第13話 芽生え
僕が学校から帰ると、いつも家にいるのは紫織さんだ。といっても、その時間は紫織さんも二階の仕事部屋に籠っていて、海外書籍の翻訳のお仕事をしているらしい。
集中しているだろうから声はかけず、できるだけ静かに隣の自室に入って、学生カバンの中身を片付ける。今日は普段よりも少し多めに課題が出ていて、少しだけやる気が下がる。
橙花さんから貰ったお古のノートパソコンの電源を入れて、無料通話アプリの「ぷらちな桜餅」グループを確認すると、既に他の三人はボイスチャットに入っていた。もっとも、うちが学校から一番離れているので当然と言えば当然だけど。ともあれ、僕も課題のための勉強道具を揃えて、遅れながらもボイスチャットに参加した。
「おまたせ、みんなもう先にやってる?」
『おっ、やっと来たか』
『アタシとロックはまだ!』
『うちは部活で提出遅れてるのもあるから先にやってるよ』
普段はなんとなく集まって雑談したりゲームしたりするためのグループチャットだけれど、学校から帰ってきてすぐの場合は、明確な意味を持ってこのボイスチャットを使っている。
ひとつ、自分以外の三人を見張るため。ふたつ、自分の頑張りを見てもらうため。みっつ、なんとなく勉強会してる気分を味わうため。まぁ、だいたいみんな最後のが本音だと思う。
とはいえわかんないとこあったら教え合ったりできるし、誰かと一緒に勉強してるって気分になればモチベーションも上がるから建前はなんでもいいよね。
「…………」
『『『…………』』』
最初はわちゃわちゃと雑談も混じっていたけれど、30分も経てばみんな課題に意識が向いていて、秒針が時を刻む音とシャープペンをノートに滑らせる音だけが部屋の中を占めている。
勉強とか成績の話をすると、よく「見た目と中身がマッチしない」と定評があるのが僕たちだ。その最たる例が
実を言うと、このメンバーの中で一番成績が悪いのは僕だ。五教科においては国語と英語はかなりいい方だと自負しているけれど、他の三つがとにかくダメだ。特に理科と数学は致命的と言ってもいい。さすがに赤点とはいかないけれど、毎回ほとんど平均点か、あるいはそれを少し下回るくらい。
逆に、理数に強いのは意外にも金萌さんだった。以前、平均ギリギリのテストにショックを受けて頭を抱えていたら、横に居た金萌さんがなんともない様子のまま「これはシンプルな計算ミス。こっちはたぶん公式間違って覚えてる。これは……何? どうミスったかちょっとわかんない。とりあえず答えは92だからがんばっちぇ!」なんて、めちゃくちゃサラッとカッコいいことしてくれた。なので、今では理数問題で詰まった時には金萌さんを頼るようになってしまった。
「……できた。ちょっと飲み物とってくるから席外すね」
『じゃあ、うちも一息いれよっかな。』
『オレも。ちょっと自販機いってくるわ』
『アタシ疲れたからシロちん戻るまでちょいスヤるわー』
僕が席を立とうとすると、全員の集中力がまるで雪崩のように崩れて落ちた。
緑郎くんと美桜さんは僕と同じように席を立って、金萌さんはその場に残って仮眠とも言えないほど短い時間ながら寝るつもりのようだった。
僕が席を立って部屋のドアノブに手をかけようとするとほぼ同時に、まだ触れていないそのドアノブが傾いて、ドアが開く。
「勉強は順調?」
「うん、それなりに。紫織さんはお仕事中じゃなかったの?」
「少し前に一区切りついたから、応援に」
「そうなんだ、ありがとう」
応援というのは、文字通りの「がんばれ」の意味と、手渡されたオレンジジュースのことなんだろう。
僕は「じゃあ、もう少しがんばるから、また後で」と言って、紫織さんに手を振りながらドアを閉めた。
席を外し損ねた僕は、そのままデスクに戻って他の二人が帰るのを待っていると、画面の前で突っ伏したままの金萌さんに声をかけられた。
『さっきの、一緒に住んでるお姉さん?』
「うん。僕の育てのお母さんの友達」
『落ち着いた感じの声だったよね。えっと……紫織さんだっけ?』
「うん。金萌さんまだうちに来たの一回だけなのに、よく名前まで覚えてたね」
緑郎くんと美桜さんは、実は既に何度かうちに来たことがある。とはいっても、一番多い緑郎くんでもまた両手で数えきれるくらいの回数で、美桜さんはどちらかというと僕の養母である紅葉さんを慕って来ることが多かった気もしなくはない。
紅葉さんはインターハイ女子400mの優勝経験もあるバリバリの陸上女子で、僕らの学校のOGということもあって、同じく女子陸上400mでエースを張っている美桜さんが紅葉さんを慕うのは理解できる。もっとも、名選手名監督にあらず、という言葉がある通り、紅葉さんの走りは紅葉さん自身が生まれ持った丈夫な脚に「400mを最初から最後まで全力疾走しても余裕を残す」スタミナが加わったことで完成しているらしいので美桜さん曰く「天才すぎて参考にならない」「よくも悪くも凡才の気持ちがわかってない」「才能に恵まれすぎた結果ほとんど根性論になってる」と正論ながらめちゃくちゃ言われていた。悪口とかじゃないから僕も紅葉さんも気にしてないけど、言った本人はすごく言いづらそうだったのを覚えている。
『シロちん、あんな美人のお姉さんたちに囲まれてて趣味おかしくなったりしないの?』
「え、うーん……どうかな。異性に対する趣味って意味だよね?」
『うん』
「まったく影響がないなんてことはないよ。すごく大事にしてもらってるし、みんないい人だから、そういう『理想の女性像』みたいなものは多少なり三人に共通するところもあるから」
『たとえば?』
「……僕より背が高い
いや、でもそもそも僕の背丈って同級生の中で一番低いしなぁ。だいたいの女子は僕より大きいし。
『守備範囲広すぎじゃない?』
「言っておいてなんだけど僕もそう思う」
『もうちょっと絞れそうなのないの?』
「じゃあ……芯がある人、とか? これだけは他の誰にも譲らないっていうような……自分だけの強みを持ってる人はカッコいいよね。……あっ、そっか。僕、たぶんカッコいい女の人が好きなんだ。外見はまぁ人それぞれだけど……心とか、生き様みたいなのがカッコいい人。それがたぶん、僕が好きな女性のタイプなんだと思う」
僕みたいな一度会ったきりの子供を引き取る前に四苦八苦してくれた紅葉さんみたいに。
大切な友達のために家の仕事の一切合切を引き受けて支えている紫織さんみたいに。
どんなにしんどくても周囲を明るく照らすために元気いっぱい動き回る橙花さんみたいに。
誰かのために自分にできる精一杯をやり遂げる姿こそ――僕の思う「カッコいい」の形なんだ。
『カッコいい人、かぁ……。アタシとは全然ちがうタイプぢゃん……』
「え、なんで? 金萌さんカッコいいよ?」
『……え?』
「いや、ほら……美桜さんに聞いたけど金萌さんって小学校まで普通に肌も白くてピンクのカラコンも入れてないまじめな子だったんでしょ?」
『ちょちょちょ! 待って待って! なんで知っ……ちょっとミオちーん!?』
顔を真っ赤にしながら喚き散らす金萌さんを見て、なんでこんなにも慌ててるのか僕は理解に苦しんだ。だって……、
「お父さんにすごく怒られたって聞いたよ。でも、キレイになりたいからって引かなかったんだって」
『いや、まぁ……これでも女子だし……』
「女の子がキレイになりたいのは普通なのかもしれないけど、そのためにこんなに必死になれるのって、金萌さんだからだよ。その必死さがお父さんに伝わったから、今は許してもらえてるんでしょ? 大人の人を納得させるくらい「キレイ」に一生懸命な金萌さんは、間違いなく「カッコいい」女の人だよ」
ね、と僕が声をかけると、それまで静止画のように何も映っていなかった画角の外から、緑郎くんと美桜さんがひょっこりと顔を出した。
バレてたかー、じゃないよ。普通にドア開けて閉める音してたよ。金萌さんはわちゃわちゃしてたから気付いてなかったけど。
『ちょいちょい! ミオちんなんでこれシロちんに教えたの!?』
『えー、だって金萌こういうのゼッタイ自分から言わないし……』
『言う必要ないじゃん!』
『親友がどんだけ頑張ってるか自慢したくなるのはしょうがなくない?』
『ぅぐっ……だったらロック! 今からミオちんの可愛いとこ十選言うから聞いて!』
『いや、いまさら聞かなくてもそんなもんオレが一番知ってるしな……』
「急に惚気はじまったね」
今度は美桜さんが追いつめられる番、となるかと思ったけど、この二人はなんだかんだ照れ隠しとかで相手を蔑ろにしないし、むしろ相手のいいところを肯定してるタイプだからなぁ。
緑郎くんは美桜さんが可愛いことしてたら「あいつまたなんか可愛いことしてんな」くらいサラっと言うし、美桜さんは緑郎くんがカッコいいとこ見せたら「見てよ、あの緑郎かっこよくない?」くらいしれっと言うからね。お似合いだと思うよ。
「ほらほら、イチャつくのは後にして、先に課題を終わらせようよ」
『なんだなんだ、いきなり特大ブーメラン投げてきたな』
『うちらが帰ってくるまでイチャついてたくせによく言うよね』
「いや、僕はただ金萌さんがいかにカッコいいか本人に叩きつけてただけだから」
『もうやめてー!』
この時、僕は気付いてなかった。
僕は金萌さんに対して「金萌さんはすごくカッコいい女性だ」って語ることに必死で、忘れてたんだ。
その直前まで話していた会話の内容を……「僕の好みのタイプはカッコいい女性」だと言っていたことを。
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