第7話 大人の責務

「今日からお世話になります。真城つくもです。よろしくおね――」


 あたしとつくもがドロップアウト家に着くと、紫織と橙花は慌てた様子で部屋の奥から駆け出してきた。時刻は8時を少し回って、5月の三色村の冷たい風は、それに慣れたあたしでさえ肌を切り裂かれるような感覚になるのだから、三色村の気候に慣れていない中学生には厳しい条件だっただろう。紫織から毛布を被せられたつくもは、挨拶を終えるよりも早くお風呂の脱衣場へと放り込まれた。


「挨拶は後で改めて。今は体をちゃんと温めてきなさい。ごはんも用意しておくから、お風呂を出たら来なさい」

「わ、わかりました」

「慌てずにゆっくり浸かってきな。急かしたりしないから」

「この家けっこう広いから迷わないようにねー?」


 そう言ってつくもを風呂に入れると、リュックひとつ分すら満たさない彼の荷物を居間に運び、あたしたちは夕飯の準備をしながら今後のプランを話し合うことになった。

 もともと、この家――近所の人と家の話をする際に経緯の説明が面倒だったので、ここ最近ではもっぱら「ドロップアウト家」という名前を用いている我が家では、三人暮らしをするにあたっていくつかのルールを決めた。それらの内の役割分担については、以前も話した通りだけれど、他にもいくつかお約束があった。そのひとつが――「男を連れ込まない」だった。

 さすがに、事態が事態だし、紫織と橙花も合意した上でつくもをこの家に受け入れたのだから、このルールのためにつくもを追い出すなんてことをするつもりは微塵もないし、絶対にないとは思うけれど、他の二人のどちらか一人でもそれを言うのなら、あたしは全力でつくもの味方をするつもりだった。けれどそれは親友二人よりも少年一人を選んだ、という話ではなくて、大人が子供を守る義務を果たすために、そうするのが当たり前だと思ったからだ。そして、それは二人も同じ意見なようだった。

 さて、そうなれば一件落着。――と、そう簡単にはいかない。


 そもそも、このルールが生まれた理由は、決して誰かしらに恋人や男友達ができた場合、他の同居人のやっかみが出てしまうからじゃない。

 軽度の男性恐怖症を持つ紫織を守るために必要なルールだからだ。


「しおしお、大丈夫?」

「さっきは慌ててたから平気そうだったけど……そろそろ落ち着いてきたでしょ。大丈夫だった?」

「どうかしらね。今のところは大丈夫よ。男の子とはいってもまだ子供だし、そんなことを言ってられる場合でもなかったでしょう?」


 相手が子供だったから、と言う紫織だけど、数日前に家の庭に落ちてきたプロペラ機のラジコンを取りに来た村の男の子たちに対して、縁側から「入ってとっていいわよ」と言ってあげることしかできなかったことを悔いていたのを、あたしも橙花も知っている。子供なら男として勘定しない、は紫織には無理だ。子供だろうが男は男。紫織がこれまでに植え付けられた苦手意識をすり抜ける要因にはならない。

 それでも、紫織は大人としての責務を果たそうとしている。つくもを泣かせた大人たちのツケを、あたしと一緒に払おうとしてくれている。紫織も、橙花も。

 だって……この三色村の大人たちはみんなそうやって、子供のことを守って、育てて、そして……ああなりたいと思うようなカッコいい背中を見せてきてくれた。あたしたちだって、そんな大人でいたいと思うから……だから、つくもを守り育てていくことに躊躇なんかない。


「私だって三色村の大人よ。それにこの中では一番のお姉ちゃんだもの。だったら、たまには可愛い妹分たちにカッコいいところ見せないとね」

「……そんなの、ずっと見てきたよ」

「うん。しおしおはいつだって、わたしたちにとって一番カッコいいお姉ちゃんだよ!」

 

 紫織の手元のフライパンには煮込みハンバーグ。子供が好きそうな肉料理だけど、つくもの体つきを見るに、まだあまり量は多く食べられそうな様子がないのには気づいているのか、サイズはかなり控えめだ。けれど、もしかしたら「だからこそ」いっぱい食べようとするかもしれないと数を少し多く作って、そうならなければたぶんこれは明日のお昼ごはんになるだろう。

 あたしはというと、たぶん同年代の成人男性と同じか、それよりも少し多いくらいだと二人にはよく言われる。高校・大学と陸上をやっていて、周囲にはあたしくらい食べる女子はいっぱい居たし、社会に出て仕事を始めたら職場がアレだったので、周りの食事にまで気が回らなかったから、あたし自身はそんなにたくさん食べてるつもりはないんだけど、確かに普段の二人の食事を見ていると……ちょっと、多い気がする。いやでも紫織のそれは橙花より明らかに少ないし、この話題の基準値は橙花でいいはずだ。たぶん。

 

「……うん。こんなものね。酸味が少し強いかもしれないけれど、橙花はどう思う?」

「わたしはこのくらいが好きだけど、お子さまには厳しいのかな?」

「なら大丈夫でしょ」

「そうね」

「ねぇ今なんでわたしに試食させたの。配膳してないで説明してよ。ちょっと」


 いやだって橙花って「オムライス好き! ハンバーグ好き! タマネギ嫌い! コーヒー苦い!」っていう典型的な子供舌だから今この状況において橙花ほど参考になるものないし……。


「お風呂ありがとうございました。あと、着替えも……」


 そんなこんなで橙花をスルーして配膳を終えるとほぼ同時に、つくもがお風呂をあがってきていた。

 いったいどれだけぶりに汗を流したのか、再会した時は汗と脂まみれだった髪は、見違えるほど綺麗なベージュ色の輝きを放っていて、ショートボブの優しげな雰囲気も相俟って天使か何かかと見紛うほどだった。え、この子の親戚たちってこんな天使みたいな子をたらい回しにしてたとしたら相当な節穴アイズだよ。


「かわいい……」

「ちっちゃ……」

「ん? あれ? ごめん、男の子で合ってるよね?」

「合ってます……」


 実はさっき、ごはんの支度をする前に着替えを持っていこうと思ってつくものリュックの中身を確認したんだけど、この子あの制服以外の服なんにも持ってなかったんだよね。

 その制服もだいぶ汚れてて、それは明日クリーニングに出すことにして、今は橙花の持ってたズボンとパーカーを着てもらっている。


「ごめんね、あたしら三人とも割と大柄でさ。服、合わなかったよね」

「一番ちっさいわたしでも164あるからね。つくもくんは?」

「去年の身体測定だと138センチでした」

「去年……? 学校の身体測定って毎年やるわよね?」

 

 ふと口を零れた紫織の問いかけに、つくもの言葉が途切れる。

 私はここに着くまでの道中で聞いたから事情は知ってる。知ってるけど……あまり気分のいい話ではなかった。

 何より、あんな軟禁生活みたいなことをされてなお、つくもは前の家のおばあさんを庇おうとする。だから悪態すらつけなかったのに不満さえある……のは、さすがに大人げなさすぎるか。だからというわけではないけれど、あたしが口を衝いて出せなかったことを、二人に言ってもらおうと思う。

 

「前のつくもの保護責任者が家の仕事を押し付けて学校に行かせなかったんだってさ」

「「は?」」

「あ、いやおばあさんにも事情が……」

「どんな事情?」

「え? あ、それは……ちょっと、僕にはわからないですけど……」

「わからないってことは、その事情をつくもは聞いてないってことだよね。事情がないなら論外だし、あってもそれを本人にも学校にも伝えずに登校拒否を強要するのは世間一般的にアウトなんだよ。つくも、おばあさんにはお世話になったこともあるだろうから庇いたくなる気持ちはわかるけど、たとえそれがどんな恩人だったとしても、やっていいこと、悪いことがあるんだよ」

 

 あたしはつくもの前で片膝をついて視線を合わせると、つくもの目をまっすぐに見ながらそう告げた。つくもは「恩」に対して誠実すぎる。

 誠実は美徳のひとつだ。それは間違いない。けれど……そのせいで子供つくもが傷付くのなら、時に誠実さは美徳の皮を被った暴力なのかもしれない。


 今日はじまったばかりの家族だ。まだ同じ屋根の下で寝てもいないし、同じ釜のめしはこれから食べるところだ。

 だけどね、それでもあたしたちはもう「四人家族」なんだ。カッコいいお姉ちゃんと、あたしと、ぽんこつな妹と……そしてかわいいかわいい末の弟。

 だからあたしたちは何があってもつくもの味方。まだお互いに何も知らない今でも、家族を傷付けるものがあるのなら、あたしたちはそれを拒絶する。それがたとえ「美徳」でも。


「つくも。あたしたちはつくもがどんなワガママを言っても、頭ごなしに怒ったりしないよ。ダメなことは叱るし、無理なことはできないけど……あたしたちはあたしたちのできる限りで、つくものワガママを聞いてあげたいと思ってる。だから、いい子でいなくてもいいんだよ。悪い子にならなきゃいいんだ。つくも、嫌なことはちゃんと嫌だって言えるようになろうね」


 あたしはつくもの頭を撫でながらその小さな体を抱き寄せると、つくもはようやく声を上げて泣き始めた。

 不安と、恐怖と……いったいどれだけの感情を抑え込んできたのかはわからない。だけど、これだけは今日の内に……この家に来て日を跨ぐ前に言わなきゃいけなかった。

 だってここはもう、つくもの家なんだ。つくもがワガママを言っていい家で、我慢しなくていい家だ。それだけはわかってほしかった。


「大丈夫。いっぱい泣いていいよ。あたしも、紫織も、橙花も……つくもの涙を笑ったりしないよ」

「うわぁぁぁぁ! おとぉさぁぁぁん! おかあさぁぁぁん! ……っぐ、うっ……うわぁぁぁぁあん!」


 この日――つくもは両親を失った後、初めて泣いた。

 両親の死を悼む心はもちろんつくもにもあったけれど、泣いていられるような時間を周りの大人たちは与えてくれなかった。

 だけど今は……この家は、そんな時間なんていくらでも与えてあげられる。

 だって我が家の名前は「ドロップアウト家」……今は誰も、社会の時間に縛られてなんていないんだから。

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