6 「白」の世界 動かない人
◇◆◇
雪が降っていた。
どう辿って来たのか、どこに居るのか、顧みることも出来ず。カウルは雪に降られない場所を求めて、架橋の物陰に身を落とし込んでいた。
監視の目に神経をすり減らされ続け、なるべく危機から遠ざかりたくて、ストリートを縦横するのを極力避けようとした。路地ばかり這いずり障害物を越え廻り、その途中で左手首がまじまじと視界に入り込んだことで、ようやくここで手首から強かに血が流れ出していることに気が付き、うっすら足がすくんだ。飛んできた何かを払った時、手首に当たった拍子にマイクロチップごと肉が削れてしまったのだ。急いで携帯していたハンカチで傷を押さえるように手首ごと結わえ付け、指先にまで付いた血はティー・セレモニーで貰った丈夫そうな紙で拭った後、血の滴り防止のつもりでそのまま掌に握りこんだ。綺麗だった白い紙が哀しく朱茶けて行くままに、あてもなくさらに走り続け土埃とカビの臭いに捲かれた。
暗いとばりが空に下りて、白い雪の虫が規則良く飛びはじめた。人々は次第に俯き加減に目的地へ急ぎ始めて、やがてほとんど見かけなくなっていった。路地裏でたまたま見つけた蛇口で、音を立てないようにそそくさ左手を洗い、飲みたくて思わずあんぐりと一口分口に含んで、結局吐き出してその場を離れた。水質が判らなかったからだ。筋張った足の末端と水に濡れた手全体のじんじんする冷たい痛み、それに反していやに蒸し暑い上半身の気持ちの悪さに、足取りは遅くなり、雪が髪に纏わる感触がした。
雪のビーズが連なる糸を何本も空からしとしと垂らされる中、半開きの口にへぇへぇ息を出し入れするばかりのカウルは、ようやく周りの目を気にせず雪を凌げそうな薄暗い架橋下を目にとめた。重たい足でとぼとぼ潜り込み、外が見え辛い適当な場所でのっっそりと腰を下ろし、足を前に投げ出した。橋脚に腰しか付かず、頭の重さで背は曲がりうなじは張った。腕も垂れ、寒々しい白い床に手の肉が張り付いた。体の先端を出来るだけ内側に取り込む余裕はなかった。もう痛みは通り過ぎて、感触さえほとんどなかった。それどころか、もうこのままの体勢で居てしまってもいいと、自分を捨て放ちにかかってさえ居た。
虚空を俯き見るカウルの胸に去来していたのは、後悔だった。
エルフを守れなかった。エルフを置いて来てしまった。あの倒れたエルフの姿に自分で自分を責めていた。エルフの祖母の顔も思い浮かばれた。涙して打ち明けてくれるまでどれほど葛藤や不安があったことか。自分にどのような期待を持って話をしたのか。自分が想像できるだろうその数倍の想いをもって託された自分は肝心なときに置き逃げした。自分可愛さで汚れながら逃げた。保身に走って逃げた。自分の傷をかばって逃げた。
逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。何もせず逃げた。背を向けて逃げた。どうしようもなく逃げた。どうすることもできず逃げた。役立たずに逃げた。逃げるために逃げた。逃げて逃げた。逃げた。逃げた。
意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め意気地無しな奴め
死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ死ねば良かったんだ
心界を逆巻く暴風の濤声に何もする気になれない。曇った眼で上辺にどんより視線を向けると、正面の無機質な壁に一つ、とてもくっきり発色良く刷り上げられた、ヨーロッパ共同体旗のデザインが入ったポスターが視界に入った。年末年始の特別な時間を誰かと温かく過ごしあえるように。そう、お祝い物欲を煽っていた。半ば色の失われた世界で、ポスターだけが、無遠慮に自己主張した。
(「日本人は幸せなのかしら」)
エルフの問いが聞こえた気がした。カウルは一つ怠く息を吐いて、目線を留めたままポスターに顔を向けた。
カウルは今まで、戦後世界の復興のためにと誰もが団結して成し遂げた〝民族の協和〟の栄誉有る日本に、日本人でありながら日本人でない者として区別された感傷の混じった憧れを抱いていた。清潔な日本。治安がいい日本。ビルディングもキモノも綺麗な日本。ゲーム等カルチャーが面白い日本。落し物が見つかる日本。問題無きよう配慮する日本。時間通りで値段通りなサービスある日本。オモテナシの日本。誰が相手でも差別しない日本。誰であっても差別されない日本。辛いことを一時忘れ空間に身を任せるだけでいい日本。…こんなこそばゆく褒めそやされるようなことが実際に其処に行けばある、体験できる、それが無い自分の日常にとっては眩しいようだと、そう誰にも期待を持たせてくれるような“物語”があった。そしてそういう“物語”に、自らの在りようの揺り籠を見て取ろうとしたのは、あくまでカウル個人の自己同一性問題に過ぎない。と、そうも捉えていた。
だが、そもそもその“物語”は日本に居る日本人、あたかもユートピアの住人特有のものなどという捉えようはただの思い込みに過ぎない、実際は日本人でさえ、“物語”に自分を人工的に参照して暮らしていた。“物語”自体が非日本人の都合良い欲望によって白化され整形された、人工的な産物だった。海外の人であるカウルが日本人に“物語”を感じ、日本人は求められている日本の“物語”を苗床にすることで海外に承認される、そんなおかしな再帰的二段構えのマトリクスに、今は胃の縮みを催しそうだった。
エルフが驚いていた、誰に強要されずとも自発的(であるかのよう)に整然と列を成して並び鉄道列車に乗り込んで行った日本人たち。非日常を日常のように実践する一種の美徳のように受け取っていた。でも、あの景色を再顧してみれば、今までと別の視る角度が生まれた。あの時…整然と列車を待っていたあの日本人たちの目は、表情は、一体どんなものだっただろうか? どんな思いで自らの体を列に落とし込ませたのだろうか?
今となっては、厚く乱れる雲を容れたカウルの眼のように、思い出の景色の中の日本人の眼も、カウルには大いなる存在に従われる生き方を表したかのような曇ったものだったかのように感じられてきた。記憶を遡って、過去を遡って、あらゆる日本人の眼はカウルの中で、曇っていった。カウルは、無邪気に憧れていた日本が、その憧れをあろうことか向こう側から幻滅させ破壊させに来る行動が、その脅威や卑属さや隠し事の保身ないまぜになって感じられるさもしいさまが、見たくなかった。見たくないものだったから、それも一因で逃げた…逃げてしまったのかもしれない。もやくやな頭で、そう考えた。
それにもうひとつ、カウルにとって朧気ながら不意に掴めて捉えたことがある。なぜあれが怖いのか。カウルが命の危機の度合いで恐怖を感じて逃げるという経験は、もしかしてこれが初めてではない。だから思い起こされたか。大戦中、要人として日本から亡命するまで、親に抱かれて逃げる中で目にして原初的な記憶に焼き付いた景色。それが、カウルたちを追いかける敵側部隊の黒装束の姿だった、のだろう。客観的に答え合わせしようにも、記憶が奥底に落ちてしまっていて上手く取り出せられないが…何となしに感覚が仮説を受け容れた。
空気は刃のような冷えを研ぎ澄ませていくのに、弛緩した口から漏れる息は気づけば白みが消えていた。ここには手荷物もコートも無い。何も無い。たった、身ひとつ。
初めて空港に降り立って地面を踏んだ時。何か広い世界への入り口のような感じがあった。なのに今はもう、 大日本テーマパーク、そこだけがひとつの狭い世界になって内側へ閉じこもっているかのようだ。本当の日本の姿とは遠いかもしれないが、この空間に立ち入ったことで、日本を体験しているというワクワクしたゲームに浸かれる。その傍ら、現実にあった惨い歴史や夢を覚ます物事は、器用に回避され浄化されている。だからさながら「日本に直接触れた!」と感動させるような“創りもの外国体験”“現実の回避”はよく一致する。清潔、治安、キモノ、ゲーム、時間通り、オモテナシ、差別されない……正しく美しきを求めて訪れる人々の欲望が底上げされてゆくように興り、それにキャスト的品格を持った日本人がそれぞれ横断的に通じ合って空想の理想空間を作り、それらが循環しながら繁殖していく。ヒドラを幻視した。
大日本テーマパーク。お前はぼくにとって幻の夢であり、夢から覚めた罰で酷過ぎた現実を与えた。カウルはそう、眉間に微力を籠めた。
雪はしんしんと外の地面を白ませる。
すっかり赤くなりきった手に視線を落とす。
手首からはまだ血が流れていた。
いま何時なのか。エルフはどうなったのか。
向こうで14時に着く20時発の飛行機。
だけどもう乗れそうにない。
すまない、エルフ
すまない、父さん、母さん
すまない、エルフの、おじいさん、、おばあさん
もう、、、会えな――――
ポスターに描かれた美麗なヨーロッパ共同体旗に見下ろされながら、白地の床に朱い血の丸は形作られ、その真ん中で、カウルはただただ枯れた目を伏せた。
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