第11話 この子のためなら

 二月四日の立春。暦の上ではこの日から春が始まるというけれど、まだ日が昇り始めたばかりの時間のせいもあって、まだまだ寒さは隠しきれない。

 地球の環境問題を憂う時代になって久しいのに、この時期の寒さが変わらないのは喜ぶべきか嘆くべきか。どうあれ、今日も朝から積もり積もった純白の邪魔者をどけていく。

 今月は今日と再来週の火曜だけ遅番の11時半で、こんなに早く起きる必要もないんだけど、さすがに習慣というのは「一日だけ免除!」とはならない。気づいたらいつも通りの時間に目が覚めて、起きついでにトイレに行ってしまったのが運の尽き、布団に戻ろうとした頃にはとっくに目はパッチリと覚めていて、あたしは諦めと一緒に雪かきを肩に担いで、こうして雪かきのために玄関を出たわけだ。

 別に岐阜県が雪国というわけではないけれど、山間部はそれなりに天候の影響が顕著に出る。なんせ、県内では南に行けば日本一暑いなんてことも珍しくはないし、北に行けば東北並みとは言わないまでもマイナス5℃以下なんてこともざらにある。そんな中で、三色村の2月中の平均気温もだいたいマイナス2度くらい。昨夜は特に寒かったから、月間平均よりもさらに2℃くらい低かったと思う。そりゃあ雪くらい積もるよね、ということだ。


 ざくざくと耳心地のいい音を立てながら庭の雪だけでなく、ついでに自分の家の前の道路も片づける。いくら自分の家の前とはいっても、公道をあたしが片づける必要なんてないけれど、どけないと困るのはあたしだ。出勤もできないし、何より近所のおばちゃんたちにたしなめられる。まぁ、怒鳴られるわけでもめちゃくちゃ叱られるわけでもないから、スルーしようと思えばできるけれど、せっかく仲良くしてくれるおばちゃんたちに残念がられるようなことはしたくない。だから、いつも出勤に間に合う程度の時間をかけて雪かきをして……終わる頃には汗だくになっているから、体温を取り戻す意味も兼ねて朝風呂だ。

 それまでには橙花とつくもも起きてきていて、お風呂のお湯を張りなおしてくれている。意外にも、うちで一番起きるのが遅いのは紫織だ。

 あたしと橙花は仕事があるし、つくもも学校に行くために早起きをしているけれど、紫織は家にいるから……という理由だけではなく、本当に元から寝起きが悪い。学生時代はあたしと橙花が毎朝起こしに行ってたくらいに。社会人になってから、一人で起きるのには苦労したと思うから、ドロップアウト家で過ごすようになってからたっぷり眠れるようになったのはよかったと思う。本人も、自分の寝起きの悪さには自覚があるみたいで、朝ごはんは前日の夜に作り置きしてくれている。冷めても美味しい紫織の朝ごはんは、熱いうちに食べるよりも冷めてから味が染みる煮物が多いけれど、朝から食べるには少し濃いめの味付けだというのに、なぜか飽きもなければくどさもない。こういう繊細な技術や気遣いができるのが、紫織の紫織たる所以ゆえんだと思う。


「こんなもんかな」


 軽く周囲を見渡す。雪かきを始めた時は薄い紫と濃い橙の二色に彩られていた空の色は、今はすっかりと白んでいる。

 雪かきをガレージの壁に立てかけて、お風呂へと直行する。その途中、食堂の時計を横目に見るとまだ午前六時をちょっと回ったところだった。今日は少し時間が掛かってしまったから、今日が遅番で本当によかったと思う。


「うーさーぎーおーいしー、かーのー、やーまー……」

 

 昔から三色村では、夕方のチャイムがこの曲だ。このメロディが流れれば子供たちは家に帰っていき、畑仕事をする大人たちは農具の片づけを始める。

 それまで一緒に遊んでいた友達とバイバイするほんのちょっとの寂しさと、家に帰ったら家族が「今日のご飯は○○ほにゃららだよー」と迎えてくれる温かさを想起するこの曲は、長風呂をしたいわけでもなくただ体を温めるためだけに浸かるにはちょうどいい長さだ。

 

「みーずーはーきーよき、ふーるーさーとー……っと」


 お風呂を出て出勤用の衣服に替えたあたしが食堂に向かうと、つくもが食べ終わった食器をシンクの洗い桶に浸けているところだった。


「おはよう、紅葉さん! 今日の玉子焼き、すごかったよ!」

「ほんと? ならいつも以上に楽しみだね。橙花は?」

「もうお仕事いったよ」


 ちら、と時計を見ると六時半。七時から業務が始まる橙花は、あんなでも一番最初に出勤する。つくもはすっかり敬語も抜けて、子供らしさを少しずつ取り戻している気がする。

 ただ、同年代と比べると態度は大人びているけれど、性格が実年齢に追いついていないようにも感じる。たとえば、同年代の女子との距離感が、他の男子と比べるとやや近いように見えた。


 同性婚の認められた現代において、男女間の溝がやや狭まったみたいなことはたまに聞く。実際、昔はよく聞いた「男の子のくせに」「女のくせに」みたいな言葉を聞かなくなった、というのはあたしとしても実感がある。けれど、それを加味してもやっぱりつくもの女子に対する距離感は他の男子のそれよりもいくらか近い。

 つくもの普段の態度や性格からして、それが下心に由来するものではないということは、同年代の子たちもわかっているらしく、仲のいい女の子たちからは「女子同士で喋ってると思えばぜんぜん気にならない」とさえ言われているし、つくもはあくまで男女関係なくみんなと仲良くしようとしているだけで、女子に対して過剰なボディタッチをするようなことはないし、近さゆえに踏み込みすぎた話題に触れることもない。そういう意味ではとてもフレキシブルな対応ができていると思う。

 ただ、他の男子よりも女子の気持ちを察するのが上手いのと、女子の話題にある程度ついていけるのが、他の男子よりも「近い」ように見える原因なのかもしれない。そのせいで、つくもを嫌っているわけではないけれど距離感を測りかねている女の子がいるらしいということも、つくもの友達から聞いた。

 こればっかりは、どちらが悪いわけではないから悩んだ。つくもはあくまで気遣いというか友達付き合いの一環として、女子の話題に対してもわかる範囲で共感を示しているだけだ。それに、本当にわからないことを無暗むやみに頷いたりはしないし、ついていけない話題だと思った時は相手を不快にさせないような言い訳でその場を離れる。男子とももちろん仲はいいし、男子と女子が対立構造を作る時はどちらにも属さない。つまり何を言いたいかといえば、つくもは「幼い性格と大人びた思慮深さ」のアンマッチに首を絞められているってこと。

 

「紅葉さん、今度の土曜日ってお休み?」

「うん。なに、どこか行きたいところでもあるの?」

「昨日、いつもの四人で映画を見に行こうって話になったんだけど、車を出してくれる佐倉さんの家までちょっと遠くて……」


 いつもの四人、というのはつくも本人を除いて、つくもと特に仲良くしてくれている佐倉美桜さくらみおちゃん、三鳥緑郎みどりろくろうくん、古鐘金萌こがねかなめちゃんのことだと思う。元々は美桜ちゃんと緑郎くんの家が近くて仲良しだったみたいだけど、美桜ちゃんが夏休み中に仲良くなった金萌ちゃんを混ぜるようになって、男一人じゃ肩身が狭いからって同じ福祉委員会で仲がよかったつくもを緑郎君が混ぜるようになり、二学期からはほとんど固定メンバーになったらしい。

 思い返してみると、あたしと紫織と橙花が仲良くなったのは保育園からずっと一緒だったからだけど、つくもは後からこの狭いコミュニティに入ってきたわけだから、ある程度は仲良くできる相手もいるだろうけれど、こんな風にすごく仲良しな固定のグループの中に入れてもらえるというのは、本当にすごいことだと思う。

 つくもがそこまで考えているかは置いておくとしても、特に仲良しな友達との付き合いのため――言ってしまえば「自分のため」にワガママを言えるようになったのは、このドロップアウト家にとっては偉大な進歩だ。こんなにも可愛い弟分のささやかなワガママを叶えてやりたいと思うのは、たとえ書類上の親子でなかったとしても、紫織が橙花だって同じように返事を返すだろう。


「いいよ、佐倉ちゃんまで送っていく。せっかくのお出かけだもんね、いつもよりちょっとだけ多めにお小遣い渡すから、いっぱい遊んでおいで」

「えっ! い、いいよお小遣いは! ちゃんと今までの分を貯めてきたし、映画見てごはん食べるくらいは持ってるから!」

「なら、パンフレットとかグッズとかも買っておいで。友達と遊んでる時なんて、思わずお金は飛んでくものだから。それに、めったにワガママ言わないつくものことだから、無駄遣いなんてしないでしょ?」

「それは、そうだけど……」

「それに、こういうのはたまにだから。いつもやるわけじゃないからね、今回はたまたまちょっとお小遣いが多かっただけ」


 ね? と少しだけ強く言うと、つくもは観念したように「わかった。ありがとう」と言ってくれた。

 これは他の家庭にとっては、本当に小さな一歩だと思う。あるいは、これがワガママばかりの子供で、ようやく真面目になってきたという家庭であれば後退ともいえるだろう。だけど……うちにとってはめちゃくちゃ偉大な一歩なんだ。今日この日を記念日にしたいくらいに。本当に、この子がいれば我が家は毎日が特別だらけになってしまって、あたしが神様だったら日本のカレンダーは祝日だらけにしてたかもしれない。


「おっと、そろそろ学校行く準備しないとね。今日もがんばって行っておいで」

「うん。じゃあまた帰ったらね、紅葉さん!」


 この日常を守るためなら、どんなに体力を使うような仕事にもやる気が出るってものだ。

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