第32話 暗闇の中の声
私たちが病院に到着してもまだ、紅葉は手術室の中だった。対応してくれた看護師さん曰く、やはり電話口で話した通り右足の切断は免れないらしい。加えて、咄嗟に身を守ろうとしたのか右腕も粉砕骨折しており、もしかすると脳機能の一部にも影響が出ているかもしれないとのこと。
119番通報したのは、紅葉に接触した車に乗っていた男性だそうだ。今は現場で警察から事情聴取を受けていてこの場にはいないけれど、彼がハンドル操作を誤ったことで紅葉がこんな風になっているのだと思うと、怒りも恨みも憎しみも止め処ないほどに溢れてきた。それでも、彼もまた追突被害に遭っている側だという橙花の言葉を聞き入れる程度には、まだ私にも理性が残っていた。今回の事故の経緯は、中間車両に取り付けられたドライブレコーダーにその全容が映っていた。ようは3台の車両による玉突き事故。加えて、最前車両である紅葉のバイクは待避所で停車していたので有責0割、中間車両はハンドル操作ミスによる有責2割、衝突した最後車両が有責8割となる……のだけれど、その最後車両が現在逃走中。そちらは現在、警察が対応してくれているらしい。
……手術の時間は、正確には覚えていない。
看護師さんからの説明を受けて一時間程度だったようにも思うし、あるいは一晩を明かしたような気さえする。橙花に訊ねても、「わたしだってわかんないよ」と普段からは想像もつかないくらい投げやりな語気で言われてしまって、それもそのはずと謝った。私にとって紅葉が掛け替えのない大切な人であるのと同じように、橙花にとっても紅葉は他の何にも替えられない大事な親友なのだから。
「……しおしお!」
「――ッ!」
橙花の叫ぶような声に顔を上げると、手術室のランプが光を失っていて、私たちは慌てて立ち上がると、中から現れた医師に紅葉の容態を訊ねた。
「手術は無事に終わりました。看護師から説明は受けたと思いますが、右足の切断は免れませんでした。右腕もかなり複雑な粉砕骨折で、完治には長い時間を要するでしょう。他にもいくつか損傷が見られましたが……なにより出血がひどく、通報・応急処置・搬送、そして手術、どれかひとつでも遅れていたり間違っていたりすれば、助からなかったでしょう」
「……では、紅葉は大丈夫なんですか?」
「少なくとも、手術そのものは成功です。また改めて精密な脳検査を行う必要はありますが、じきに目を覚ますでしょう。その後の経過については我々も最大限のサポートを行いますが、何よりご家族やご友人による心の支えが必要です。必要なものやお金のお話はまた後で看護師から伝えますので、ひとまず私はこれで失礼します。それでは」
「ありがとうございました」
私と橙花が頭を下げると、しばらくして先ほどの看護師が再び声をかけてきた。
紅葉の入院にあたって必要な保険証や衣類・タオルなどを記載した書類や、入院にあたって同意書のサインを行い、しばらくは集中治療室に入って様子を見るため、基本的に家族以外の面会はできないらしい。配偶者である私はともかく、我が家は一般的な家庭とは少しズレた環境であるため、事情を説明したところ「家族が特別に認めた相手なら大丈夫です」とのことだったので、面会には私と橙花が交代で行くことにした。一応、中学生以上の子供も大丈夫ではあるらしいけれど、つくもをここに連れてくるのはあまりにも酷なように感じた。
「ひとまず、しおしおは絹衣さんに連絡しておいて。つっくんも今日はそっちに泊めてもらお。わたしは今から家に戻って、必要なもの全部もってくる」
「わかった」
「あとすっかり忘れてたけどくーちゃんの職場にもね!」
「ええ。……こんな時だからこそ、安全運転でお願いね」
「わかってるよ」
◆
気付いた時、辺りはほとんど真っ暗で、夜の山道に迷い込んだように思えていた。
そんな暗闇をあたしはなぜかライトの薄い
風がない。
お腹をくすぐるエンジンの響きも、魂を揺らすマフラーの雄叫びも、大地を駆けるタイヤの回転だって感じられるのに……あたしが愛してやまない、全身を切りつけるような鋭い風がまったく感じられなかった。それに、いつもあたしの行くべき道をどこまでも照らしてくれる
必死に逃げようとするほどに、深くスロットルを回すほどに、背後に迫る闇が近付いてくる。
そんなあたしに、不意に聞こえる声がひとつあった。
『逃げ切れるものかよ、それはいつでもお前の近くで息を潜めておる』
随分としわがれた声だった。聞き慣れた声だった。最後の最後まで大好きな声だった。
『とはいえ、ちょいと気が短すぎる。今のお前がそれの戯れに付き合うのはさすがに時期尚早というものよ』
駆け抜けた先、あたしは「声」の真横を通り過ぎた。思わずブレーキをかけ、あたしは声に向かって叫ぶ。
「おじいちゃん!!」
『何を憂う、紅葉。乙女たるもの常に文武両道。
バイクを降りて駆け寄ろうとするあたしを制止するように、おじいちゃんの「声」はそう告げると「闇」をわずかに堰き止めているようだった。
けれど、それも少しずつ均衡を崩し、「声」の気配が弱まっていく。「駆け抜けろ」という「声」に従うべきか。あるいは、ここで「声」に駆け寄るべきか。あたしがその選択を選べずにいると――、
「えっ!? な……なんで!? あたし、スロットル回してないのに……!」
まるで獣のように力強く唸る
さっきまでとは桁違いの速さで近付く
「
急激な前輪ブレーキでジャックナイフ体勢となったマシンに吹き飛ばされたあたしは、闇に吞み込まれていく
◆
「……ここ、は……」
真っ白な天井を見て、ここがあたしの家でないことはすぐに理解できた。
少し遅れて、薬品の匂いでおそらくここが病院なのだろうということもわかった。
そして自分が病院にいる原因を探れば――なぜこんなところにいるのか、というのもなんとなく思い出してきた。
事故だった、と思う。後ろから衝突してきた車に吹っ飛ばされて、待避所から縁石すら越えて、その向こうの田んぼに落ちたんだっけ。わかんない。落ちたというか、なんとなく気を失う寸前でべちゃっとした何かに触ったような気がする。
右手と右足の感覚がない。いや、実際は全身ほとんど感覚がないんだけど、特に体の右半分は「無い」んじゃないかと思うくらいに感覚がなくなっている。右手はまぁ……視線を少し落とせば包帯ぐるぐるだし、たぶんギプス撒かれてるだろうし、あとは麻酔のおかげかな。全身麻酔。むしろ感覚がないことで痛みを感じない分マシだと思う。右足もたぶんそういうのだろう。
バイクショップのおじさんにはなんて説明しようか。レンタルしてただけなのに廃車にしてしまったのは本当に申し訳がないと思う。ただ、同時にあれが
そして、そんなことを考えていれば、ふとさっき見た夢を思い出した。
随分と鮮明で残酷な夢だったように思う。嫌な予感がして、CBRのことも報告しなければと思い、バイクショップに連絡しようと思ったけれど、まぁ当然ながらスマホも何も近くにはなかった。いや、仮にあったとしても、この腕でそれを操作できたとは思えないけど。
さて――そうして少しずつ自分の状態を把握していく。とりあえず、全身動けない。感覚もない。間違いなく大怪我だし、紫織と橙花にも連絡が行っていると思う。心配させただろうなぁ。こういう時、意外とメンタルが弱いのは紫織の方で、橙花の方がしっかりしている。だから、橙花が紫織やつくものバランスをとってくれているはずだ。
時計が近くにないから、窓から外の景色を見ようとしたけれど、生憎とあたしのベッドの位置だとそれすら叶わないようだった。となると、いよいよなんの情報もない。
こんな状況で「退屈」なんて言葉を出せる程度には、あたしの頭はしっかり働いているらしいけれど、さて誰か会いに来てくれたりは――、
「……紅葉?」
「あぁ、紫織。来てくれたんだね」
「紅葉……っ!」
「ごめんね、心配かけて」
そう言ってあたしを抱きしめてくれる紫織に、腕を回すこともできない自分が、ちょっと情けなかった。
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