第34話 風
あたしが右足を失ったあの事故から半年が経過して、つくもが3年生へと上がった。恋人や友達との付き合いも良好で、しばし食卓の明るさに彩りを与えてくれている。紫織とは婚約状態を保ったまま、入籍を保留しているのが現状だ。紫織には、もしもあたしに愛想が尽きたなら好きにしていいと言ったけれど、未だに彼女はあたしの傍にいてくれる。正直、一番心配なのは橙花だ。あの事故の直後から、橙花はたまにフラっと出掛けてはフラっと帰ってくる日々を繰り返している。バイト先の神社には断ってるみたいだけど、何をしてるんだろう。……いや、何をしていたとしても、少なくともあたしの介護に付き合うよりは楽しいだろうし、あたしが橙花を縛り付ける理由なんて何もないはずだ。
……自分の精神状況が明らかに以前の自分と比べてネガティブになっていることは自覚がある。そのせいでリハビリにも時間が掛かってしまって、退院が長引く一因になったことも。そんな状態だからこそ、あたしは家に帰るのが何より怖かった。みんながこんな風になったあたしを不要だなんて言わないとわかっていても、みんなに必要とされる理由を探すのにわざわざ頭を動かさなきゃいけなくなってしまった現状に焦燥感を感じるのは仕方のないことだ。……と思う。
紫織も、橙花も、つくもも。みんながあたしに優しくしてくれるたび――自分の無力さを突き付けられてみじめになるのを必死に隠しながら「ありがとう」と言葉を偽るのをどれくらい繰り返しただろう。大好きな人たちに偽りしか返せない自分が情けなく思う。そればかりか、以前は心ごと口にしていた言葉が偽りになっている今の自分がひどく醜いものに思えてしまう。
「紅葉さん」
「……つくも?」
あたしがベッドから上半身だけを起こして自己嫌悪の渦に囚われていると、そんなあたしを現実へと引っ張り上げたのはつくもの声だった。
休日ではあるけれど、普段なら金萌ちゃんやお友達と一緒に過ごしている真昼間に、どうして
それでも、ドアの前に突っ立たれたまま話すというのは、物理的にも精神的にも距離を感じる。あたしは紫織たちがあたしの介護用に置いた丸椅子を指さして、そこに座るよう促した。
「こうやって二人だけでおしゃべりするのは、少し久しぶりな気がするね」
「……うん。あの事故があってから、紅葉さんすっかり元気がなくて、僕じゃ何もできないし……元気づけようとして変なことを言うのが怖かったんだ。だから……」
だから、避けてた。
なんとなく気付いてたよ。あの日、事故の直後に紫織と橙花がつくもを絹衣さんに預けたところまでは本当だったんだろうけど、その後に集中治療室から一般の病棟に移動してからも二人はお見舞いに来てくれたけれど、つくもは一度も来なかったからね。それがどういう理由であれ、あたしはそれを不義理だとか不人情だなんて言える立場じゃない。子供にとって一番デリケートな時期に大怪我をして、不安と恐怖を煽ってしまった。特に、つくもの場合は――、
「交通事故って怖いよ。本当にいきなり来るし、時にはこっちがどんなに交通ルールやマナーを守っていても、それ以上に周囲に気を配っていても避けられないことだってある。僕のお父さんとお母さんも、そうやって死んじゃったし……今度は紅葉さんがそうなるんじゃないかって怖かった。だから紅葉さんがこの家に帰ってくるまで、僕は紅葉さんを直視できる自信がなくて、紫織さんと橙花さんに事情を話して行かなくていい理由を作ってもらってた。僕は紅葉さんを避けて……ううん、もっとひどいかもしれない。僕は逃げてたんだ、紅葉さんから……目の前の現実から」
かつての力強さなんてとうに失ったあたしの右手を、つくもはその白い両手で優しく柔らかく握りしめながら、その真ん丸の瞳でまっすぐにあたしの
「でも、もう逃げない。僕には紅葉さんの苦しみはわからないけれど……紅葉さんがその苦しみを吐き出せるのなら、僕はその言葉をなんだって受け止めるよ。怪我のつらさも、したいことができない苦しみも、やり場のない怒りだって、僕がちゃんと聞くから。だから……」
――紅葉さんも僕らから逃げないで。
つくもの言葉に、思わずはっとした。
あたしの中に、逃げるという選択肢がいつからあっただろうか。この怪我を負ってから、あたしの中にぐるぐると渦巻く感情は間違いなく、どうすることもできない現実を直視し続けたことで湧き上がって来ていたし、そこからまるで連想ゲームでもするかのようにズルズルと連鎖的なネガティブがあたしをメッタ打ちにしていたように思える。だから、あたしは絶対に「逃げることだけはしていない」というのが、あたし自身が自分の弱さを否定できる最後の柱だった。
でも……そもそもそれは間違いだった。あたしは現実を見つめていたわけじゃない。つらい現実という「逃げ場」に目を遣ることで、本当に見つめ続けなければならない大事なものから目を逸らし続けていただけだった。紫織と、橙花と、つくも。あたしが他の何もかもを投げ捨てて、他の何もかもから逃げても、これだけは……この居場所だけは見失っちゃダメなはずの場所から、自ら逃げて目を逸らしていた。
「……つくも」
「うん」
あたしはゆっくりと語り始める。
「あたし……子供の頃にね、おじいちゃんに「乙女たるもの文武両道であれ」って言われてさ。それからずっと、
あの時ばっかりは、普段は優しいおじいちゃんがとにかく厳しくて苦手だったけど、無意味に怒鳴る人じゃなかったから、学びのない厳しさは一切なかった。
それは当時のあたしでも子供ながらにわかることだったし、おじいちゃんの指摘を守れば、常にあたしはそれ以前のあたしよりも強くなれていた。
「そしたら……あたしにはどうやら『
まぁ、それをインタビューでバカ正直に語って「全陸上女子を敵に回した『高慢な最速王』」なんて言われたことは、今としては黒歴史もいいところだから黙っておくけれど。
でも……そうだ。あたしはあの風が本当に好きだった。気持ちがよかった。あの風を浴びられると思うからこそ――走ることも楽しかった。
「中高大と陸上を続けたけれど……社会人になってからは自宅で自主トレくらいしかできなくなった。最初はジムに通って紛らわせていたけれど、会社がとんでもないブラックさで、ろくに通う時間もとれなくて、入会して半年も経たずに退会しちゃった。都会の生温い風はとにかく気分が悪くて……それを誤魔化すように、二輪免許を取って、バイクに跨るようになった。あれは本当に、ただの慰めでしかなかったんだ。でも……気付いたらマシンと一緒に風を切っていく楽しさもわかった。それを教えてくれたのが
なぜなら、その思い当たる節というのが夢の中の出来事だからだ。事故から目覚める直前に見たあの夢……おじいちゃんの「声」を振り切ってあたしの右足を掴んだ「闇」を振り払い、自分を投げ出してあたしを「光」へと届けてくれたのは、あの事故の時に乗っていたCBRではなく、あたしの相棒ともいえる
だから……あたしはそんな
「……あたしはあの日、右足を失った。そして
「…………」
「あたしはどれだけ高慢であっても、あの大好きな風を独り占めしたかった……! あたしだけが浴びる風が、あたしと相棒だけを切りつける風が、何より好きだった……! それだけだったんだ……!! それが、この足と相棒を喪わなきゃいけないくらい悪いことだったのかなぁ……!?」
つくもは、答えない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます