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「ペギーがいたのよ!」

 土砂降りの雨は少しだけ治まったけれど、その後また降り出してきて、窓ガラスに叩きつける雨音のせいで会話もよく聞こえない。食器の音も相まって、すぐ近くにいるダフネの声も上手く聞き取れなかった。

「何がいたって?」

 聞き取れなかったのは、オリガも同じだったらしい。オリガとダフネ、それからフローラが、今日の夜の食事当番である。

 つれないフローラとオリガを前にして、ダフネは業を煮やして叫んだ。

「だーかーらーっ! ペギーだって! ペギーがいたのよ!」

 ペギー。

 その名前を聞いて、フローラはピクリと肩を揺らした。あの雨の中の姿を思い出す。黒い傘、おばあさんみたいなワンピース。歩きやすそうな靴の、泥と雨水で汚れたつま先。差し出された右手と、傘を持ったままの左手。腕時計は左につけていた。白い枝みたいな傷も、左手にあった。

 ペギー。

 あれは幻ではなかった。

 唾を飲み固まるフローラ。だがオリガはテーブル越しに身を乗り出して、

「なんだって?」

 聞こえなかったのではあるまい。彼女の眉間には「そんなはずない」とくっきりと縦皺を刻んでいる。ダフネも負けずとテーブルに上半身を乗り出す。

「だから、ペギーがいたのよ! イライザ先生の執務室で話してたの!」

「ウソつけ」

 オリガはひと言そう言って、食器を並べる作業に戻っていく。彼女の言い分はもっともだ、とフローラは思う。ダフネの話はいつも大げさで、全部真に受けていたら心がいくつあっても足りない。

 オリガのそっけない態度が気に入らなかったのだろう。案の定、ダフネは躍起になって、

「本当よ! 私、渡り廊下から見たんだもん!」

 普段ならフローラも「また変なこと言って」とか、笑っていたに違いない。でも今日は違う。やっぱりあれは見間違いではなかった。自分の勘違いでもなく、あの雨の中、ペギーは確かにここにいたのだ。

 あれは幻ではなかった。あれは現実の出来事だった。

 向かい側のオリガに、今にも食ってかかりそうなダフネ。まあまあと彼女を制しながら、フローラは、

「ねえ、ダフネ。その、ペギーと話したの?」

「話してないよ。だって私、見ただけだもの」

 イライザ先生の執務室。渡り廊下の窓から遠く、小さな彼女の横顔が。

 オリガは鼻で笑った。男の子みたいな強気の笑みで、

「じゃあやっぱり、何かの間違いだ」

「間違いじゃないって! 私、見たんだから!」

「いいや、絶対違うね。見間違いだ。でなきゃ、幻。……ダフネ、あんた夢でも見たんじゃないの?」

 こうなったらもう話は平行線である。

 言い合いを続けるふたりの隣で、フローラは黙ったまま食器を並べ続ける。銀色のスプーンの凸面が、自分の顔を醜く反射している。裏返して置くと、今度は凹面が、やはり醜く自分の顔を間延びさせている。

 疑問点は、いくつかあった。

 ペギーはいた。ダフネも見た。自分だけの見間違いではなかった。でもペギーの様子はおかしかった。「久しぶり」とか「元気だった?」とか何も言われなかったし、名前も呼んでくれなかった。傘にも入れてくれなかった。ダフネはペギーと話をしなかった。だから彼女の異変を知っているのは多分、自分だけだ。

「ほんとに見たんだってば!」

「いいや、勘違い!」

「ほんとにほんとにホントなんだって!」

 執務室、渡り廊下。上品なシニヨンと、おばあさんのワンピースを着たペギー。自分が見た光景に一歩も引かないダフネと、それを冷ややかに否定するオリガ。今日のオリガは少し変だ。頑なで、しかもちょっと怒っている。オリガだってそんなに否定することはないのに、と思う。はいはいそっかそうなんだねと、調子良くダフネの話に合わせておけばいいのに。

 オリガがあまりに強く否定したので、さすがのダフネも今度こそ黙った。これでこの話は終わり。気まずい沈黙を雨音が覆い隠し、三人は食器を並べ続ける。

 変な話だ、とフローラは思う。

 自分とダフネが見たペギーのこともそうだけど、それ以上にオリガが変だ。なんでオリガはあんなに強く、ダフネが見たペギーのことを否定するのだろう。今まで卒業生が訪ねてきたことは一度だってなかったけれど、でも訪ねてきてはいけないとか、そんな決まりがあるわけじゃない。

『卒業』したペギーが遊びに来た。別にそれだけなら、なんてことはない。でもオリガの中では、そんなことはありえないことになっている。あの口ぶりはまるで、実はペギーは死んでいて、彼女がここに来ることはありえないとか、そんな風ではないか。

 気まずい空気は夕食の直前まで続いた。他の子たちが集まってきてもダフネはムスッとしたままで、一方、オリガの心はここにあらずだった。あれだけダフネの言葉を否定した頑なさはどこかへ行ってしまい、短時間の間に眉をひそめたりぼんやりしたりを繰り返した。食前の祈りにも身が入らず、手を組まずにボーッとシチューを眺めていた彼女を、イライザ先生はみんなの前で注意した。

 落ち着かない食事の時間。オリガは機械的に右手のスプーンを上下させ、一口よりも明らかに少ないシチューがちびちびと口に運ばれていく。必然的に、フローラの咀嚼そしゃくも機械的になった。もそもそしたパン、一口、二口。シチューの濃厚なクリームの湯気の中、強いシナモンの香りが鼻をつく。匂いの根源は、見なくとも分かる。イライザ先生は毎食飽きもせず、トーストに尋常ではない量のシナモンシュガーをかけるのだ。

 雨の音、他の子たちの笑い声、食器がぶつかる音。冷めてドロっとしたシチューの表面を突きながら、フローラはそっと目を伏せた。

 ペギーが遊びに来た。でも何かおかしかった。でもそれ以上にオリガの方がもっとおかしい。

 結局、イラついていたダフネはシチューを三杯もおかわりし、フローラは一人前だけを綺麗に食べ、そしていつもは残さず食べるオリガが、半分も残した。

 今日は解せないことがたくさんあった。

 あのおばあさんみたいなワンピースを着たペギーの姿が、頭から離れない。

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