夢葬博物館
霧谷 朱薇
夢境のアクアマリン
真っ先に目に飛び込んできたモノを見たとき、海の中にいるのかと少女は思った。
等間隔に並ぶ丸い照明の光と天井の水色が、陽光を反射してきらきらと輝く水面に見えたのだ。
けれどもここが海中でないことに気付いたのか、不思議そうに青紫色の瞳を瞬かせると上体を起こして周囲を見回す。
――どこなんだろう。
今し方目を覚ましたばかりである少女が僅かに首を傾げるのに合わせ、肩程までの艶やかな黒髪が揺れる。
――わたし、なまえなんだっけ。
言葉は解る。
日常的に目にするモノの名称も、目の前に出されて「これはなんでしょう?」と問われれば、きっと直ぐに答えることが出来る。
だが、名前、年齢、出身地、両親の名前や家族構成……少女の頭の中から少女に関する全ての物事が抜け落ちていた。
ここが何処なのか、何故こんなところにいるのかも解らない少女にはどうすることも出来ない。
ただ、何となくこの異様な空間に迷い込んだという感覚だけが少女の中にあった。
――まよったなら、でぐちをさがせばいい?
誰にともなく、そう、脳内で自問したつもりだった。
『――そう。そうよ。可哀想に、迷子になってしまったのね』
それなのに突然、第三者の声が脳裏に響いたかと思えば、廊下の先で何かが揺れた。
少女はじっと目を凝らす。
紅色の十二単を纏ったソレは、足音もなく、波紋のようなものが描かれた青い大理石の床上を滑るようにゆっくり近付いてくる。
『いいわ。私が出口まで送ってあげましょうね』
少女に向けられているであろうその声は優しげな女性のもので、心から少女を心配していることが窺えた。
『小さなあなた。何も心配しないで』
軈て、少女の眼前でピタリと静止したソレは、顔を近付けて少女の瞳を覗き込む。
『ねぇ、お名前は?』
ソレの頭部は全体的に半透明で、頭頂部分と思しき所は淡い水色、そこから首元まで濃青色のグラデーションに、そして一部分は紫に縁どられている。
頭部だけなら見目の美しい、けれども恐らく危険であろう水棲生物だろうと想像出来るが、首から下は人間のものだった。
誰の目から見てもソレが異形であることは明らかだが、少女は無感情にソレの頭から爪先まで観察した後、ソレの左胸にプレートらしきものを見付ける。
「あくいなき、うみのどくひめ……?」
プレートの左上には“アクアマリン”、中央には“悪意無き海の毒姫”と記されている。
『あら、あら。小さなあなた、私の名前が視えているの?』
――なまえが、みえる?
どういうことなのだろうと少女はまた首を傾げた。
そんな少女を他所にソレは『新しい魔女かしら?』とか『彼女を見つけたのが私で良かった』とか、よく解からないことをブツブツと呟いている。
『ねぇ、小さな魔女さん。ノエルのところへ行きましょう。彼ならあなたを預けても心配ないもの』
黒い手袋に覆われた手を差し出され、少女は思案する。
――ついていっていいのかな。
一人でいた所でどうしようもないのは解っているが、見ず知らずの、得体の知れない異形に着いて行くのもどうなのかと考えている様子に、気が長い方でないのか少女の手を取ろうと更に黒を纏った手を伸ばす。
「にゃあ」
突如、白い影が何処からともなく現れて二人の間に割って入り、それに驚いたのかソレはすかさず二、三歩少女から身を離した。
『まぁ。ノエルの使い魔ね。見回りの時間かしら?』
ノエルの使い魔と呼ばれた真っ白な猫は問い掛けに応えるようにふす、と小さく鼻を鳴らすと、ソレに向け警告するように小さく唸った。
『解ったわ、そんなに怒らないで。ふふふ。小さな魔女さん、困ったことがあれば呼んでちょうだいね……』
ソレは名残惜しそうに少女を一瞥した後、背を向けてまた滑るようにして去っていった。
取り残された一人と一匹は顔を見合わせるが、何食わぬ顔で白猫も少女に背を向けて何処かへ行こうとする。
直感的に、この白猫に着いて行かないと後で大変なことになると感じた少女は立ち上がって白猫を追った。
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