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 夜、久しぶりにアンと『石けん取り替えっこ』をしたけれど、幸いイライザ先生にはバレなかった。

『石けん取り替えっこ』とは文字の通り、石けんを取り替えっこするのだ。フローラはこの遊びが大好きで、特にアンとするのが楽しみだった。アンの石けんの方が、いい匂いがするからだ。自分の石けんの匂いだって悪くはない。でも、好きではないのだ。それに『フローラ』だから花の香りなんて、ものすごく安直な気がしてならない。変な花の匂いではなく、清潔な香りの石けんを与えられているアンが、正直言ってうらやましい。

 お風呂上がり、今日は談話室でココアを飲んだ。紅茶ではなくてミルクがたっぷり入った甘いココア。しかし運がいいことはそう何度も続かなくて、それはちょうど通りがかりのイライザ先生にバレてしまった。ココアだって紅茶だって、甘くて温かい飲みものなのは一緒なのに、なんで先生たちはこうも厳格なのだろう。大きなお咎めはなかったけれど、フローラが注意を受けている間、アンは舌を出して笑っていた。ミルクのたっぷり入った、温かいココアのマグカップを持って。

 アンはスプーンで、沈澱した粉をぐるぐるかき回しながら、

「マヌエラ先生じゃなくてよかったね」

 そう、見つかったのがイライザ先生でよかったのだ。もしマヌエラ先生に見つかったのであれば、ただの雷なんかでは済まされなかっただろうから。

 他の孤児院がどうなのかは知らない。このグリーンヒル孤児院にはルールがある。石けんも食べものの嗜好も、あるいは趣味や特技なんかも、それぞれ決められたことを守らなくてはならないのだ。

 フローラに課せられた好みは『フローラ』の石けんと紅茶。ミルクと砂糖の量は普通にしなさいと言われているけれど、本当はどちらもたっぷり入れたミルクティーが好き。パンに塗るジャムはイチゴかブルーベリーにすること。グリンピースは好んで食べて、アスパラガスは嫌いになること。べつにジャムはなんでも好きだし、グリンピースよりアスパラガスの方がおいしいと思う。でもそれではダメだと先生たちは言う。

 趣味や特技にしたってそう。フローラの趣味は読書と映画。それから日記をはじめとした、文章を書くこと。しつこく要求されなくとも、これらはフローラ自身も好きだ。課せられた好みと自分の好みが一致するのは、この孤児院で暮らしていく上では大きな幸せである。

 オリガとペギーはピアノのレッスンをさせられていたけれど、ふたりともピアノが好きじゃない。オリガは上手だけど、このところは鍵盤に向かっているのをとんと見なくなったし、ペギーに至ってはピアノそのものがあんまり上手くない。ペギーが上手いのはピアノではなくギターだ。ペギーは左利きだったから、ふつうの人とはギターを逆手に構えていた。それで左手で弦を弾くペギー。その姿はすごくカッコよくて、彼女の『卒業』からもう半年以上経つけれど、フローラはいまだにその姿をよく覚えている。


         ※


 その晩、ペギーの夢を見たのはきっと、ペギーの話なんかしたからだ。

 もう何度も見た夢だから、目が覚めても内容は何ひとつ忘れずに覚えている。

 視界は白い光ですごく眩しくて、音もどこか飛び飛びで、でもそのくせして匂いはとても鮮明な夢だった。ずっとずっと昔のことで、あれは自分が十一歳か十二歳かそこらのことだ。そうなれば必然的にペギーは十三歳か十四歳くらいである。今思えば、彼女はずいぶん大人っぽい子だった。

 その夢は、ある真冬の日の出来事だ。朝ご飯の時間、食前の祈りが終わった後のこと。フローラとオリガとペギーは並んでパンを取り、それぞれ定められたジャムやバターを塗り、笑いながら口に運んだ。近くにいたダフネの声も飛び飛びで、パン以外、何を食べていたのかもよく思い出せない。自分の口に入ったブルーベリーのジャムの香りがどこまでも鮮明に夢を追いかけてくる。ブルーベリーの匂いがする爽やかな冬の朝。白くて眩しい光の向こう、テーブルの一番端で、イライザ先生が他の子たちと談笑しながらトーストを食べているのが見えた。

 フローラは遠くのイライザ先生をぼんやりと眺めながら、パンを頬張る。先生は他の子の言葉に笑顔で相づちを打ち、その右手はびんをひたすらに上下に振っていた。一振り、二振り、三振り。やがて濃いシナモンの匂いが、ブルーベリーの香りを押しのけて鼻まで届いてきた。犯人はもちろんイライザ先生。彼女が何にでもやたらシナモンをかけるのは誰でも知っていた話だけど、フローラはこの瞬間まで、それを意識して見たことはなかった。

 四振り、五振り、六振り。眩しい光、飛び飛びの音。でも匂いだけがどこまでも鮮明な記憶の中、むせ返るようなシナモンの匂いとともに、フローラはペギーの笑い声を聞いた。

「あれは、かけすぎよ」

 その通りだとフローラは思う。ここまで離れた席にいても、シナモンの匂いは一向に薄まらずに記憶の中を漂ってくる。

 ペギーは、

「イライザ先生ったら、味覚障害か何かじゃない?」

 途切れ途切れの音の中でも、ペギーのいたずらっぽいささやきはハッキリと耳に届いた。こういう時のペギーは、いつも左目を閉じてウィンクしているのだ。

 そのウィットに富んだ表情が魅力的で、そのささやき声がいつまでも憧れで、

 フローラはスプーンを置いた。ペギーはオリガと話しはじめて、テーブルの上のパンはそろそろ少なくなっていく。スープの匂い、誰かの笑い声。コーヒーの香り、食器がカチャカチャぶつかる音。トーストの切れ端に、また追加でシナモンをかけはじめるイライザ先生の微笑み。

 味覚障害か何かじゃない?

 人のことは言えない。目の前のカップを見る。いつも通り、山盛りの砂糖とたくさんのミルクが入った紅茶。決められた分量を通り越した、ものすごく甘いミルクティー。対して、ふたりの飲みものは大人だ。砂糖もミルクも入れないペギーと、水面にたった一枚のレモンを浮かべただけのオリガ。砂糖もミルクも入っていない、甘くもなんともないそれを、ふたりはさも美味しいのだという顔で飲んでいる。

「いい香り」

 カップの湯気を吸い込みながらペギーはささやき、オリガが頷く。そしてふたりは砂糖もミルクも入っていない、絶対美味しくないだろう紅茶を、美味しそうに飲み続ける。

 フローラはカップを覗き込む。ミルクティーの濁った水面には顔も何も映らない。

 オリガが、

「フローラ? どうしたの?」

「ううん、なんでもない」

「冷めないうちに、飲んだ方がいいわよ」

 今度はペギーがそう言ってくれた。彼女はまたいたずらっぽい顔でテーブルの端を見つめる。視線の先には、紅茶のカップに向けてシナモンのびんを振りまくる、イライザ先生の姿があった。

「うん」

 頷く。ペギーとオリガが会話に戻っていく。声はやっぱり飛び飛びで、何を話しているのかは覚えていなかったけれど、きっと十一歳か十二歳そこいらの自分には、まだ入れないことなんだと思う。

 砂糖とミルクがたくさん入ったミルクティー。それを飲む子どもの自分。きっとペギーやオリガが飲んだら吹き出すだろう。「フローラ、なんであんたこんなに甘いもの飲めるの?」って。

 味覚障害ではないと思う。でも、砂糖とミルクがたくさん入ったミルクティーを飲んでいる自分が、なんだかひどく幼く感じてしまって恥ずかしい。横目でペギーとオリガを見る。自分も十三歳か十四歳になったら、何も入れない、あるいはレモン一枚だけを浮かべた紅茶を、美味しいと言って飲めるようになるのだろうか。


 あの頃。十一歳か十二歳そこらの、フローラの記憶。その時、カップを持つペギーの左手には、例の傷跡があったはずだ。白い枝みたいな細くて長い傷跡。木から落ちたフローラを助けた時にできた、左手の甲の傷。

 今日の昼間、あの大雨の中で出会ったペギーにも、その傷はあった。いくらそっくりさんでも傷跡まではマネできないはずで、だからあの子は間違いなく、ペギー本人だ。

 ペギー。

 本人だとしたら、なんで、あんなに冷たい態度を取ったのだろう。

 眩しい光、音も飛び飛び、匂いだけが鮮明な夢を追いかけながら、十四歳のフローラは、甘いミルクティーとともに浅いまどろみに沈んで行った。


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