第16話 役目と責任

「……銀児さん。今の職場は、やはり君には向いていない。ここ最近、ほとんどまともに眠れていないだろう」


 理性的で理知的であることを自負していたはずの私がとうとう我慢しきれず泣き言のようにそう呟いてしまったのは、かつて同じ会社に勤めていた私の部下で、今は夫となった銀児くんが、ここのところ毎日のように残業を続け、目の下には墨で塗りたくったのかと疑うほど濃い隈を作っていたからだ。

 夫と私は、周囲からは「真逆の夫婦」としばしば評される。仕事はできないが愛想のよい彼と、仕事ができても人付き合いが下手な私。しかし、あるいはだからこそ私たちは夫婦となれたのかもしれない。夫は人の本質を見ることにとにかく長けている。私が周囲から受けていた誤解に惑わされることなく、私なりの努力や気遣いに気付いてくれたのは彼だけだったし、それに気付いてからの彼はとにかく私を一人ぼっちにさせないようにしてくれた。私はそんな彼に、ほとほと惚れ込んでしまった。

 今でも、口をついて出た言葉が「足りていない」のだろうということはなんとなくわかる。だが私の凝り固まった頭は、無暗に多い語彙が渋滞を起こしていて、的確な表現を齎してはくれない。だから、私は彼の「察する力」に甘えてしまう。

 

「そう……っすね、確かに向いてないのかもしれない。オレ、ホントはもっと体を動かす方が得意だし、黒乃さんみたいに頭よくないっすから。でも……それでも、転職はもうちょっと待ってほしいっす。お腹の赤ちゃんのためにも、今は頑張って黒乃さんを支えなきゃ……父親として胸張れないっすから!」


 やっぱり、彼は私の言葉を理解してくれる。私の言いたかったことを、真意を汲み取ってくれる。私がどれだけ甘えてしまっても、彼はそのすべてを受け入れてくれる。

 私はそんな彼に甘えて、かつて彼と出会った会社を退職した。育児休暇ではなく退職としたのは、両親を早くに亡くして寂しい子供時代を送った私が、自分の子に同じ思いをさせたくないと我侭を言ったせいだが、それを彼は笑って許してくれた。そればかりか「黒乃さんも子供も、オレが絶対守るんで、黒乃さんは俺の帰る場所を守っててくれると、俺も安心して働けるっす」だなんて、私がそうしてもいい言い訳まで作ってくれた。だから、そんな優しい彼がこんな風に弱っていく姿を、私は黙って見ていたくはない。


転職それなんだが……少し前に会社を辞めてしまった元部下と、最近またやりとりをしているんだ。彼女もあの会社で苦労を重ねて、田舎に戻ってしまったが……私たちの状況を相談したら、今より給料はいくらか下がるが、君の体力を活かせる仕事と、少し前から空き家になっている知人の家があると言っていた」

「でも……仕事はいいっすけど、空き家ってことは一軒家っすよね? オレ、そんなに貯蓄は……」

「いいや、キミも私もそれなりに稼いでいる方だろう。それに、ここ2年くらいは忙しすぎてろくに使ってもいない。彼女はその知人と相談して、もしも私たちが買うなら空き家バンクへの登録をギリギリまで待ってくれるみたいなんだ。それで、予算はだいたい――これくらいらしいが」

「……それでもけっこういい値段するんすね……」


 いい値段、と彼は言うが、車庫・井戸・離れのついた一軒家でこの価格は破格だ。古い木造建築の日本家屋で、田舎ということもあってアクセスはさほどよくないものの、車で通れないような細道があるわけでもない。もちろん掃除は必要だろうし、これを紹介してくれた彼女からも「内装は問題ないけど水回りは替えた方がいい」と言われているが、家を買うついでの修理が水回りだけで済むなら十分ではないだろうか。

 畳の張り替えなども最初は検討していたが、そちらはその家の持ち主が「売りに出すにあたって畳だけは替えておいたが、障子は何もしていないのでいくつか傷んでいる」と言っていたそうだ。空き家を買う時点で、畳や障子の破損は致し方ないものだ。むしろ畳だけでもまともであるのなら、それだけで頭をその畳にこすりつけて感謝を述べたいほどだった。


「キミと私の貯金なら、引っ越しと修理費用を込みにしてもしばらく生活は成り立つ。その「しばらく」の間にキミがその職場に馴染んでくれれば、私も安心して休める。逆に……今の生活を続けて君が倒れでもしたら、私はこの子を立派に育てられるような「立派な母」になれる自信はない」

「……わかったっす。明日、先輩に相談してみます。でも……ひとつだけ訂正させてほしいっす」

「なんだ?」

「おふくろが言ってたっす。夫は妻を守るもので、妻は夫を支えるもの。だけど母親になると妻はその役割が変わるんだって」


 妻と母の違い。それは……私も、既婚者の友人から何度か聞かされたことがある。

 内容はあまり覚えていない。あまり、耳心地のいい内容ではなかった。


「男は……それが夫なら妻を、父親なら家族を守るものらしいっす。でも、女の人は違う。妻は夫を支えるけれど、母になったら子供を守り育むものなんだって。オレ、その時は納得できなかったっす。男だって子供を育てることはできるし、そもそも男と女で役割を決めるなんてよくないって。でも……そういうことじゃないって。母親は……それが子供のためになるのなら夫に恨まれてでもやり遂げるし、夫が子供にとって害になるのなら、どんなに愛していても敵になるものだって。これは女だけの本能だから、男にはそれができないんだって」

「だとしたら、やはりキミのために子供を傷付けてしまいかねない私は……」

「この話の大事なとこは、この「子供のため」「子供の害」ってのは、その子が一人前の大人になるまでの、すっげー長い目で見た時の話だってことっす。今、黒乃さんは子供が生まれる前にオレが倒れるようなことがあれば、子供を恨んじゃうかもしれないって、お腹の子の将来を案じたんすよね。じゃあ、黒乃さんは「立派な母」で間違いないっすよ。そうじゃなきゃ、それをオレに言えないはずっすから」


 ふと気づき、目線を自分のお腹へと下げた。すると、無意識ながらお腹を庇うように両手を添えていたことにようやく気付く。これが……我が子を守ろうとする母の本能。だとすれば、私は彼の言うように……本当にこの子の親として相応しく振舞えているのだろうか。自信のない自信が、確証のない確証が、私の胸中に蠢く。

 だが……そんな私でさえ気付かなかった『本能の思考』を的確に読み取り、お義母さまの言葉を借りながらではあるものの、それを嚙み砕いた表現で言語化できる彼のコミュニケーション能力は、やはり私にはないものだ。親として、子供に対して切に望むことが「ただ健やかに生きてくれること」だとするのなら、欲のある望みは「親のよいところを受け継ぎ、親の悪いところを反面教師としてくれること」だが……さすがにそれは望みすぎだろう。だから、今はどんな風に育ってくれても構わない。銀児さんと、この子と……三人で穏やかな日々を送ることさえできるなら、そのための努力や出費など安いものだ。


「では、さっそくこの話を彼女に通しておく。キミは早くお風呂に入って寝るといい。明日も早いのだろう」

「うっす! 黒乃さんも、その連絡したらちゃんとお布団入ってくださいね! 夜更かしはダメっすよ!」





「……はい、はい……わかりました。そう話を通しておきます。はい、それでは……おやすみなさい」


 私が居間でピーナッツ片手にドラマの録画を見ていたら、同じく居間でクロスワードパズルをやっていた紫織のスマホに連絡が入った。

 もうすぐ10時を回るというのに、いったいどこの誰がと思いはしたものの、このあたりは9時を回れば店はおろか民家でさえほとんど明かりを消してしまう。だから、紫織の電話の相手が「あたしの知らない交友関係の誰か」だということはなんとなく察することができた。だから少し気になりはするけれど、電話の邪魔にならないようテレビの音量を下げた。……嘘だ。ホントはちょっとだけ聞き耳を立てるような意味もあったけれど、紫織はほとんど相槌ばかりで、相手の声はほとんど聞こえなかった。

 そうして15分くらいしゃべって、ようやく通話を終えてスマホをテーブルに戻した紫織に、思わず声をかける。


「お話は終わった?」

「ええ。来月か、再来月か……こっちに私の元上司が引っ越してくるらしいわ」

「え、大丈夫なのそれ。たしか紫織の元上司って……」

「問題があったのは部長。今の電話の相手は主任で、私が車に連れ込まれそうになった時に助けてくれた人よ」

 

 なるほど、と安堵の息が洩れる。

 紫織が以前の会社を辞めるに至った決定的な事件。長年にわたって紫織にセクハラを続けていた上司が、紫織の退勤時を狙って強引に自分の車に引き込もうとしたけれど、たまたま通りかかった数人の女性社員がそれを止めてくれて事なきを得た、と紫織は言うけれど……その事件でただでさえ男性不信だった紫織が男性に「恐怖」を抱くようになってしまったのは、間違いなくそのバカ上司のせいだから、何ひとつ事なきを得られていない。

 で、今話していた相手は、その上司と紫織の間に入り、大声をあげて周囲の社員を呼び、泣き続ける紫織を必死に宥めてくれた人だそうで……紫織の親友であるあたしにとっても間違いなく「親友を助けてくれた恩人」と呼んで差し支えない人だった。……聞き耳を立てた挙句、上司という単語だけで疑いをかけたのは本当に申し訳ない。


「その人、私より年上なんだけれど、たぶんシロくんとケンカしたら余裕で負けるくらいには貧弱なのよね」

「え……でもそのセクハラ部長って男だよね。少なくとも169cmの紫織を車に引っ張り込もうとするくらいには筋力あるんだよね?」

「そうね。かなり恰幅のいい男だったけど……それでもあの人は怯えながら私の前に立って、怒鳴り散らす部長の暴言や威圧に泣きながら庇ってくれたわ」


『もういいです! もういいですから……!』

『いいわけないでしょう! あなたは私の部下で、部下を守るのが上司である私の仕事! それに……部長! 上司としての役目を全うするどころか部下を傷つけようとするあなたは、もはや上司ではありません! この子は渡しません! 早々にお引き取りください! ――うぁっ!』

『主任!』

『……渡しません……! この子は、私の部下は絶対に渡しません! この子だけじゃない……私の部下は誰ひとり……! みんな私が守ります……! それが……こんな上司わたしについてきてくれている部下たちへ示せるたったひとつの誠意です! ここにあなたの居場所はありません、お引き取りください!』

 

「――って感じで。で、この騒ぎを聞きつけた人がさらに人を呼んで数人がかりで部長を取り押さえてくれたんだけど、主任は髪の毛ぐしゃぐしゃ、顔は涙でぐちゃぐちゃ、服の中はたぶん、痣になったところもあったと思うわ。でも、それを私のせいにせず、むしろ私が辞めるまでずっとこちらに気を配ってくれていたわ」

「何それカッコよすぎない? え、なんか紫織に愛想尽かされないか心配になってきたんだけど。あたし、そんなにカッコいいこと言ってあげられないよ?」

「……バカね。泣きながら私を庇うその人に、私がいったい誰を想起したと思ってるのかしら」


 想起おもいだす? なんのことだろう。あたし別にこれといって紫織になんかした覚えないんだけどなぁ……。


「なんかあったっけ?」

「覚えてないならいいわ」



『紅葉! もういい! もういいから! お願いもうやめて!』

『よくない。こいつが紫織のこと……っ! 紫織を、いじめてたんでしょ……! 別に紫織が悪いわけでもないのにさ……勝手に、逆恨みなんかして……!』

『もうやめて! それ以上は紅葉が死んじゃう! お願いします! なんでも従いますから……!』

『必要ない! こんなやつの……なまっちょろい蹴りなんて……あぐっ! あと100万回くらっても……へっちゃらだ! あたしが一番、痛いのは……あたしの大事な友達を泣かされたことだから……! だから、あたしは屈したりしない……! 友達ひとりも守れないで……そんなの、生きていく甲斐がないんだよ……!』

『紅葉! 紅葉ぁっ!』

『どいつもこいつも……こんなことでしか紫織の気を引けないからフられるんだ! 紫織はこんなことでお前たちに靡いたりしない! お前たちはただ紫織に嫌われる理由を増やしてるだけだ! そんなこともわからないからバカなんだよ、バァーカ!』



「……あなたが覚えてなくても、私が覚えてるもの」

「そう? ま、とりあえずそろそろ寝よ。紫織はどうする? テレビと電気消していい?」

「テレビはいいけれど、電気はそのままで。もう少し起きてるから」

「ん、おやすみ」


 紫織の元上司さん、仲良くなれるといいなぁ。

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