第5話 大人と子供

 ――今になって思い出せば、残酷なほどに優しく温かい日々だった。

 働き者でかっこいいお父さんと、優しくて美味しいごはんを作ってくれるお母さん。

 そんな二人に愛されて過ごした日々を、なんで今は記憶の中にしか思い描くことができないのか。

 それを誰に問うこともできなくて、僕はただ握りしめた1枚の紙に縋ることしかできないでいる。


 3年前、僕の両親は10人以上の死者を出した交通事故の犠牲者としてこの世を去った。

 僕の誕生日祝いに、普段はいかないようなレストランに行く途中のことだ。

 横断歩道の青色を確認して、他にもかなりの数の人たちが同じようにその横断歩道を渡っていた。

 そこに、一台の乗用車がノーブレーキで突っ込んできて、逃げ遅れた人たちが大勢いて……その中に、僕の両親もいた。

 僕はというと、レストランの後でもらえるプレゼントが気になって、少し前を歩いていたのと、右折レーンの最前で停まっていたライダーさんが僕を抱えて飛びのいてくれて助かった。


『ごめん……キミだけしか助けられなかった』


 ヘルメットで隠されていてわからなかったけれど、その声を聞いてはじめて、その人が女性だということに気が付いた。

 振り返ってお父さんとお母さんを探そうとする僕の頭をその胸に押し付けて、その惨状を見せないようにしてくれたその人の優しさを、当時の僕では気づくことさえできなかった。

 ひどい……本当にひどい事故だったと、葬儀の時になってようやく聞くことができた。あれから3年経った今でも、「日本史上最悪級の居眠り運転事故」だったらしい。

 事故現場はアスファルトの色を埋めつくすほどの赤い水たまりができていて、まるで地獄の様相だったと、同じ事故に遭った被害者遺族の会で教えてもらったこともある。


 とにもかくにも、僕は家族を失った。そこそこ裕福な家だったから、いろんな親戚の人が僕を引き取ろうと言ってくれたけれど……その理由は、なんとなく察せてしまった。

 最初にお世話になった家で、僕はお父さんとお母さんが遺してくれたほとんどの遺産をその親戚に奪われ、そして別の親戚へと放り棄てられた。

 そして、お金を失った僕に対して、それまで優しかった親族はその態度を一変させた。2年かけて、いったいどれだけの家を転々としただろうか。

 去年の夏、その家の老夫婦は両親とはだいぶ遠縁だったけれど、ようやく腰を落ち着けられる家に辿り着いた。でも、今年の春にその家のおじいさんまで亡くなった。

 もともと、僕を快く受け入れてくれたのはそのおじいさんの方だったのだけれど、おじいさんが亡くなったことでタガが外れたように、おばあさんは僕にきつく当たるようになった。


『この疫病神! 自分の両親だけじゃなく、うちの旦那まで殺しやがって!!』


 疫病神、とい言葉には自分でも不思議なくらい納得を得られた。なるほど、疫病神。だから僕のお父さんとお母さんが死んだんだ。だからみんな僕につらくあたるんだ、って。

 だけど……どんなにその言葉に納得しても、僕の中に残るお父さんとの記憶がそれを否定するんだ。


『世の中には人に不幸をまき散らすやつもいるし、勝手に不幸に溺れるやつもいる。でもな、不幸なんてものは気の持ちようだ』

『もしも降り注ぐ不幸に泣きそうな時は、その不幸のおかげで得られたもの、失わなかったものを大事にしていればいいんだよ』

『幸せなだけでは得られないものも、この世にはたくさんある。そうやって集めたものが、お前だけの財産になっていくんだよ』

 

 僕は家族を失った。お父さんとお母さんが遺してくれたお金も失って、僕をなんの打算もなく保護しようとしてくれたおじいさんも失った。

 けれど……僕が失わなかったものは? 僕が得られたものは?

 手元に残ったのは今年から通い始めた学校の制服と学生カバン。中身は……おばあさんがどこかへと捨ててしまった。おかげで先月から学校にも行けていない。

 何度か学校の先生が心配して家に来てくれたけれど、その度におばあさんが追い返していて、結局は僕が閉じこもっているような感じで友達には伝わっているんだろうと思う。

 実際のところは、おばあさんは家の仕事のほとんどを僕に押し付けていて、学校に行こうとすれば暴れてそれどころではなくなってしまうせいだ。


 おじいさんには恩もある。おばあさんにも、少なからず恩はある。だけれど……僕はもうこれ以上、僕に残ったもの、失わなかったものを傷つけられたくはない。

 ごめんなさい、おじいさん。僕では、おじいさんの大事な人を守ってあげられない。

 僕の不幸がおばあさんの大事なおじいさんを奪い、僕の至らなさがおじいさんの大事なおばあさんを見捨てる結果になるけれど……それが僕にできるたったひとつの冴えたやり方だから。


『……少年、あたしとキミにはなんの縁もないが、もしもキミが頼れる人を見つけられなかったら、あたしのところにおいで。あたしでよければ、必ずキミの味方になるから』


 あの時に渡されたたった1枚の紙きれを、3年経った今でも握りしめている。

 それは、その人の名前と番号が記された手帳の切れ端。その人の名前は――、





「もしもし、どちら様ですか?」


 畑仕事を終え、汗を流すべくお風呂を上がって早々、あたしのスマホがピロピロとやかましくがなりたてるのを確認すると、そこに移された文字は「非通知番号」の5文字。

 普段は非通知からの連絡なんてほとんど出ないのだけど、その時のあたしは何かに衝き動かされたように、一切の躊躇なく通話を繋いだ。


『あの……呉内さんのお電話で合ってますか?』


 やや警戒心を残して聞いた声は、想像よりはるかに若く……というか、幼いものだった。

 

「えっ……。あ、はい。呉内紅葉の番号で合ってますが、そちらは?」

『よ、よかった……! あの、僕つくもです! 3年前、呉内さんに助けてもらった真城つくもです!』

「真城……助けた……あっ、あー! はいはい、覚えてるよ。あの時の男の子だよね。ご両親のことはテレビで見たよ。残念だったね……」


 その声の主は、3年前にあたしが居合わせた事故の現場で、あわやというところで助けることのできた少年だった。

 あれは、本当にひどい事故……いや、事件だった。凄惨に凄惨を重ねつくしても足らないような、真っ赤に塗りつぶされた事故現場は、微動だにせず地に付した亡骸も相俟って、地獄の様相を醸していた。あたしはあの時、たまたまその場にいただけで当事者ではないけれど、それでも当時の出来事は未だに忘却から最も遠い場所にへばりついて、時に夢という形で想起するほどだ。

 

『いえ、気遣ってくれてありがとうございます。ところで……あの時に僕に言ってくれた言葉、今でも有効ですか……?』

「……頼れる人には、出会えなかった?」

『出会えなかったわけではないです。けれど、その人はもういません。何より、僕にもあまり余裕がありません。この3年間、あなたからもらったこの紙を心の頼りにしてきました。正直、これ以上もう嘘や建前に踊らされるくらいなら……呉内さんがどんな人でも、あなたを信じて最後にしたいです』

「はは……あの一瞬の出来事だったのに、ずいぶんと信頼してもらえたんだね。これは責任重大だ。……いいよ、迎えに行く。だけど今あたしは故郷の岐阜に戻っててさ、距離次第では少し時間が掛かるかもしれない。それまではどうするつもり?」

『前の家を出る時に、3日分の食料とほんのちょっとのお金だけは持ってきました。今、名古屋の漫画喫茶を転々としてます。ここなら、呉内さんが西にいても東にいても大丈夫だと思って』


 名古屋なら、今から行っても夜までに戻れるだろう。聞けば直前まで住んでいた家を聞くと広島だったというし、あの事故があったのは東京だった。

 あたしが迎えにいくにしても、どこで落ち合えばいいかを彼なりに考えた結果、日本の中央都市である名古屋で待てばいいと考えたのは、子供らしくも賢い考えだと思う。

 そして幸運なことに、今あたしがいる三色村から名古屋までは、下道を使っても片道3時間半くらいの距離。今から急いで準備して出れば、日付は跨がないはずだ。


「わかった。今から行くから、4時くらいに名古屋駅で落ち合おう。あとは……そうだね、麦わら帽子を持っていくから、それを目印にしよう」

『はい。えっと……ご迷惑をかけてごめんなさい。それと、ありがとうございます』

「こういう時は後半だけ言えばいいんだよ。こっちこそ、最後の最後にあたしを頼ってくれてありがとう」


 そう言って、あたしはスマホの通話切断ボタンを押した。実は途中からスピーカーモードにしていて、紫織と橙花もこの話を聞いていた。

 あの子があたしを頼ってくれた時、「いいよ」と返事をするまでに少しだけ間が開いてしまったのは、二人に許可をもらおうと目配せをしたからだ。

 だけど、二人は頷いてくれた。事情が事情だけに、二人からすれば単に厄介事を抱えるだけでなんのメリットもないはずなのに、異を唱えるどころか表情に一切の曇りもなかった。

 でも……それもそうか。


 この村の人たちはみんな、あたしたちを本当に可愛がってくれた。同じ地域の同じ村に住むだけの関係だというのに、大人はみんなあたしたちを自分の子供のように接してくれた。

 だから……あたしたちは知ってる。大人は子供を守るものなんだ。子供は大人を見て「あんな風になりたい」って思うものなんだ。

 大人は子供の前じゃカッコいいヒーローじゃなきゃいけないんだ。それが大人が大人であるための義務なら……あたしたちももう、その義務を果たす側にいるんだ。


 子供が大人に助けを求めてる。なら……大人ヒーローはどうする?


「つくも君の荷物はどうやって載せるつもりなの?」

「大工の山田さんがNinjaのサイドカーもってたはず。今から貸してもらえないか頼んでくる」

「今からおにぎり作るから持ってって! あと、まだ5月だから帰りが遅くなるなら上着もうひとつ持っていった方がいいかも!」

「ありがと橙花。上着か……男物の服ならいくつかあるけど、あれから3年だから……今年中学になったくらいだとさすがに大きすぎかも。まぁ、無いよりマシか」

 

 紫織も橙花も、そしてあたしも……自分が助けを求める子供に手を差し伸べられるような「大人」だと信じてる。

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