甘く香るラブラドライト
私は、弱かった。
私は、美しくなかった。
私は、自分に自信がなかった。
だから。
熱に魘されたいつかの夜に見た、優しい悪夢の先を紡いだ。
けれども、その優しさは誰に向けたモノだっただろうか。
「ふふふ。あなたが他のフロアへ行こうとするなんて珍しいですわねぇ。よっぽど、その小さな愛し子が大事とみえます」
二人と一匹の視線の先に、微笑を湛えた金糸の“聖女”がいた。
「わたくし、独り占めはよくないと思うの。だって愛し子はみんなのもの。……そうでしょう?」
“聖女”がいるのは、フロア・ラブラドライトへ続く回廊の入口。
つまり、未だノエルの領域であるはずだった。
「ねぇ、ノエル。わたくしなら、愛し子を育てるのに適任だとは思いませんか?」
その言葉にノエルは鼻で笑う。
「みんなのものだと言った次の瞬間には自分がこの子を育てるだって? 欲が駄々洩れだぞ、マリア」
「あら、身勝手に独り占めしているあなたに言われたくありませんわ」
呆れの色を声音に滲ませた“聖女”――マリアは少女へ青と緑の双眼を向けた。
「愛しいあなた。ずっと、ずっと。何者にも虐げられることなく、甘くて優しい夢の中にいたくはありませんか? あなたには、それを選ぶ権利があるのですよ」
――あまくて、やさしいゆめ。
少女の中で、何かが引っ掛かった。
思考を巡らせる少女に反応するかのように、マリアの傍にある蛹の中で影が揺らめく。
その蛹はひと一人が横たわっているほどの大きさで、プレートにはパープルスピネル、そして“羽化しない蛹”と記されている。
『夢を見ることは、罪ではない』
――みんな、いちどはみるもんね。
『しかし、夢を見続けることはできない』
――そうだね。
生きている限り、どんなに辛くても、苦しくても。
ずっと其処に閉じ籠っている訳にはいかないことを、少女は憶えている。
『パープルスピネル。愛しい悪夢。ラブラドライトが見る甘美な夢は、御前たちの望むものではないのだろう』
――うん。
一言も発さない少女の答えを、マリアは待っている。
記憶を失くした幼い子供にとっては魅力的な提案であると信じて疑わず、その表情は勝利を確信しているようだった。
少女は、一度深く息を吸い込んでは吐き出し、真っ直ぐマリアを見据える。
「ずっとみられないから、ゆめんだよ。だから、わたしはゆめのそとにかえります」
依然として記憶は戻っていない少女だが、マリアに告げた言葉には強い意思がこもっている。
何処か心配そうに少女を見下ろしていたノエルは、一瞬息を呑み――口端を上げた。
「聞いたな。道を開けろ、マリア」
マリアが声を上げるより先に、蛹から無数の繭糸が飛び出して彼女を縛り上げる。
「! ……不意打ちだなんて卑怯ですわね。前任者も同じ手口で手に掛けたのかしら」
“聖女”の薄皮が剥がれ、悪魔のような嘲笑を浮かべた女の耳元で、ラブラドライトの耳飾りが揺れた。
ノエルは少女を庇うようにコツリと靴音を鳴らして一歩前へ出る。
「ここが俺の領域であることを失念していた己の愚かさを恨め」
繭糸はマリアの身体を覆うように幾重にも巻き付き、あっという間に巨大な繭が完成した。
あの繭は一体どうなるのだろうと少女がノエルを見上げると、
「蛹の養分になるだけだ、気にすることはない」
冗談なのか、それとも本気なのか、フロア・パープルスピネルの魔女は意地の悪い笑みを浮かべるのだった。
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