第3章
第19話 過去から迫りくるもの
その日、あたしは配達がひと段落して帰宅前に配達用バイクの点検をしていたら、正局員の人に「そろそろ帰っていいよ」と少し早めの退勤にGOサインを出された。まだ定時まで10分くらいあったし、バイクの点検が終わったら仕分け作業も軽くやるつもりだったけれど、「自分にできることをなんでもやろうとするのはやめとけ」と忠告されてしまった。前の職場での癖がまだ抜けていないのかと頭の痛む思いではあったけれど、それをよしとしていた前職と違って、今はそれに待ったをかけてくれる人がいるのは有難いことだと思う。
ともあれ、あたしは点検を手早く済ませて更衣室に向かい、帰り支度を済ませて愛車の
「あの、どうかしたんですか?」
「ん? ああ、呉内さんか。いや、さっき出ていった最後の便に配達洩れがあってね。葉書き一枚とはいえ、過去には子供が年賀状ひとつでトラブルになった事件もあっただろう? たった一日で変わってしまうものなんていくらでもあるからね。早く届けるべきなんだが……もうすぐ正局員は会議が始まるんだ。だからどうしたものかと口論になっちゃって……」
「じゃあそれ、あたしが届けて謝ってきます。その後はそのまま直帰してもいいですか?」
「いいの!? ありがとう呉内さん! 本当に助かるよ! 服はそのままでいいから、安全運転で確実に届けてくれ。正式な謝罪はまた日を改めて伺うことも伝えてくれるかな?」
「わかりました。じゃあお疲れ様です! また明日もよろしくお願いします!」
と、まぁ安請け合いしてスロットルを開けたのはいいけれど、まさか市内にこんな狭い道路があったなんて。これじゃバイクはともかく車はほとんど通れないだろうね。少なくとも対向車が来たらおしまいだ。そんな細い道を片道で15分以上かけて進むと、ようやくその民家が見えてきた。古めかしい平屋の家で、歴史を感じると言えば聞こえはいいけれど、正直に言ってしまえばホラー映画に出てくる幽霊屋敷のようだった。
本当にこんなところに人が住んでいるのかと、だいぶ空も薄暗くなる中、インターホンのないその家の門を叩いて無反応を確認する。周りを見ても投函口のようなものはない。不安になりつつも門戸を押すと、それは意外なほどすんなりと開いて、本宅の玄関近くにある投函口を見つけた。
(ご不在みたいだけど、念のために玄関でもう一回くらい声かけた方がいいかな)
元運動部で今もそれなりに体を動かしているおかげか、あたしの声は遠くまで響くし、よく通ると村では評判だ。それは仕事中も同じで、配達先の方の中にはあたしの声は元気が出ると言ってくれる人もいる。だから、門の前からとはいえそこそこ大声で呼びかけても反応がないし、何より家の中にはこんな時間だというのに明かりひとつついていない様子だったから、誰もいないものだと思っていた。
「すみませーん、日本郵便ですー!」
「はーい」
びくり、と体が跳ねた。
その声はあたしの予想に反して、屋敷の横からこちらに近付く足音を伴いながら「はいはい」と返事を繰り返し、その気配を形にした。
「あ、こちらのお宅の方ですか?」
「ああ、はい。すまんなも、返事はしたけど奥の畑におったもんで、聞こえなんだでしょう?」
少し土のついたタオルを首に巻き、無精ひげをいくらか残しつつも人のよさそうな雰囲気が隠し切れないそのおじさんは、苦笑いを浮かべながらあたしの顔を見た。
配達用の制服じゃないせいで、やや困惑したように「え、郵便局の人だよね?」と訊ねられてしまった。
「はい。実はこちらの不手際で、お宅の郵便物である葉書きの配達が遅れてしまいまして、こんな格好で不躾ですがこうして謝罪に伺いました」
「葉書き? うーん、どのくらい遅れないた?」
「今日の便には違いありませんが、今お届けしなければ明日の便になっていました。本当にすみません」
「なんや、じゃあ遅れとらんよ。むしろ気を遣わせてすまなんだ」
おじさんはあたしから葉書きを受け取ると、ちらりと宛先を確認して「うん、大丈夫そうだ」と一言。
「いえ。お客様の大事なお荷物をこちらの不都合で届け損なうとこでしたから。後日、改めて正式な謝罪の挨拶に伺いますので、今日はこれで。本当にすみませんでした」
「そりゃあ律儀なもんで、すまんなも。これからもお勤め頑張りゃあね、お嬢ちゃん」
「はい。じゃあ失礼します」
おじさんは終始穏やかな様子で門の前まであたしを見送ってくれて、あたしはすっかり暗んだ林道をまた15分かけて抜けることになった。
……のはいいけれど、林道を抜けた頃には空はすっかり群青色。地平線をわずかに茜に染めている夕日の健気なこと。
「これは……帰ったら紫織に事情聴取されるやつだぁ」
まぁ世の中には旦那さんが遅れて帰ると訳も聞かないまま怒鳴り散らす奥さんもいるらしいし、そう思うとちゃんと事情を聞いた上で叱るか叱らないか判断してくれる上、お叱りの際は問題点と修正案を提示して、あとはひたすら心配してくれる紫織って本当にいい奥さんだなぁ。……いや、待て待て。奥さんじゃないよ紫織は。まだ未婚だったわ。
でも結婚かぁ。あたしも紫織もアラサーだし、そろそろ将来のことも考え始めていい頃ではあるんだよね。ただ、橙花をうちから追い出す気はさらさらないんだけど、橙花の方が居づらさを感じそうなんだよね。あれで周りをちゃんと見て気遣いもできる子だから。
「あたしと紫織が結婚しても、つくもはたぶん大丈夫だろうけどなぁ……」
ドロップアウト家がシェアハウスとして成功しているのは、あくまで大人組三人が「友達」という関係性で1対1対1のバランスが成り立ってるからだ。でも、これが「子連れ婦妻+橙花」という形になってしまうと、どうしても橙花だけが疎外感に苛まれるようになる。
橙花のことを考えると今のままの方がいい気はするし、紫織のことを考えると先に進んだ方がいい気もする。ドラマや漫画でよく聞く「恋と友情の板挟み」っていうのはこういうのを言うんだろうね。
そんなことを考えながら走り続けていたら、気付けばドロップアウト家はもうすぐそこ……ん?
なんか、うちの前に一台の車が停まっている。このあたりではあまり見かけない青いセダン。あれかな、今度この近くに越してくるっていう紫織の元上司ご夫婦が少し早めの挨拶に来たとか?
ともあれ挨拶くらいはした方がいいはずだと思い、あたしはバイクをガレージに置いて、普段出入りに使う裏口ではなく玄関の方へと足を運――、
「うん? やっと来たのか。おい呉内、こんな寂れた田舎にいつまで引きこもっているつもりだ。さっさと会社に戻れ」
「……比米代部長?」
あたしが玄関の敷居を跨いだ先に見たのは、振り返りざまにあたしを睨みつけるかつての上司――
「……っ! 紫織に何してるんだッ! その手を離せッ!」
「それが目上の者に対する言葉遣いか? まったく、こんなド田舎じゃ礼儀すら教わらんのか。だからお前は無能なんだ」
「そんなことはどうでもいい! 紫織を離せって言ってるだろッ!」
思わず紫織を掴む比米代部長の腕に組みつき、彼の手から紫織を引き剝がすと、その様子を怯えた様子で見ていた橙花に紫織を任せ、紫織と奥にいるであろうつくもを隠すよう指示した。
だがそんな様子を動じることなく見ていた比米代長は、紫織と橙花がいなくなったのを見計らってかあたしの組みついた腕を強引に振りかぶり、あたしを地面へと叩きつける。
「が、ふっ……!」
「無能な部下を持つと苦労する。貴様は無能で無駄の多い部下だったが、仕事は早く体力バカだったから使ってやっていたんだ。そんな俺への恩も返さず会社から逃げるなど……どれだけ恩知らずなんだ」
「……あたしはアンタに恩なんてものを一度だって感じたことはない。むしろ恨みならいくらでも挙げられる。大事なクライアントを勝手に担当変更させられたこと、時間外労働の強制・圧力、日常的な暴言に加えて時代錯誤の性差別! バッカじゃないの!? それでこっちから会社を辞めてやったのに未だに上司ヅラするとか頭に虫でも湧いてるのかよ! もうアンタとは上司部下どころかただの他人だ、二度とウチに近付くな!」
「言いたいことはそれで全部か。なら気は晴れただろう。さっさと東京に戻れ」
「なるほど、本当のバカって同じ言語使ってても話が通じないんだね。警察呼ぶわ」
あたしがスマホを取り出すと、それをあたしの手ごと掴み上げ、万力みたいな力で締め上げた。いやこれ手の骨砕けるでしょ。バカの力だから馬鹿力なんだね、納得。
宙ぶらりんのまま痛みに耐えていると、頭に昇ってた血がすーっと降りていくのがわかる。あたしはぶらんぶらんと揺れる足のつま先を思いっきりバカの鳩尾にめり込ませると、さすがの筋肉だるまでも人体の急所のひとつを元IH優勝の足で思い切り蹴られたのは堪えたみたいで、しばらく
それと同時に、あたしの心配をしてきてくれた橙花に奥の部屋で110番するように頼むと、バカは舌打ちをついて腹を抑えながら車でいずこかへと逃げていった。
さて……紫織の事情聴取かと思ったらけっこうガチめにお巡りさんからの事情聴取が始まりそうだけれど、まずは紫織のメンタルケアからか。
今回は3割くらいあたしのせいも入ってるかもしれないけど、紫織ってほんとに男と接するとろくなことないなぁ。
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