幸福のエメラルド


 行くあてのない少女は白猫の後ろを着いて歩く。

 何もない水色の回廊を抜けた先は、深い森の中に迷い込んだような緑一色の空間。

 床には芝生が敷かれているようで、歩くとふかふかとした感触が足裏を伝う。

 壁際へ何気なく視線を向けると、展示品の一つなのか裾の長い、蒼いドレスを纏った半透明の女がいた。

 先程と同じように左胸にはプレートが見える。

「はなたばをかかえたぼうれい……?」

 それが彼女の名称なのだろうか。

 プレートの左上にはエメラルドと表記されているが、その意味は解らない。

 白い花束を抱え、俯きがちにただ静かに佇んでいる亡霊の顔には影が落ちているが、悲壮感や陰鬱なものは感じられなかった。

 そんな亡霊の前を通り過ぎようとしたとき、不意に亡霊が顔を上げたことで少女は目が合ってしまった。

「……!」

 どきりとした少女は思わず立ち止まってしまうが、そんな少女に亡霊は微笑みかけるだけでそれ以上は何もしてこない。

 ――こわいひとじゃないみたい。

 小さく安堵の息を吐くと、白猫を見失ってしまったことに気付き、慌てて亡霊の前を通った。

 それにしてもと少女は考える。

 ――はくぶつかん、なのかな。

 “花束を抱えた亡霊”の他にも展示品と思しきものがこの空間には並んでおり、みんな何処かしらにプレートが付いている。

 ここが博物館だとして、どうしてこんなところに一人でいたのだろう。

 “悪意無き海の毒姫”が言っていた、ノエルという人物に逢えば何か解るかもしれない。

 白猫を見付けてたらノエルを探さなくてはと思考していたとき、

「ほんと、あなたって笑う猫の成り損ないのようでかわいくないわ」

 数歩先に見える“箱の夢に囚われた人魚”と題された大きな水槽の方から、聞き覚えのない女の声と獣の唸り声、それから猫の鳴き声が聞こえて駆け出した。

「あ……!」

 水槽の中を揺蕩う、テレビの頭を持つ人魚には目もくれず、緩やかなウェーブのかかった蜂蜜色の髪を揺らし、涼やかな水色の瞳で摘み上げた白猫を見つめている女がいた。

 女の傍らにはシルクハットを目深に被り、黒の燕尾を纏った、一見すると紳士のような佇まいをしている継ぎ接ぎの兎頭の異形がいる。

 少女の足音に気付いた女は深緑色のワンピースの裾をふわりと翻して振り返った。

「まだ来館者が居たのね。お嬢さん、閉館時間はとっくに過ぎてるわ。夢の外へお帰りなさい」

 博物館で出逢った中で一番人間らしい姿形をしているその女の口振りから察するに、此処の関係者なのだろうか。

 だとしたら、ノエルでなくとも彼女に頼めば出口まで連れて行って貰えるかもしれないと希望を持った少女は口を開いた。

「ごめんなさい。きづいたらここにいて。じかんがすぎてしまっていることをしらなかったんです。あの、でぐちをしっていますか?」

「知ってるわ。あなた、迷子?」

「たぶん……でぐちをおしえてくれませんか? そしたらすぐにかえります」

 かえります、とは言ったものの、無事に博物館を出たとして記憶がないのに一体何処へ帰ればいいのだろう。

 ――さっき、ゆめのそとっていってたから、ここはゆめのなかなのかも。

 だったら、目が覚めれば自然と全てを思い出せて、元居た場所へ帰れるだろうか?

 疑問が増えていくばかりで何も解決していないが、少女は冷静に思考を続けながら女の返答を待った。

 女は訝しげに少女を一瞥した後、何事かを傍らの兎に耳打ちする。

 摘み上げられたままの猫はそれに反応するように一鳴きすると、女は目を丸くした。

「なんですって……? ねぇ、お嬢さん。あなた、気付いたらここに居たって言ってたわよね。じゃあ、自分の名前は言える?」

「なまえ……わからない、です」

「そう。じゃあ、この子の名前は?」

 此方には興味無さげにしているテレビ頭の人魚を指差す女に、

「はこのゆめにとわれたにんぎょ」

 プレートに記された文字をそのまま読んで答えた。

「じゃあ、あの子」

 次いで指差す先には、足が宙に浮いた、如何にも天使といった姿形をした神々しい異形が少女たちの様子を見守るように静かに見つめていた。

 そんな異形の頭上には“作られた天使”と記されたプレートがある。

「……つくられたてんし」

「視えてるのね?」

 白猫になど興味が失せたのか、すんなり解放した女は一歩、少女に近付いた。

「お嬢さん。あなた、私の弟子におなりなさいな。他の魔女はダメよ、恐ろしいもの」

急な提案の意図が解らず、少女は一歩後方へ下がった。

「特にノエル! いつも偉そうだし、自意識過剰だし、うるさいのよ。彼にだけは逢ってはダメ」

 今度は二歩、女が詰めて来るのに合わせ少女も二歩下がる。

 白猫はいつの間にかまた姿を消していた。

「私ならあなたを一から導いてあげられる。私は魔女の中で一番優しいし、あなたと年齢が近そうだもの。きっと気が合うわ。だから――」

 三歩、四歩、女は歩みを止めず少女へ手を伸ばす。

 少女がまた一歩下がった瞬間、とん、と背中に何かがぶつかってそれ以上後ろへ下がれない。

 振り返るより先に、少女へ伸ばされた女の手が振り払われた。

「――永遠の少女が、聞いて呆れる。この子を利用して俺を管理者の座から蹴落とそうと?」

 頭上から降ってくるその声は低く、冷気を孕んでいる。

 けれども少女を気遣うように肩を抱くその掌や密着した背は暖かく、不思議と少女は安心した。

「この子は俺が保護する。余計な真似をするな、アリス」

 耳元でぱらぱらと本のページを捲る音が聞こえた次の瞬間、眩暈を起こしたように視界がぐにゃりと揺れ、下へ落ちていくような浮遊感を覚えた。

 堪らず瞳を閉じる直前、少女はアリスと呼ばれた女の悔しそうな顔が見えた気がした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る