第22話 様々な転機
季節は春どころか梅雨も過ぎ去った盛夏の候。我が家ではひとつの転機が近付いていた。
実は1月頃から転職を考えていたあたしは、橙花の伝手をいくつか辿って説明会と面接をクリアし、先日とうとう中途採用の内定通知が届いたんだ。
一年間という短い期間ではあったけれど、アルバイトとして自分を雇ってくれた郵便局のみんなにお礼を告げて転職の旨を伝えると、多くの局員が惜しみつつも円満に送り出してくれた。
そして、ついに今日が初出勤の日。――の、夜!
「ただいまー」
「おかえり。初出勤の感触はどうだった?」
「なんか……前に正社員してた時もスポーツ系の商社だっただけに、同業でもこんなに待遇って違うんだなって思ったよ。いい意味で」
あたしがそう告げると、わざわざ玄関まで迎えにきてくれた紫織とつくもが「どう違ったの?」と声を揃えた。
橙花は自分の友達伝いの会社がどんな評価なのか気にしているようで、声には出さないけれどやはり同じように耳を傾けている。
「ちゃんと休憩時間があるし、土日祝日は休みだって言うし、残業時間に上限があるし、残業代はみんなちゃんとあるって言うし、社員の状況次第で在宅勤務補助もあるし、休日呼び出しがある場合はその後に休暇と給料が出るらしいし、他の社員の作業を妨げるような異臭を発しないようなお菓子とかなら業務効率向上のため許可されるみたい……。ねぇ橙花、これ本当に大丈夫? ちょっとホワイトすぎて騙されてないか不安になってきたんだけど」
「落ち着いてくーちゃん。今どきのホワイト企業ってそんなもんだよ」
「待って。それで驚いてるってことはつまり……」
そうだよ。郵便局の前の職場……面倒だから「前の会社」って言うけど、あそこには休憩時間なんてなかったし、土日祝日はサービス出勤デーだったし、残業する場合は退勤時のタイムカードを切ってスタートだったし、在宅勤務なんて上司が「怠け者のためのシステム」と断じていたので形骸化した概念となっていたし、休日呼び出しに振替の休みや給料は出なかったし、昼の食事以外での飲食は全面禁止だったよ。
そしてこれの何が恐ろしいって、会社自体はそれらを禁じてないんだよね。こないだお縄になったバカが勝手にやって上司には「本来の規則に従っている範囲」だけを伝えてたっぽいんだよ。だから部長よりも上の立場の人には問題なく回っていたように見えただろうし、そこらへんの改竄がとにかく上手いヤツだった。地獄に落ちろ。
定期監査にも「規則に従った休息をとらせている」「業務効率のための飲食」なんてのはいちいち確認されないし、残業代は「自主的なものを除き残業・休日出勤はさせていません」みたいな嘘は平然とつくし、「見ての通りタイムカードにも問題はありません」ってシラを切るし、「在宅勤務を申し出る者、必要とする者がいないため今のところ形骸化しております」なんて言われた時には何人かの若手の子たちが乾いた笑いを洩らしていた。この頃にはあたしはそれに慣れ切っていたので乾いた笑いはおろか殺意すら湧かないくらい虚無だった。
「なんで同業でこんなに差がついたんだろうね……?」
「橙花、お茶淹れてきて。つくもはお皿を配膳をお願い。すぐに行くから、一緒に食べるまで待っててちょうだい」
「「はーい」」
「紅葉、あなたはちょっとこっちに来なさい」
「……橙花、これお説教コースとでろでろに甘やかしてくれるコースとどっちだと思う?」
「両方じゃない?」
結果、両方だった。膝枕で頭撫でてもらいながらお説教された……脳がバグるかと思った……。
◆
その後しばらくは順風満帆だった。通勤時間はバイクに乗れるし、業務内容は前の会社と同じ部分も多く応用が利いたし、何より上司・先輩に恵まれた。
ただ、バイク通勤ということでお酒の席でノンアルコールしか口にできないことには申し訳なさを感じたけれど、みんな「今どきアルコールを強制する方が時代錯誤だし飲みたいもの飲んだ方が楽しいでしょ」と
けれど、問題はあたしではなく紫織と橙花に訪れた。
「お見合い!? 引っ越し!? えっ、どういうこと!?」
「生まれて初めてお母さんと本気の喧嘩したわ……」
「わたしなんか久しぶりにグーで殴ったよ」
大代家がほぼ家庭崩壊気味なのは知ってたから橙花が手を上げたのは珍しいながらも納得できるけれど、紫織が家とマジ喧嘩したの!? あの絹衣おばさん相手に!?
実を言うと紫織って日本人とアメリカ人のハーフなんだけど、まぁほぼほぼ日本人である絹衣おばさんの影響が強くて、アレクシスおじさん譲りな部分って青い瞳くらいなんだけど、それもあってかとにかく絹衣おばさんのことをよく慕っていて、言葉や態度に出さないけれど絹衣おばさんの言うことは紫織の中では「絶対」だったんだよね。
そんな紫織が、事情が事情とはいえ絹衣おばさんと喧嘩した。つまり真っ向から反対したってわけで……えっ何、明日もしかして隕石でも降ってくるの?
「もちろんお母さんの主張も尤もと言えば尤もなのよ? 私もいい歳だし、友達や仕事の付き合いを否定するわけじゃなく単に「結婚」という選択肢を追加する形で提案してくれたお母さんには感謝しているわ。けれど……それってつまり私の恋心をわかった上で「男を作れ」って言ってきたってことでしょう? 冗談じゃないわ。私の相手は、紅葉だけよ……!」
(……あっ、こっちはたぶんすぐ解決するな)
ただ、紫織は母親に対する信頼や尊敬が強すぎて、たまに絹衣おばさんを過大評価しすぎるところがある。
特に、自分の思惑や思想について、「お母さんならこのくらいとっくにお見通しのはず」みたいな前提を作りがちだ。
でも実際のところ、絹衣おばさんはそんなに完璧超人ではないし、当然ながら言葉にも態度にも出していない紫織の気持ちなど理解できるわけもない。
確かに絹衣おばさんの洞察力や判断力は大したものだけれど、それはあくまで「お客さん」とか他人に向けるものであって、身内……特に(本人曰く密かに)猫かわいがりしている紫織については「紫織の言葉を信じる」「紫織の態度を信じる」という方針で、言葉にも態度にもなっていない部分は判断材料にさえなっていない。そして、絹衣おばさんも絹衣おばさんで「それを紫織はわかってくれている」と思っているという、悪循環ここに極まれりみたいなやりとりをおよそ30年弱もやってるんだよね……。
「あのさ、紫織」
「何?」
「今度の休み、紫織んちに挨拶にいくよ。たぶんそれでわかってくれると思う」
「……え? ……えっ!?」
さて問題は橙花だ。さっきはああ言ったけれど、大代家の不仲はかなり慢性的というか、今に始まったことじゃないんだよね……。
何が問題かって、別に子供の頃は仲良かったとかじゃないんだよね。子供の時からおじさんはお酒とギャンブルに家のお金を使っちゃうような人だったし、おばさんはそんなおじさんから橙花を守るために離れようとしなかったけど、橙花が成人式から帰ったら最初からいなかったみたいに荷物や思い出の品を何ひとつ遺すことなく失踪しちゃったし、そこから元々いがみあってた父子の仲が本格的に険悪になったらしいし……なんでこんな環境で育ってこんなに明るくていい子に育ったんだ……?
「橙花も、もういい加減おじさんと縁切ったら?」
「そうしたいのはヤマヤマなんだけど、親戚のみんなに迷惑かかりそうで……」
「いやたぶん今の大代家と親戚を繋いでるの橙花だと思うよ? それに向こうが引っ越すって言ってるなら橙花だけここに残れば後腐れもないしベストタイミングじゃない?」
「よっしゃ、縁切るかぁー」
コンビニ行くくらいの気軽さで親子の縁を切ろうとする橙花に、あたしは苦笑いと同時に妙な安堵を覚えていた。
橙花にとって「縁」というものは決して軽いものではないはずだ。人と人との繋がりを「縁」というのなら、たぶん橙花という人物を最も的確に表す文字もまた「縁」だろうから。
だけどだからこそ、橙花はその「縁」というものに縛られてるんじゃないかなって思う時も今まで何度かあった。その最たる例が父親だったわけだけど……よかった。
「ちょっと! 紅葉!」
「え、何? どしたの紫織」
「さっきの! どういうこと!?」
「さっきの……? え、ああ。ほら、お見合いが嫌ならもう相手がいるってことを認めてもらえればいいんじゃないかなって」
「だけどお母さんは……!」
「絹衣おばさんがどう思ってるのかはその時に聞けばいいし、どう思ってようが紫織を他の男に渡す気なんてないよ。何があってもあたしが紫織を奪うから安心して」
紫織に不安を与えないよう、努めて笑顔を崩さないようそう返事をすると、紫織の中の緊張がとうとう臨界点を突破したのか気を失った。
あー、やっぱり絹衣おばさんと改めて向き合いながら挨拶いくのは緊張するのかぁ、と考えていたら、橙花に「そういうとこだよ」と言われた。何が?
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