第33話 しつこくからみつく孤独の恐怖

目を覚ましたあたしのために、紫織はすぐさまナースコールをしてくれて、そして今回のあたしの担当となった先生に自分の状況を改めて聞いた。

 右足の切断は避けられなかった。右手・右腕の粉砕骨折は全治3か月以上、リハビリは一年以上かかることもあるかもしれない。脳検査では目立った問題は見つからなかったが、後々精密検査をして後遺症の有無も確認する必要がある。これだけの傷を負うほどの事故にしては、全身への打撲・裂傷が少なかったのは、吹き飛ばされた先が田んぼで、柔らかい土がクッションになったおかげだという。不幸中の幸いと呼ぶには、不幸が大きすぎる気はするけれど。

 

 右足切断、かぁ……。ランナーとしても、ライダーとしても、お終いだ。それどころか、まともに立つことも叶わないんじゃ、畑仕事だってできないかもしれない。この家で、みんながそれぞれに役割を果たしながら手を取り合い、肩を並べて生きていこうとしていく中で……あたしだけが、みんなの背中に負ぶさるお荷物になるのかな。それは……嫌だ。二人の未来をあたしのせいで狭めてしまうくらいなら、いっそあのまま「闇」に身を任せればよかったのかもしれない。

 だけど……あたしの目覚めにこんなにも涙を流してくれる紫織と橙花や、今もあたしの帰りを信じて待っているはずのつくもと、そんな彼を預かってくれている絹衣さん。みんなが、あたしを「光」に引っ張ってくれたんだとしたら……あたしは、どうするのが正解だったのかと悩む。

 冷静になるほど、自分が彼女たちの邪魔にしかならないことを理解してしまう。熱くなるほど、何もできない自分に腹が立つ。

 だけど――それでも思考を止めることだけはできなかった。あたしが悩んでもがいていくほどネガティブは加速していくけれど、そのネガティブの底の底にしかない光を見つけるまでは、この怒りも悲しみも滾りも戸惑いも、必要なものだと思わないとやっていられない。


 担当医が下がっていった後、紫織の瞳の紫色に映り込んだあたしの赤色が、溶けて混ざって揺らめいて、彼女は静かに「何かしてほしいことある?」と問いかけた。

 あたしは……何も言わなかった。今、したいことならいっぱいある。だけどそれは、きっと本来なら紫織の手を借りるようなことじゃなくて、あたし一人でもどうにかなったようなことで……それを口にしてしまったら、あたしはきっとなんの罪もない紫織に当たり散らしてしまうから。だからどうしても彼女でなければできないことを言った。


「一緒に居て」

「それはこっちの台詞だわ」


 動かない体をどうにかよじって左手をベッドの上に出すと、意図を察してか紫織は包帯まみれの左手を握りしめながら、あたしの胸の中で泣き始めた。

 なんで紫織が泣くのさ、なんて聞いてみれば、「だってあなたは泣かないじゃない……!」と絞り出したような声で言うものだから、あたしは何も言えなかった。そっか……あたしは泣くことさえ、誰かに代わってもらわなきゃいけないんだ……。ごめんね、紫織。君の笑顔を増やしてあげたいと願って、君の涙を減らしたいと思って、あたしたちは婦妻ふうふになったのに……あたしは君の涙を増やすことしかしていない。

 静かに声を殺して泣き続ける紫織を前にして……あたしは無力に嘆くことさえ罪なんじゃないかと思えてきた。





 翌日も、翌々日も、その次の日も、紫織と橙花はあたしのお見舞いに来てくれた。つくもの様子も聞いた。とても寂しそうにしているけれど、あたしが帰ってきた時のために友達に支えてもらいながら笑顔を絶やさないようにしていると。

 みんながあたしを支えてくれている。あたしを支えようとする人を、他の誰かが支えてくれている。そうやって――あたしは家族だけじゃないたくさんの人にも支えてもらいながら、どうにかこうにか生きている。

 だけど、面会の時間を過ぎれば望まないながらも一人の時間が必ず訪れる。孤独ってのはダメだ。人を弱気にさせる。二人が居る時なら絶対に考えないようなことまで、不意に脳裏をチラつくようになってしまう。あたしが恵まれていることなんてわかってる。みんながあたしの復帰を待ってくれてることも。なのに……どうしてかあたしの周りをうろつく「闇」はあたしの声で「紅葉おまえさえ居なくなれば誰も苦労しなくて済むのに」と囁くんだ。


 わかるよ。あたしさえいなければ、みんなが自由になる。紫織はあたしよりももっと素敵な人を見つけるだろうし、橙花はあたしのために削ってる楽しい時間を取り戻せるだろうし、つくもだって恋人ちゃんや友達といっぱい遊べるはずなんだ。あたしがそれを阻んでいて、みんなはそんなあたしのわがままに付き合っているだけなんだ。

 わかるよ。みんながそんなことを望んでないってことくらい。紫織はあたしよりも素敵な人なんていないと言ってくれるだろうし、橙花はあたしたちみんなでいる時間が何よりも楽しいと言ってくれるだろうし、つくもは恋人や友達と遊ぶ時間と同じくらい、家族みんな一緒にいる時間が嬉しいと言ってくれるってことは。みんながそれを望んでいて、あたしはそんなみんなに求められているんだ。


 でも――『そんなみんなの求める「あたし」は、だいたいのことを自分で出来ていた頃の「あたし」だ』と「あたし」が言うんだ。


 悔しさに手を握りしめることさえできないなんて、本当に無様で、みじめだ……。

 こういう時はとことん自分を甘やかせ、自分を責める声なんて全て無視して、ただ自分にとって都合のいい言葉だけを頭に入れるんだ。そんなメンタル管理法を思い出すけれど、それが出来るうちはまだ大丈夫だ、なんていう不都合を恨むような声が必死にポジティブを掴み取ろうとする思考を掻き消してしまう。

 孤独はダメだ。本当にダメだ。孤独から縁遠かった学生時代と、孤独に叩き落された社会人時代と、大好きな家族ができて孤独から抜け出した今……孤独の恐怖がわからなかった頃と違って、今のあたしはその恐怖を知っている。あたしは――この足を喪ったことももちろん辛いけれど、何よりも辛いのはこのガランドウの足が家族を繋ぎ留めている「きづな」という名の希望の綱までもを喪わせて、本当の孤独に堕ちてしまうことが、何よりも怖くてたまらない。


(己の往く道に迷いあらば――その迷いこそ天命と心得て駆け抜けよ、か……。無理だよおじいちゃん、あたしはそんなに強くない……。この空虚からっぽな足が天命だとすれば、カミサマってすごく残酷だ……。乗り越えられない試練を与えないなんて、どこの嘘つきが言ったんだよ……)


 逃げてしまいたい。

 点滴のたびに肌を貫く針から。美味しくないごはんから。自分の不自由を突き付ける車椅子から。病院ここから逃げてしまいたい。

 健気な愛情を注ぐ愛妻しおりから。必死に明るく振舞う親友とうかから。帰りを信じて待つ息子つくもから。幸福ここから逃げてしまいたい。

 でも、そんな逃げの一手も打てないくらい、あたしは無力で……現実が時を刻むほど、あたしはあたしの無価値を望まなくとも自覚していくんだ。


「……夜ってこんなに長いんだ……」


 朝焼けを彩る紫。昼間に輝く白。夕空を照らすオレンジ。この空を描く色が紫と白と橙なら、赤いあたしだけが仲間外れだ。

 赤が抜ければ何もなくなるあたしと違って、紫と橙ふたりは赤が抜けても残るものがある。それがまるで今のあたしを表しているようで――ダメだ、よくない考えばかりが止め処なく溢れてしまう。こんな思考が当たり前になってしまう前に、夢の中に逃げてしまおうか。

 そう思って目を閉じても、澄んだ思考には次から次へとネガティブが押し寄せてくる。もういい、もういいだろう。あたしを苛むネガティブを払いのけるように身をよじっても、掛布団ひとつ引っぺがすこともできない非力さに呆れと溜息が出る。


(明日も紫織と橙花は来てくれるのかな)


 来てほしい気持ちと、もういっそ見捨ててほしいって気持ちが混在してる。本音はどっちかと問われたら、もちろん前者だけれど、妙に仄暗く沈んだ考えが「後者が正しい」と嘯いて、あたしを孤独へと陥れようとする。もう嫌だ。こんな気持ちになってしまうことももちろんだけれど、それ以上に――大好きな家族とのきづなを疑い、拒み……かつての自分を羨むようになってしまったら、誇れる自分が遠ざかっていくようで……みじめで、みじめで、みじめだ。

 それでもここを逃げてむこうに行こうと考えないくらいには、あたしの中にまだ家族に甘えたい気持ちと、それがみんなに対する最大の裏切りになることを理解する理性が働いているんだろう。これすらも失ったら、今度こそ本当にあたしは終わりだ。


(おじいちゃん……。どうかあたしを、見守っていて……)


 どうしてか、大好きな家族ではなく、もう此の世ここにはいないおじいちゃんにそれを願ってしまった。

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