2 日本物語


「ん、また行ってたの?」

「ちょっと行って帰ってきただけ。あ、これプレゼント」

 大学のカフェで待ち合わせたぼくは、イチゴダイフクという柔らなワガシが入った箱をエルフにあげた。でもエルフはそぞろに箱を受けるための手を出しただけな風情で、眉間が僅かに寄ったままぼくを眺めている。

 あれ以降、2か月間に更に2度つい訪れてしまった。「また」と指摘されるとなると、確かに頻繁か。でもそれぐらい行き易い、体感対面的娯楽の場所と言えた。

「日本が気に入ってるなら、カウルの部屋をタタミジーレンしちゃえば? そしたらそれにいつもふれ合えるんじゃない?」

「部屋を? いや、そういうものじゃないんだよ。えーとね」

 これはどの顔だろうか?エルフを誘わず外国旅行したことに拗ねているのか、同じ場所に数度渡航するような執拗性に呆れているのか。んーぅ、

「【タタミジーレン】てさ、文字の意味だけ取ればインテリアの“タタミ化する”でしょ?」

「はぁ」

「それは人の好きで構わないんだけど、タタミジーレンって何故かやり過ぎな日本への入れ込みの雰囲気も含まれることがあるよね。植物性食品の豊富な食文化を賛美するとかさ」

「そういう人ってわりと、ポスト資本主義的とか進歩主義気質なインテリジェントに多い気がする」

「うん、〝正しくて環境に配慮したエコロジカル持続可能なサスティナブル社会実践〟運動の人ね」

「誰がどう思って参加や無視をしても、いずれ従う事こそ公の正義があるって社会感情になるだろうからね。それに此処はなんともはや正義を気にするから」

「でタタミジーレンに話を戻すけども、ただのタタミ部屋にせよ正しい食事の持ち上げにせよ、つまりどっちも“この場所で、日常の暮らしの中でやる日本趣味”ってものでしょう?」

 エルフは少し目の焦点がぼやけたあと、2回浅く頷いて話を促す。

「ぼくが関心を持ったのはね、日常の中に介在しているセンテンスとしての非日常な日本とは別で、そう、現地……日本という場所に行ってこそ感じる個性的な物事の発見とか体験の面白さだったの」


 ゆったり座れる場所へ移動したぼくらはそれから、ぼくが大日本テーマパークへ足を運んで感じることを、顧みながらエルフに話してみた。

 大日本テーマパークには場所がいろいろ在る。初めてエルフと行ったトウキョウ、後はナガノとヤマナシ、他にキョウトなどを有する。日本をテーマにした大きなパークの集合だからこそ、同じ日本をテーマとしながらも各地には地域性による違い・色合いが出ていた。

 ナガノではトウキョウよりもっと空気が涼やかだった。カヤという分厚いストロー屋根の建物で、イロリという設備でもてなされたオヤキとグリーンティー。その素朴かつ渋さの中にある甘みの奥深さを考えさせられる味わいに、玄妙さを感じた。ヤマナシはグレープの栽培が盛んらしく、壁紙から風呂湯までワインレッドという景色の訴求性に揺られた。

 風呂といえば、エルフと泊まった部屋の〝四万〟と云うフロアは、後で調べてみたら汎トウキョウ域のグンマーという自然地帯にあったという、シマという名の温泉地をモチーフにしたのが由来だと知った。エルフのほうはさっきから各地のパークの違い、とくにグルメに絡んだ話をするたびぼくへの眼光が鋭くなっていくような気がするが、イチゴダイフクをどうか口に補給して貰いたい。


 そんな風に、大日本テーマパークにはそれぞれそこでしか感じることの出来ない味や体験が散在している。それは、タタミジーレンのように部屋を自分で創作する程度では不可能な、向こうからやって来る体験可能性だ。

 もちろんショーやアトラクションとか、ゲストのために敢えて作られて置いたお楽しみ要素にも、安定的で予測できるワクワクがある。だがかつてエルフがまず感嘆したように、パークの近縁で見られたあの日本人たちの生活の在りようという予定外で新鮮な発見をする、それが出来る高揚感こそ、パークへわざわざ足を運ぶ手間以上の価値がある。次はどんな発見をするだろう、どんな体験をするだろう、もし中身が入ったバッグを置いたまま忘れてしまっても何も盗られず無傷で返ってくるかもしれないような、そんなゾワゾワするアメイジングで、何か素晴らしき良きことに触れられるのではないか、待ってるのではないか。そんな姿勢に素直に耽じられる。

 もともと、ぼくらが居るアメリカは本来、地域として広かった。広大だからこそ生活には何も無さ過ぎたのだ。コミュニティの内側で娯楽や仕事や対人関係が閉鎖的に完結しがちになってしまい、かつてアメリカ人はアメリカの範囲こそ世界という認識があったそうだ。今は普通に居住できる範囲が狭く南下したから、その分人の密度は濃いし車での長距離横断移動も苦ではない。少なくとも荒れ地を行くフリーウェイ沿いにファストフードチェーンとエネルギースタンドが点々と在る一部の場所よりは、まだサービスがいい。

 だがそれでも、アメリカの範囲内を車で移動するより範囲外へ飛行機で出かける方が短時間というのはどうにもできない。そうして、食事の幅だの居環境の推移だのの変化だとか文化の違いによる非日常的な体験は、外に求められて行ったのだろう。その点、日本という場所はヨーロッパ共同体全体からしても“行き易くて安心な非日常”たり得たのだと思う。それに其処は“民族の協和の成果”でもある。

 日本人に注目してみると、いろいろと面白いものが見える。最も感じたのは、犯罪が抑制される傾向を理屈や法律の固着した裏打ちを意識しないままで、自主的に持っていることだった。ぼくはスーパーマーケットや駅でしばし、施錠されていない自転車や木の枝に引っかかった小物を見た。自転車についてはさすがに財産管理が無防備過ぎると思ったが、でもそうしばらく自分の物に鍵を掛けなくても構わないと、落し物はいつか持ち主が取りに戻る可能性を慮ってずっとそのままにしようと、何なら見え易い位置に掲げとこうとする程度に、治安を信用して相互に窃盗を起こしあわない。そんな意識がなければ到底見られない景色だった。ぼくたちの現実の日常とは明らかに別個の、日本に来て身を置いてみてこそ実感として知りえる世界だと言える。


 パークで感じることと日常であるここでの体験を比べてみれば、解放感はパークのほうが高い。それは、非日常な場所に行ったとなると普段の自分との環境の差異に新鮮さを覚える、それを解放感と捉えるからなんでしょう?と言われればそうでもある。でもぼくの解放感というのは、ぼくという人間のルーツの一端としての日本、ぼくという思考生物を説明する基本情報に書かれているに過ぎない日本、それが日本という実際の地域に立つことで、言葉としても語られえる日本の空気感や日本という連関した物語に、いよいよ触れ沿ったことによる妙な安定感を楽しむところに本質があるのではと思う。

 かつてエルフが言ったが、パークには囲いがない。内と外を隔てる囲いがない特徴。「囲いなんて要らない」と語るような作定は、「パークのコアと外縁の日本人居住域は、がっかりさせられないほど同質な要素が含まれている。なら云わば日本とは大日本テーマパーク」と期待を持たせるかのようだ。パークという作られた世界でありながらわざとらしくなく、其処に居る間は創作性のあざとさ綻びに気を取られないための配慮によって臨場感を催させ、面白く居ることができるようになっていた。


 もにもに今までイチゴダイフクをはんでいたエルフが、むん…と最後のひと欠けを口にしたあとで、考え事する姿勢を正した。

「カウルはさ、【物語】って言ったねさっき。大日本テーマパークを、ただ単純に遊びの場として遊んでないみたい」

 話している最中はあくまでパークの魅力をぼくなりの言葉で表現しようと努めていたが、ぼくの体験を引き合いに話に織り交ぜる都合の中で、やはりいつの間にか個人的な感覚のことまで語ってしまっていた。本来その気はなかったが、これもぼくの心情の言語開示の一部だろうと思って特に否定しなかった。

 エルフは続ける。「パークという場所が設計され建築されてる以上、統一した意思に基づいて空間が出来上がってるのは明らかだから、これは解るのよ」

「ん」

「オモテナシっていう気配りがあって、外からやってくるゲストたちにとっての非日常な世界が精巧に作りこまれた特別感ある場所だよね。だから暴力や悪意に絡んだネガティブな思い出は残らない」

 実際、特に嫌な思いを作られる経験はなかった。

「でもアトラクションがあるエリアの外、一般日本人の生活の場が混ざるところにまで、まるでパークの世界観を敷衍したようにも取れる語りをするのに違和感がある。

 そこは別にパークのアクターたちは居ないんだよね? 紛れ込んでる警備員は居るだろうけど。でもあとはほぼ何でもない、一般の人ばかりのはずで。つまり、ゲスト・カウルをもてなす人員はそこには配置されてない。でもカウルは、そこにパークを見た」

 言われてみれば、まあ、そうと形容できなくはない。でもそれは日本人の特殊性が成せることであって、パークが日本をテーマにしている以上、むしろパークの方が日本人の性質に寄っているとも考えられるのでは。

「パークはゲストをオモテナシするよね。だからゲストの理想はそこに現れる。理想の世界がまさに現実において立ち上がっている。“虚構”が“現実”に在る。パークの外だって商店とかはあって、そこでも接客する存在者は存在するにしても、その人はパークのゲストに理想を見せようとそこに居る訳じゃないよね別に。カウルが外にも理想を見たとしても、それは“現実”に垣間見える“虚構”のような景色なんであって、“虚構”のような“現実”がまさに実現されてたっていう順ではないのよ」

 何を言いたいか大体解ってきた。「パークの“虚構”と、外の“現実”は、一見同じように見えても別の質であると実際は」

「別というか、似たような要素があったとしても、例えばカウルが無施錠自転車に感嘆したならそれはカウルの思う理想的な日本っぽさに出会えたのだろうから良かったと思うよ。で、それは日本に居る日本人の日常、オモテナシでも何でもない感情織り交ざっている現実の生活の中にあるもので、理性的に設計されたパークの“虚構”と同根と見做すのは差異があるのだから……良い側面だけを抽出したに過ぎないという意味では“虚構”も“現実”の一部であるとも言えるんだけど、全体をこうギュッと縮減させている訳ではないって点に於いては、うん、別とも言える」

「それでも、日本らしいものに触れて、日本で感じるワクワクや思い出は、ぼくにとって快かったよ。新しい何かに出会えてぼくの世界が広まってゆくというか」

「お気に召したのね」

「良いほうでの刺激があるからね」

「カウルの持つ情報が行くたびに新鮮さを感じて更新されていくと」

「うん」

「とすると、パークに行って楽しいっていうより、パークに居る自分が、あるいはその変化が楽しいっていう感じなのね聴くと」

「楽しいのもそうだし「来たな」って感じがするのもそうだし」

「カウルの「来た」って感覚はさ、なんかカウルならではだよね」

「ぼくというか皆もタタミジーレンじゃなくてパークに行ってみないと」

「んー…、カウル個人の感覚として」

 エルフは両肘をテーブルにつけるように態勢を変えた。


「パークとかあるいはその周りに行って良い体験をして、そうすると“良い体験を得た自分”というのを抱えてここに帰って来ることになるの。カウルが、カウルという人を形作ったひとつの根拠である日本で、快い体験というのをして、まあ自分の源流が周りから褒められたものであるのならくすぐったい誇らしさとして自己にも還元されえると思うけど、となると帰って来たこの場所が相対的に理想でないとか閉じられているようだとか見えていそうなの」

「でももともとパークはテーマパークとして“虚構”を見せる場であるんだし、外の“現実”に“虚構”性が含まれているにしても、自然に“虚構”とも言える要素が有るからには否定しようもないんじゃ」

「まあ“虚構”に魅力を感じて、反面ここの“現実”にうざ怠さを発見する感傷的センチメンタルな気配もあるかもしれない。けど、上辺の単なる好みよりか、カウルは【物語】の他にも不思議な単語を使ったよね」

「何?」

「【安定感】」

「ふーむ」

「それをね、ある種カウルの立脚点の文脈の中で使った時に、パークの体験じゃなくて、自己追求の話に何だか引っ掛かってるように聴こえた」

 顧みれば、心情の言語開示の結果そんなようにも解釈できる。ということは。

「自分が一番気に掛かったのはパークの外の“現実”考察じゃなくてね。【物語】って、筋道通って纏めることも出来るような一貫した記述だし、社会や人の生活にとって使われたなら、その社会とか文化とかひっくるめたものが一体どういう感じのものかっていうのを言い表した、ディスクールって意味もあるんだよね」

「ひっくるめて言い表せるかな……個別の体験や可能性にひとつひとつ出会う所作を、全般としてひっくるめて言うにはまだばらつきがあるけど」

「まあオヤキが奥深いとか風呂湯がワインとか、いろいろな個別な体験はその通りいろいろで個別ではあるにしても」

「湯はワインじゃなくて色が――っえ? やっぱりグルメを気にして」

「ないって。…でも“現実”の世界には犯罪も差別もあるものなのに、日本でそれに直面したことがないって、たぶん注文した料理は注文した通りに出るだろうし容姿をあげつらわれることもないでしょうね。そう、“そんなふうな日本”として受け取れる。カウルの中で、出来事として実現した」

「…」

「“虚構のような現実としてのそんなふうな日本”と関わってみる中で、“揉め事を起こさなくて新鮮なあれこれのある日本人”という人格に“日本に一ルーツがあるカウル”は、“物語”と“その物語の人らしさ”に“カウル自身”を位置づける、そんな同一視アイデンティファイな気分に【安定感】て単語が出たと思う」

 右手の3本指から、左手人差し指を導く。

「自己追求に至った、と」

「だけど安定感があるのはパーク旅行している最中だけで、ここに帰ってくれば位置づけの対象は無いよね。それはパークに行ってこそだもの。そしてパークに行くと得られる程度の“自身”なんだから、もう一回パーク旅行してその繰り返し」

「パークへ旅行しているうち限りで続く情感的エモーショナルなぼくらしさでしかないから、パークへ行く消費活動や体験もある意味、パークに居る“ぼく”というメディアの消費手段みたいなもの?」

「でね、でもどこにだって揉め事というのはあるものだから、カウルは偶然、それを回避できたままで楽しめたの。自分がそうだけど、自分のルーツの片方に入れ込みすぎてしまえば向こうの反応によっては裏返しのがっかり感に変わってしまう」

 エルフは真っすぐに見つめる。「自分はね、パークそのものをどうとも思ってない、純粋に日本というテーマを楽しむための場所だからそう楽しんでいた。パークなんであって、其処は、テクスト踏襲して自己追求をする場所ではない」


 ぼくの視界が精緻に目覚めた気がした。

 今までぼくはそういう目的意識を自覚したことがない。単純に、行ったら楽しいから行く、そう思って訪れていた。だからこそぼくは初め、心外さを感じたエルフの指摘からするに、パークの魅せる空間構成の巧妙さ批判だろうかと思っていたが。

 思い描いていた“日本らしい日本”が確かにそこにあって、ぼくはその“物語”に感動していた。いつの間にかぼくという人間性にまで“物語”が染みていると影響を指摘されるくらいに。

 ぼくだけでなく、あの場所を訪れるどんなゲストであろうとも、あの場所が紡ぎだす“物語”には魅入って身を任せてしまうのではなかろうか。なぜなら、外側の人間が見れば申し分なくあそこは日本。オモテナシという多様な配慮、日本を感じさせるストラクチャー。ハードといいソフトといい、確かに日本に来たと感じられるだけの“物語”。“物語”が溢れている。どのようなジャンル・場所に来ても、たとえぼくの避けた〝NINJA〟であろうとも、個々人の好き嫌いはともかく日本という全体共通したテーマが徹底され溢れている。だから、ゲストは溢れかえった環境に一体となるよう身を委ねてしまえば、最早自身のことなど掻き消されて孤独の感覚は融けて、大きな全体の繭に包まれる世界観に幸せさえ見出すに違いない。

 ならぼく個人の出来事は、普通のゲストとは別に一体何の性質を持っていたのだろうか。他のゲストとぼくとの違い。


 ぼくは日系欧人二世だ。〝カウル・トムフサ〟だけでなく【富総 套】という漢字表記名を戸籍に持っているのは日系人だからだ。ぼくにとって【純粋】、この言葉は厄介だ。あらゆる分化を喧しく暴れ散らす土石流のように押し流して、潔癖な二元論的世界を連れてくるからこそ、いつも厄介だ。日本人で無ければアメリカ人でも無い境界人マージナルマン。だがそれでもぼく自身は、この社会と日本という異質の狭間の者として悩まされた事態は他人よりも、少なくとも目の前のエルフよりも少ないと、そう感じている。

 父の影響だ。父はそもそも秀でた流体力学技術者であった。それで旧東側の政治工作員に身代を狙われて、戦時中、要人保護プログラムによって母と生後間もないぼくとともに日本を出た。この経緯があるので、こちら側での生活は保障されてはいたのだ。だからかなのか、利用価値としての自身への思惑と、国を捨てた・捨てざるを得なかった奴としての思惑に、同僚や日系人コミュニティからは好憎ないまぜに拮抗して、どこか腫物を扱うような余所余所しさばかり与えられたという。感情をあまり表に出さない代わりに機微を繊細に察する寡黙だった父は、よくその気配を察していた。

 “父の子”であったぼくは、ぼくが思い返すに、かくして身を捩れさせるほどの懊悩に苛まれた過去を通ったことはない。それが表面上幸いで根本的不運と呼ぶのかは判らない。だが、そうであったからこそぼくは、何かの折に触れぼくという存在の立脚点を考える行為というのが、未知の苦悩世界への入り口ではなかろうかと、それ以上の考察を敢えてしようとはしてこなかった。懼れの中へと容れていたのだろう。

 ただ、それはぼく個人の感想なのであって、他人からぼくへの目というものが無い訳でも消えた訳でもない。ぼくとて結局は知っていた、あの目線。

 触らないようにしていた“「お前は何者なのか」という問い”が、大日本テーマパークへの探訪を切っ掛けにもたげられてしまったか。溢れかえった“物語”の大いなる繭に個人が埋め込まれて行くなかで、ぼくはぼくのルーツに触れるという禁忌のような郷愁、言うなれば受け容れられ腰を落ち着けるに構わない、腑に落ちるヴァーチャルな空間、フォークロア……それらとしての日本を掘り起こして、それさえ環境への孤独ならざる一体化という快感につながってしまったのか。


「結局パークの話じゃなくてぼくの話で一杯になってしまったね」

「だてに何年も一緒じゃないからね」

 背もたれに大いに体重をあずけて肺の空気を押し出す。日は傾き、知見の出産に身は疲れを覚える。目の前のエルフ。エルフもまた、〝エルフ・カルサト〟である自らと【駈智 恵瑠芙】である自らの二つを持つ宿命を負って今を生きる。タタミジーレンの話のときのあの顔は、“狭間に居る人”として今までの経験による信念から、“一方への何の気ない偏り”を見て取ってのものだった。

「一緒というわけでね、ところで次は自分も連れて行きなさいよ。遊ぶ分には楽しいパークなのだし。治安は良いようなのだから、次はもっと大いに楽しんでも良いんだよね?」

 唇に若干イチゴダイフクの白粉を染めたまま、エルフは口角を上げた。

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