなかったけれど、さっき数えたら自分を含めて二十三人だった。一番下の赤ん坊のキャシーはまだ一歳になっていなくて『卒業式』の間、彼女はマヌエラ先生の太い腕の中であうあう声を出していた。

「みんな、今までありがとう」

 見送りのみんなを前にしてペギーは笑顔でそう言った。泣いていなかった。ただ笑顔で、いつものいたずらっぽい微笑みよりも、だいぶ明るくて吹っ切れた笑顔で、みんなのことを順番に見つめていく。

 やがてその視線が、オリガに止まって、

「ペギー……」

 いくらお祝いしなくてはならないと言っても、さすがにオリガは悲しそうだった。今にも泣きそうなオリガ。それでも必死に涙を堪えていて、強ばった微笑みが口の端に張り付いている。

 オリガは一歩、前に出た。大きな花束が揺れて、花びらが一枚、ひらひらと琥珀色の床に落ちていく。

「元気でね」

「ええ……。オリガ」

「うん」

「最後に、ギューってしていい?」

 ペギーのその言葉に、歳下の子たちは軽くどよめいた。一番動揺していたのは多分ダフネだ。ダフネはオリガが好きだから。でもペギーとオリガの仲はみんなの公認なのだから、文句は言えない。

 そして、フローラは見たのだ。ペギーが花束をつぶすような勢いで、オリガを抱きしめた瞬間を。

 実際、花束はふたりの胸の間で軽くつぶれて、花びらが数枚、また床に散った。散った黄色い花びらたちが、ふかふかの落ち葉みたいに、抱き合ったふたりの姿を見上げている。

「オリガ、元気でね」

「うん」

 オリガはもう我慢せずに泣いていた。目から涙がボロボロこぼれているけれど、でもそれは悲しい味の涙ではなかった。

「オリガ」

 その後、ペギーは何か言ったけれど、あまりに小さなささやき声だったので、言っているのか、聞こえなかった。ただなんとなく聞き取れたのは「たとえすべてが× × × ×としても、あたしたちの× × × ×は永遠よ」という言葉だけ。肝心なところが聞き取れなくて全く意味をなさなかった。仮に聞こえていたとしても、あの時のフローラには理解できなかっただろう。フローラだけではない。その言葉を至近距離で聞いて、肝心な言葉を聞き取れていただろうオリガもまた、怪訝そうな顔をしていた。

『たとえすべてが× × × ×としても、あたしたちの× × × ×は永遠よ』

 一体自分たちの全てが、どうなると言うのだろう。一体自分たちの何が、永遠だと言うのだろう。


     ※


 世間一般の『卒業』がどういったものなのかはよく分からない。だから当然、自分たちの言う『卒業』が普通なのか変なのか、フローラには判断のしようがない。グリーンヒル孤児院の『卒業』は十六歳の誕生日の当日で、『卒業式』は昼間に行われることが多かった。

 十六歳の誕生日の、その後。

 十六歳になった子どもたちは、ここを『卒業』して、外の世界で暮らすことになる。そこでの生活がどんなものなのかフローラは知らない。オリガだってダフネだって、きっとペギーだってそうだったのだろう。それでも『卒業』していったペギーの姿は堂々としていたし、外の世界への不安はこれっぽっちも感じなかった。

 外の世界。

 そこでの生活様式は習っていない。知識は映画や小説で少しばかし聞きかじった程度。買い物だってしたことがないし、電車の乗り方もなんとなくしか分からない。お金の数え方も知らないし、大体お金そのものを触ったこともない。自転車に乗ったこともない、バイクや船や車にも、ついでに宇宙船にも乗ったことがない。もっと言うなら、男の子と恋だってしたことがない。ここには女の子しかいないし、先生たちだって女性だけだから。フローラが知っている男の人は、トラックに乗って週に三回だけ来る食料配達のおじさんだけ。おじさんは髪の毛もヒゲも真っ白で、お腹もぷっくり突き出ている。おまけに背は小さいし、足は短いし、でも太ももはフローラのウエストと同じくらいある。大きな声でゲラゲラ笑って、いくら自分たちの知っている唯一の男の人だからって、あの人に恋するなんてことは、ちょっと考えられない。

『恋』というものがなんなのか。それもまた、フローラにとって未知のものだった。

 映画でも小説でも、それらを題材にした作品はいくらでもあった。でもいくら学んだとはいえ実感がないその感情を、フローラはきちんと理解できていない。

 恋。胸がドキドキする。顔が赤くなる。その人と手をつなぎたい、その人とキスをしたい。その人を優しく抱きしめて、そしていつまでも永遠に、その人と一緒にいたい。それを『恋』というのなら、フローラだって『恋』している。フローラはオリガが好きだ。オリガを見ていると、時折、胸がキュッと苦しくなって、でもその苦しみはぜんぜん不愉快じゃなくて、むしろ心地いいのだ。いつも一緒にいるけれどそれでは飽き足らない。たまには手をつなぐしハグもするけれど、でもそういうでは物足りないのだ。本当はキスしたい。いつまでも永遠にオリガと一緒にいたい。

 でも映画や小説の中だと『恋』というのは男と女がするのがスタンダードらしい。もしかしたら自分はオリガに『恋』をしているのではなくて、この胸のときめきだとか高鳴りだとかは、ただの勘違いなのかもしれない。

 いずれにせよ自分は何も知らないのだ。世間一般での『卒業』も、その先で待っている『外の世界での生活』も、もちろんその中で抱くかもしれない『恋』という感情も。

 ペギーは笑って『卒業』していったけれど、内心は分からない。もしかしたらものすごく不安に思っていたのかもしれなくて、でもあのペギーのことだから、それを周りに悟られないように無理して笑っていたのかもしれない。

 外の世界。未知の世界。そこでの生活。

 まだ『卒業』まで、つまり十六歳になるまで丸々一年以上あるのに、今この瞬間、フローラの頭には不安がよぎるのである。

 もちろん楽しみなことだってある。外の世界へ行ったらやりたいこと。とりあえずお姫さまのフリをして、お忍びで新聞記者と一緒にローマの街をデートする。それからシスター・マリー・クラレンス率いる聖歌隊のコンサートを聞きに行くのだ。もしかしたら、ローマ法王に会えるかもしれない。

 それからジュラシックパークにも行ってみたい。だって恐竜を見たことがないから。ウサギや野鳥や鹿なんかは森で見かけることがあるけれど、この辺りに恐竜が棲んでいるという話は聞いたことがない。でもこれは孤児院の仲間たちには秘密の夢なのだ。恐竜に興味があるなんて言ったら、多分みんなに笑われてしまうから。

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