第35話 新風
「僕は、紅葉さんの笑顔が好きだった。紫織さんや、橙花さんと一緒にはしゃぐ顔も、僕に向けてくれる優しい顔も。それは僕だけじゃなくて、紫織さんと橙花さんも同じはずで、たとえ僕らのそれが紅葉さんの重荷になっていたとしても、こればっかりは変えられないんだ」
つくもは、あたしの高慢を罰した『風』への問いには答えず、それでも自分の目に見えるものから言葉を紡ぐことで、空虚な反論を自ら噤んだ。
相手の気持ちを慮り、意味のない慰めをしないのは間違いなく美点だ。つくもは、言葉の持つ力と、その重さをちゃんと理解している。でも……だからこそ今はどんなに空虚でもいいから、あたしが『風』に嫌われてはいないのだと言ってほしかった。それがどれだけ無責任な言葉でも、あたしは悪くないのだと言ってほしかった。
だからか、不意にあたしの口は……あたしの理性の働かない一瞬の隙をついて、目の前にたむろする現実への不平不満を洩らした。
「……それは、あたしが自分のことを普通にできていた頃のあたしで、今みたいにみんなの力を借りなきゃ何ひとつできないあたしじゃない」
あたしが俯いた勢いで洩れて出た言葉に対して、つくもはすぐさま「それは違うよ」と緩やかな口調で告げる。何が違うのさ、と八つ当たりのような言葉遣いで怒鳴りかける自分をどうにか理性が組み伏せて、静かに――だけどきっとさっきよりは遥かにキツい目つきで、つくもを睨んでしまった。
つくもは少し……まるで言葉を選ぶように間をあけて、たっぷり数秒の沈黙のあと、口を開いた。
「確かに、紅葉さんはあの事故のせいで以前と比べて出来ることがかなり減っちゃった。僕たち家族の手を借りなきゃいけないことも増えた」
「じゃあ、やっぱり嫌われちゃうよ。あたしが
「理由なんてなくていい!!」
それまで静かに諭すような穏やかさを見せていたつくもの、激情にも似た慟哭は、あたしだけでなくその家の端から端まで響いたはずだ。
「友達が友達であることに、家族が家族であることに、理由なんてものはないんだ。僕は……事故で家族を失った。転校を繰り返して、何度も友達と離れ離れになった。だから……そのつながりを失うことには何かの理由があると思う。でも、その『つながり』そのものに理由なんてない。……誰もが何かに対して悩みはじめると、自分が楽になるために「理由」を欲しがってしまう。でもないものはないんだ。僕と紅葉さんが親子だという証明だって、たった一枚の紙きれを燃やせば証明なんてできなくなる。だけどそれでも僕らは親子だ。もしかすると、いつか何かの理由でこのつながりが切れてしまうことだってあるかもしれない。でも、だからこそ『つながり』そのものに理由なんてないんだ」
「つながりに、理由はない……」
「そう、つながりに理由や証明はないんだ。つながりっていうのは、お互いがお互いをどう思ってるか、なんていう曖昧であやふやなものでしかない。僕は紅葉さんをお母さんだと思ってるけど、それが僕の一方的な想いじゃないと否定できる人なんていないんだ。もしかすると紅葉さんは僕のことが嫌いで、一度助けた義務感から僕を養っているだけかもしれない。仮に「そうじゃない」と紅葉さんが否定しても、言葉はいくらでも本心を偽る。気持ちを語る上で、言葉ほど信用できないものはないんだ。だから、疑おうとすればいくらでも疑える。だからこそ、そんな「想い」だけで構築された「つながり」が曖昧であやふやなものになることは、仕方のないことなんだ」
つくもの言う「つながり」というものへの不安定さは、誰もが「答え」という中毒性の高い慰めを求めてしまう「不安」への回答にも感じた。
確かに、つくもの言う通りつながりは常に一方的だ。あたしが紫織に対して向ける愛情と、紫織があたしに対して向ける愛情が、必ずしも同じものだと誰が証明するんだろう。もしかすると愛情というものに対する捉え方すら、最初から食い違っているのかもしれない。だけれど、それを確かめ合う方法なんて言葉しかない。でも、その言葉こそが最も人の心を偽る。偽ること自体が悪いわけじゃない。相手との衝突を避けるため、相手を傷つけないために偽ることもいっぱいある。でも、相手を想えば想うほどに偽りが増してしまうかもしれないのなら、やはり言葉ほど信用のないものはないんだ。
誰も彼もが、そんな不安定な気持ちを一方的に向けていて、たまにそれが互いに同じものを向け合っていることがある。だけど、それが本当に同じものなのか、同じ「形の名前」を被った別の想いなのかは、誰にもわからない。時にはそれを向けている本人でさえ。なんせ、あたしも紫織に向けているものは「友達」というつながりだと思ってたけれど、きちんと自分の顧みたことで「愛情」だということに気付いたからだ。
「だから、僕たちにとって紅葉さんは家族だ。理由なんてない。僕らがそう思いたいから、僕らはそう思ってる。紅葉さんが二人を家族だと思う前に友達だと思いたいのなら、そこにも理由なんていらない。紅葉さんがそう願うなら、紫織さんと橙花さんは紅葉さんにとって間違いなく『友達』で、僕を含めた三人を家族だと思いたいのなら、僕らは間違いなく『家族』なんだ」
「……はは、情けないな。まだ中3になったばっかりの子供に、こんな風に諭されるなんて……」
「ううん。僕だって偉そうに言いはしたけど、たぶん同じ状況なら同じように悩んじゃうと思う。でもそういう時にきっと、紅葉さんなら僕のために必死に言葉を探してくれたはずだよ。だって紅葉さんは、運動だけじゃなくて頭もいい、めちゃくちゃカッコいい『
◆
つくもと話し終えた後、あたしはつくもに車いすを押してもらいながら、ダイニングでピリピリとした雰囲気を放ち続ける二人の元へと訪れた。
退院して以来、食事やトイレ以外で自分から積極的に部屋から出たのは初めてかもしれない。だからか、紫織と橙花はあたしがダイニングに入るなり、驚いた様子であたしに駆け寄り、左右から思い切り抱きしめられた。紫織はともかく、橙花もか……なんて思ったけれど、そもそも橙花が「コミュニケーションの天才」なんて言われてるのは、この子が人一倍寂しがり屋で、友達想いだからだ。そういう意味では、普段の物静かで穏やかな態度からは想像もつかないほどにわんわんと泣きながらあたしの名前を連呼している紫織の方が、よっぽど「らしくない」かもしれない。けれど、そんな風に自分のことには目もくれずあたしを想ってくれてるんだと思うと、あたしはどうしてこの二人の友達でいることに不安なんて覚えたんだろう。
「そうだ……最初からこうしていればよかった、これだけでよかったんだ……。あたしが家族を求めてれば……家族はいつだってそれに応えてくれてたんだ……!」
あたしたち三人は身を寄せ合いながら年甲斐もなく大泣きして、気付いた時にはもう日が傾きかけていた。つくもはというと、そんなあたしたちのためにお昼ご飯を用意してくれていたのだけど、あたしたちが泣き止む時にはすっかり冷めてしまっていて、あたしたちは「つくもには悪いことしちゃったね」なんて苦笑いしかできなかった。
「……そうだ、しおしお!『アレ』持ってこなきゃ!」
「あっ! そうね、すぐに持ってくるわ!」
でも、そんな泣き笑いの中で不意に立ち上がったのは橙花だった。思い出したように声をかけると、駆け足で橙花の部屋へと向かった紫織が、ついでに自室で寛いでいたであろうつくもを連れて、何か長方形の箱のようなものに包まれた何かを運んできた。
「何これ?」
「くーちゃんの心が落ち着いたら渡そうと思って準備してたものだよ。わたしの伝手を使って、しおしおがお金を用意したんだ! つっくんもお小遣いをちょっと減らして協力してくれたんだよ! まぁ、車を買う予定はかなーり遠ざかっちゃったけどね!」
うちの財政は、お金に厳しく数字に強い紫織が徹底的に管理している。さほど裕福な方ではないし、かといって生活費のどこかを削らなければならないほど貧乏でもないけれど、そんなギリギリのラインを維持しながらつくものお小遣いまで捻出している紫織が、あたしのために色んなお金を犠牲にして買ったもの……。
いや、紫織だけじゃない。確かにお金は紫織が管理して捻出したものかもしれないけれど、それに協力してくれたつくもなんて、今が一番遊びたい盛りで、一番お金を使いたい時期だ。なのに、あたし一人のための贈り物に自分のお小遣いまで削られることに、文句を言う様子もない。橙花だって、この贈り物が何かはわからないけれど、その口ぶりからして橙花でなければアクセスできない人材だったんだろう。これは……家族みんながあたしのために色んなものを犠牲にしながら出来上がったものなんだ。
あたしは三人に「ありがとう」と深く頭を下げて、包みを開けてもいいか尋ねると、橙花に「早く開けて」と急かされた。つくもに筆立てに置かれたカッターナイフを取ってもらって、袋のテープを丁寧に切っていく。紫織が「そんなに丁寧に開けなくても」と言うけれど、これは別に今回のものに限らず、袋モノを開ける時はこうしているんだから、性分だ。
「こ、これって……!」
その箱の中にあったのは……あたしの名前と同じ、
「まぁ別にまた陸上やるとは思わないけどさ、バイクには乗りたいでしょ?」
「スポーツ用のカーボン義足はさすがに手が届かなかったけれど、これならツーリングくらいはできるらしいわ」
「また僕を後ろに乗せて走ってよ、紅葉さん!」
――赤とは、紫と橙とをつなぐ色。
――赤を失えば、両者のつながりはおろか己を紫とも橙とも保てなくなるものだ。
――お前たちがなぜ、赤であり紫であり橙であるのか。
――それを努々忘るることなきよう、黒白に彩られた未来を歩み続けよ。
「……?」
「どうしたの、紅葉」
「……いや、今なんか、風が吹いたような……」
「え、こんな締め切った部屋で?」
「まぁ、たぶん気のせいかな?」
あたしが周囲を見回しても、物が散乱した様子もなければ、日めくりカレンダーさえも微動だにしていない。
不思議な風だった。温かく、そして強く厳しい風だった。
この風が……あたしの新風なんだろうか。
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