第31話 悲劇はいつでも突然やってくる
10月。いよいよ残暑もなくなり、気温が下り坂を描き始める頃。一般的なライダーはこのあたりで走り納めという人もいるけれど、バイクを欠いてしまうと足を失う我が家では、雪が積もったり氷が張ったりしなければ年中現役なのが
まだ走れるとはいっても少し肌寒ささえ出始めた中、あたしは職場に向か――うのではなく、バイクショップに訪れている。理由は車検。職場にはバイクを置いてからレンタルバイクで向かいますって言ってあるから大丈夫だと思うけど、なんでこう書類の手続きっていうのはなんでもかんでも時間が掛かるんだろうね。ちなみに代車として貸し出されるレンタルバイクは一日につき5000円。車検は予定通り進めば6日後には終わるらしいから、最終的に30000円掛かる計算だ。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「はいよ。
「了解です。じゃあ失礼しまーす!」
久しぶりに乗る、Ninja400KRT Edition以外のマシン。比較してみると、あちらよりも車重はちょっと重めで安定感あるね。あとタイヤが太くて、これも安定感はあるけど取り回しの軽快さではやや落ちる感じがするね。こうして車両重量とタイヤを比較しただけでも、なんとなく両者の性格の違いというのが垣間見える感じはする。ようはCBR400Rは安定感を重視していて、それに対するNinja400KRT Editionは軽快さ、カーブでの取り回しやすさに重きを置いているような気がする。
あと、想定している場面もなんとなく違いそうな気がした。アクセルに対して素早く回転してくれるNinjaは、その軽さや取り回しやすさ、姿勢の自由度もあって坂道やカーブを得意としているようで、街乗りだけでなく舗装された山道を行き来する場合でも活躍する。対するCBRはやや姿勢が厳しい感じはするけれど、車体の安定性や燃費の良さ、フラットな回転の上がり方のおかげもあって、こちらも街乗り想定だとは思うんだけど、それ以上に高速道路などの継続的な走行を得意にしてるのかなって印象を受けるね。
どちらにも言えることといえば、乗りやすいマシンだよね。見た目もカッコいいし、初めて乗る人が「これカッコいい! 乗りたい!」って見た目の印象だけで買っても失敗しないタイプ。
「あっ、職場に連絡しなきゃ」
ちょうどバイクショップと会社までの中間地点くらいまで走ってようやく思い出したあたしは、マシンを待避所に停車してヘルメットに取り付けられたインカムで職場に連絡を入れ――そこで景色が途切れた。
◆
その連絡を受けた時、私は電話の向こうから聞こえる声に正しい受け答えができていたのか、未だに自信がない。ひとつ確かなことは、その時の私の頭の中は色んな情報と予想と憶測が綯い交ぜになりすぎて、真っ白になるどころか幼い子供が手にしたクレヨンでめちゃくちゃに描いた線と線の集合体のような、とにかく混沌としていて整合性の欠片もない「ごちゃごちゃ」だけが存在していた。
それでも電話の向こうの声は必死に私を呼び続けていて、どうにか我に返るとすぐさま橙花と実家に連絡を入れると、実家の車を借りて橙花と一緒に目的地へと向かった。
運転は橙花がしてくれた。私の実家の車なので、当然ながら私の方がこの車には慣れていたけれど、「そんな状態で運転できるわけないでしょ」と、普段からは想像もできないほど真面目で強い視線を向けてきたので、彼女の申し出を受け入れることにした。道中、学校にも連絡をした。つくもには家ではなく私の実家に帰らせるようお願いして、電話を切ると同時にここまでの情報をゆっくりと整理し始めた。
――紅葉が事故に遭った。
待避所で停車中、追い越し車線から左車線に戻ろうとした車が目測を誤り、既に左車線で走行中だった車に接触、驚いた左車線の車が急ハンドルを切って紅葉の斜め後方から衝突。追い越し車線の車は逃走。左車線を走っていた車は縁石で停止。紅葉は縁石の向こう側にある田んぼまで約5メートルほど飛ばされていて、意識不明の重体。そして何より……車と直接接触した右足は原型をほとんど留めておらず、切断を余儀なくされた。
「……くーちゃんさ」
「…………」
「インターハイ女子陸上400mで50秒11の日本記録獲得で一時期は色んなメディアに映ってたじゃん?」
「……えぇ」
「でもさ、たぶんくーちゃんにとって大事なのは、50秒11の記録でも、女子陸上400m最速の称号でもなくってさ……単に「気持ちよく走れること」だったと思うんだよ」
ハンドルを握る橙花の手に力が籠っているのが、見なくてもわかる。
多くの陸上女子を敵に回すことだとは思うけれど、確かに紅葉にとって「勝利」も「栄光」も興味の範疇ではなかった。紅葉にとって「勝利」と「栄光」はあくまで結果としてついてきただけのもので、紅葉が「目標」に掲げていたのはいつだって「楽しく気持ちよく走る」という、それだけに尽きたと思う。そのせいで敗北したとしても、彼女の笑みに曇りや陰りはなかっただろうし、むしろ彼女にとって不幸だったのは、結果的に多くの人が「呉内紅葉」という人物が「高慢な最速王」という称号に搔き消されてしまったことだろう。
けれど――今の紅葉にとって一番の不幸は……そんな偉大な記録なんかよりずっと「走る」ことそのものが好きだった彼女が、もう走れないということ。
紅葉がこの村に戻ってきた時、彼女がバイクを傍らに置く姿を見て安心したのは、私だけじゃない。橙花だってそうだと思う。
紅葉はあの頃、あのインタビューを受けて世間から色んな評価を得た。それは時に称賛や激励であり、時に罵声や皮肉でもあった。けれど紅葉がそれらの声を全て受け止めた上で一貫していたのは「欲しいのは誰ひとり前にいない自分だけが感じられる風」だけだったということ。それを感じるために誰よりも前に居続けたことで結果として「勝利が当たり前になっていた」だけ。だから……「陸上400m」ではなくて「自分だけの風」を追いかけていたあの子だからこそ、たとえそれがバイクというものに形を変えても根っこが変わっていないのなら、それは間違いなく私たちの大好きだった紅葉に違いなかった。
なのに――紅葉にはもう自分の足で走ることも、バイクに跨ることさえできなくなってしまった。
もちろん、大好きな風を感じることも。
「しおしお。くーちゃんを支えてあげて」
「橙花……」
「わたしなら、くーちゃんを助けてあげられるお医者さんを見つけることも、こんな事故を起こした
そう言う橙花の瞳に、いったいどんな感情が込められているのか、俯く私にはわからなかった。それでも……それは決して紅葉への憐れみでも私への思いやりでもないことは、なんとなくわかってしまった。彼女の瞳に宿るものはきっと……もっと熱く爛れ、重く沈み、黒く濁った激情のようなもの。橙花の言う「自分では逃げ出してしまう」というのは、きっとそんな想いを抱えたままで紅葉とは向き合えないという、彼女なりの誠意や真摯さの表れなのだろう。
『あたしは屈したりしない……! 友達ひとりも守れないで……そんなの、生きていく甲斐がないんだよ……!』
かつて、紅葉がその身を挺して私を守ってくれた時の言葉が脳裏を
今、そしてこれから……きっと一番つらいのは紅葉本人のはず。だからといって私の不安や恐怖が薄れるわけではないけれど……他の誰でもなく愛する紅葉が目の前で苦しんでいるのなら、今はまだ……私が泣くべき時ではないことは間違いない。たとえ紅葉が自らを虐げる理不尽に対する怒りを私にぶつけてきても、私は屈したりしない。愛するたったひとりも守れないなんて、そんなのは生きていく甲斐がないと思うから。たとえどんな悲しみが殴りかかってきても、この全身できっと打ちのめしてみせる。
だから……私が今こんなところで絶望している暇なんてない。
「しおしお。見えてきたよ、病院」
「……わかってる。今のうちに心を落ち着けておくから、ちょっとだけ静かにしてくれる?」
「バカだなぁ、こんな時にわたしまで静かになっちゃったら、いよいよガチめに暗くなるよ。……わたしはいつも通りにしとくからさ、しおしおは深呼吸しときな」
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