第6話 もっとおばかでいればいいのに
だから……今回こうして呉内さんに頼ったのは、首を括ろうとする人が最後に遺書を書くのと同じように、「死を覚悟したからこそ、その直前にしておくこと」のように思っていたし、正直なところ、これまで多くの大人たちに騙されてきた身からすると、たった一度ほんの少し会話をしただけの相手をこんな状況で頼ってしまうのは、半ば自暴自棄の意味も含んでいる。
もう春だというのに、5月の風は未だひんやりとした冷たさを保ったまま、僕の頬を撫でていく。この薄ら寒い春風の手は、どうしてこんなにも僕を構うのだろう。
約束の16時まで、あと5分。時折、ホームの方に視線をやっては、麦わら帽子を持つ、あるいは被っている女性を探すけれど、今のところ見つけられない。
今ゲートを抜けていったのが、16時着に最も近い電車の集団だけれど、その中に呉内さんらしい人はいなかった。今のところ、この駅に向かう電車に遅延があるというアナウンスはない。
ひとつ後の電車に乗ったのか、あるいは僕が見逃しただけで、向こうも僕を探しているんじゃないか。そう思って呉内さんに電話をかけようとするけれど、なぜか指が動かない。
もしも、呉内さんの「迎えに行く」という言葉が嘘で、彼女もまた僕を騙す「悪い大人」の一人なのかもしれない、という想像が脳裏をチラつく。どうにか振り払おうとしても、ひとたび生まれた疑念はまるで真っ白なシャツに染み付いた焼き肉のタレのようにこびりついて、拭おうとするほどに広がって染み込んで落ちにくくなる。
あの時の呉内さんは、こんがりと焼けた肌とキリっと鋭い目つきで、少し怖い印象もあったけれど……それでも、見ず知らずの僕のために名前と連絡先をくれた。頼っていいと言ってくれた。そんな人を疑うようなら、僕はかつて憧れたテレビの中のヒーローに助けてもらう資格すらないんだろう。
「……ブライトマン、僕は君に助けてもらえるような人間かなぁ?」
はるか彼方の光から、人々の平和と未来を守るためにやってきた巨大ヒーロー、ブライトマン。
物心ついた時から、僕はブライトマンのグッズやDVDに囲まれていた。お父さんが大好きなシリーズ作品だったからだ。だけど、今の僕にはこのブライトマン人形しか残っていない。
ブライトマンは地球生まれじゃないけど、人の優しさや思いやりに心を打たれて、人間を守ろうとしてくれる。中には悪人だって大勢いるはずなのに、大勢のいい人を守るためには少ない悪人も守らなければならないからと、その身を削って巨大な敵と対峙する。僕はそんなブライトマンに憧れ続けて、だけど気づいたら周りはとっくにヒーロー作品なんて卒業していて……なのにその憧れを隠し切れなかった。
僕は疫病神かもしれない。僕の周りの人々が次々に不幸な目に遭ったのは、僕が疫病神だからなのかもしれない。それでもきっと、僕の大好きなヒーローは僕を守ってくれるだろう。
僕には夢がない。夢を抱く暇がなかった、とも言い換えられるかもしれない。だけど……たったひとつ、もしも呉内さんを頼った僕の判断が間違っていなかったら……僕を騙したりせず、本当に僕を迎えにきて、こんな僕を家に招き入れてくれるなら、きっと呉内さんは僕にとってのヒーローに違いないはずだ。
人の夢が無限の形を作るのなら、それはきっと「どうなりたいか」だけが夢じゃない。「どうなりたくないか」も夢と呼んでいいはずだ。
だったら僕の夢はただひとつ。ヒーローが助けたことを後悔するような人間にだけはなりたくない。助けてよかったと思えるような人間になりたい。
だから教えてほしいんだ、ブライトマン。僕は、君に助けてもらえるような……助けても後悔しないような人間かなぁ?
「ブライトマンが好きなの? あたしも子供のころ、友達とよく見てたよ」
「――――っ!」
人形に
双眸から零れかけた不安をだぼだぼに余った服の袖で拭い、見上げた先にいたその人は、照明の逆光に照らされてシルエットしか見えなかったけれど、僕の頭に乱暴に被せられた麦わら帽子と差し伸べられた褐色の手のひらが、彼女が誰かを雄弁に語っている。
「く、呉内……さん……?」
「お待たせ、待たせてごめんね。言い訳させてもらうと、ここに来るまで信号がひたすら真っ赤でね。正直、キミがしびれを切らしてどっか行っちゃったんじゃないかと気が気じゃなかったよ」
逆光の中で現れたその女性は、今までに出会ったどんな大人よりも「ヒーロー」で――。
◆
「改めまして……久しぶりだね、つくも君」
「はい、これからよろしくお願いします、呉内さん」
あの惨劇から三年……久しぶりに会った少年は、当時よりも肉付きが落ちて随分と儚げな印象を受けた。あの頃は幼さのせいかと思っていたけれど、今こうして対面してみても柔らかいあどけなさを残した顔立ちは、初対面ならついつい「どっち?」と聞きたくなるほど中性的に見える。
でも……そんな子がこうも痩せて、目の下に隈を作り、健康的とは決して言えないような白い肌をしているのを見ると、それを強いた者に対して同じ大人として言い表しきれないような憤りを感じる。
「はは、紅葉でいいよ。苗字で呼ばれるのは慣れてないんだ」
「そうですか? じゃあ、僕も呼び捨てでお願いします、紅葉さん」
「わかった。よろしくね、つくも」
つくもは年齢の割に素直で、はぐれないようにと手を繋ごうとすると「さすがにもう小学生じゃありませんよ?」と微笑みながらもその手をどけようとも振り払おうともしなかった。
あるいは、これまでの経験から信用してもいい人との接触を、人の温かさを感じられたはずの時間を取り戻そうとするかのように、あたしの手をしっかりと繋いでいる。
「これ……あの時のバイクですか?」
「うん。二人乗りのやり方はわかる?」
「いいえ。教えてもらえますか?」
「OK、じゃあまずは乗り方から……」
中学生ともなれば、こんなにも流暢に敬語を話せるものなのか。……そんなはずがない。こんなに流暢な敬語を小学校の内にマスターできるわけがない。
日常的にそれを強いられたんだ。敬語だけじゃない。他人に遜る態度、姿勢……言動の全てが、まるで常に上下を意識させられていたかのように完璧だ。
確かに将来、社会に出ればその知識は決して無駄にならないだろう。けれど……そんなのはもっと遊んでバカやって怒られてからでも遅くないんだよ。
まだまだいっぱい美味しいもの食べて、友達と遊んでバカやって、テスト勉強に四苦八苦しながら点数の比べ合いっこして……それからでも全然遅くないはずの知識なんだよ。
なのになんでこの子はもうそれをマスターしてるの? もっと後でいいじゃんそんなの。もっとちゃんと子供らしく大人にも生意気なこと言っていいんだよ。敬語だってですます付けるだけで十分だよ。難しいのはこれから覚えればいいだけなんだよ。文武両道を目指して頑張ってたあたしだって、これから一緒に暮らすってなったらちょっとくらい態度を緩めたし敬語だって雑になってたよ。なのにさぁ、こんな小さな子がどうして一緒に暮らす相手にもこんなバリバリの敬語使わなきゃいけないの?
「つくも、敬語とっていいよ。普通にしゃべりな」
「あ、はい……いや、うん。……ごめんなさい、ずっと他の人には敬語を使いなさいって言われて、そうじゃない話し方はあんまり慣れていなくて……」
「ううん、こっちこそごめんね。つくものペースでいいんだよ」
もしも今この場につくもを引き取ったっていう親戚連中が全員そろってたらまとめて蹴り飛ばしてたと思う。
そして、あたしも少し冷静さと配慮に欠けていた。「普通にしゃべりな」じゃないんだよ。今のつくもにとっては、敬語が普通の話し方なんだ。あたしのエゴでそれを崩してもらおうっていうんだから、それを急かすのはデリカシーの欠如と言われても仕方ない。
「で、ここに足を乗っけて、あたしの腰からお腹に向かってしっかり腕を回して、カーブする時はあたしと同じ方に体を傾けてほしい。ちょっと怖いかもしれないけど」
「わかりました」
「あと、乗る時にここに右足当てないように気を付けてね」
「なんでですか?」
「めっちゃ熱くなるから。火傷するよ」
聞き分けもいい。返事もよくてわかんないことは適当に返事をせずちゃんと聞いてくれる。だから飲み込みも早い。本当にすごくいい子で、賢い子だ。
だけれどその賢さ、ものわかりのよさ、聞き分けのよさが、この子がここまで生きるために必死に身に着けたものだと思うと、ひどく残酷だ。
だって子供ってもっとおばかじゃん。ものわかりよくないじゃん。言うこと聞かずにすぐ勝手なことするじゃん。
少なくともあたしの知る「普通の子供」はそうだよ。12歳なんて思春期真っただ中で、早い子なら反抗期だって来てるんだよ。同い年くらいでもっとひねくれた子だっているし、大人に生意気を言うどころか完全にナメくさってる子供だっていないわけじゃないよ。なのにこの子は本当に素直で優しくて賢くて……それがどこまでも残酷だよ。
「――って感じ。大丈夫そう?」
「はい」
「じゃあ乗ってみようか」
あたしは橙花みたいに愛想よく誰とでも仲良くなれたりしないし、紫織みたいに美味しいごはんを作ってあげることもできない。
あたしにできることは、動くこと。誰よりも速く、誰よりも早く、動くことだけ。
だからね
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