【短編】身売り同然の祝福の聖女は、溺愛された公爵の手を振り解く

あずあず

第1話

祝福の聖女ーー


私が産まれた時に神託によって選ばれたらしい。



聖女は祝福をもたらす。

本当に私にそんな力があるのか分からない。

実感がない。

幼い頃から何度となく神殿に通ったが、聖女の力の発現には個人差があり、詳しいことは発現してみなければわからず、時期が来れば自ずと分かるとしか言われずに今日を迎えた。


貧しかった我がハイドリッヒ男爵家は私が幼い頃に裕福な公爵家との縁談を結んだ。

聖女の力を欲する公爵家にお金を積まれた身売り同然の婚約。

そして今日、私はアストリア公爵に嫁ぐ。


(何の荷物もなくて笑っちゃう)

少しのドレスと刺繍道具、それだけ持って家を出た。


『お父様、お母様、今までお世話になりました』

そう言ってお辞儀をしたが、父からは

『公爵様の望みを叶えられるよう努力しなさい』

母からは

『粗相のないように』

と言われただけだった。


(両親は私の幸せなど、初めから願ってないのよ)

いや、どこもそんなものなのかもしれない。

世間一般の普通がわからない。

愛されたことなどなかったからだ。


馬車の窓から見る景色はどれも霞んで、ぼやけて、色褪せて見える。

まるで、これからの生活を暗示しているように思えた。


(今まで生きていくのがただただ不安だったけれど、これからはもっと不安だわ)

もし嫁いでも力が発現せず、離縁でもされたら?

帰る場所などないと言うのにーー

父や母はその時何と言うのだろう?


(…いやいや…今からそんなことを考えても仕方がないわ。時が来たら分かると言われたんだもの。その時を待つしか…)


その時とは一体いつなのだろう。

分からないことがこんなにも不安だ。


分からないといえば嫁ぎ先のアストリア公爵。

大変な資産家であるということは知っていた。

幼い頃、親同士が決めた縁談。

本人同士は会ったことすらない。

私の力を欲する理由とはなんだろう?


もやもやしている内に馬車は、アストリア公爵邸に着いてしまった。


私よりも若い侍女と、老齢の執事が素気なく出迎える。

「ご主人様は間も無くいらっしゃいますので、ここでお持ちくださいますよう…」

と言って、応接室へと通された。


心臓が跳ねる。

鼓動はどんどんと早くなる。


しばらくすると、控えめなノックが聞こえて扉が開いた。

私は立ち上がり、お辞儀する。


「シエン・アストリアだ。君が祝福の聖女か」

「イェーナ・ハイドリッヒと申します。何卒宜しくお願いします」


すると、公爵に顎をいきなり掴まれた。

「!?」

「僕は祝福の聖女かと聞いた」

薄い茶色の髪に玻璃のように透き通った水色の瞳。

美しい男性だった。


「は、はひ。産まれた時、そのような神託がありました」

男性の割には細い指が頬に食い込む。


「具体的にどんな祝福なのか分からないのだろう?」

「…左様でございます。時が来れば分かると…」

パッと手を離されて、よろけた。


「おい、サーナ、部屋に案内してやれ」

「かしこまりました」

サーナと呼ばれた侍女は表情を変えずに返事をした。


「さあ、こちらへ」

と言われて、5分も経たぬうちにシエン・ハイドリッヒ公爵との顔合わせは終わった。


去り際

「君は家にいればいい。死ぬでもなく生きるでもなく、私の邪魔をせず存在を消して、ただいればいい」

と言われた。

「…仰せのままに」

形だけお辞儀をして、部屋を後にした。


(分かっていたことだけれど、私ったら何を期待してしまったのかしら)


ほんの僅か、優しさをくれるかもしれないと、そんな淡い思いは儚く消えた。


「奥様、お荷物はこれだけですか?」

サーナに聞かれてこくりと頷いた。


(奥様…確かにこれでも奥様、なのよね)


通された部屋にどさりと鞄を置かれた。

大して重くもないのに、ぞんざいだなと少しだけ悲しくなる。

ベッドと机と鏡とソファと、飾り気は無いけれど一通りの家具が揃っている。


(それでも、実家にいた時より立派だわ。さっきの旦那様の物言いだと、もっと物置みたいな部屋に通されるかと思っていたもの…)

少しだけ心が軽くなる。


「間も無く夕餉ですから、すぐに身だしなみを整えていただきます」

サーナがそう言うと、何人かの侍女が入室してきた。


美しいドレスと、綺麗な入れ物の化粧品に目を奪われる。

あれよあれよと言う間に、支度が済んだ。

実家にはなかった全身鏡を見ると、その腕の良さに舌を巻く。


「皆様、私をこんなに素敵にしていただいてありがとうございます」

と言うと、侍女たちは一瞬手を止めてお互い見つめ合った。

そして、無言で仕事を再開する。


(何か変なことを言ってしまったかしら…)


しかし、ここで暮らしていく以上、彼女たちともできれば仲良くしたい。

そして、できれば旦那様ともーー



そんな気持ちを抱いてリビングルームで夕餉の席に着いたが、待てども旦那様はいらっしゃらない。


いよいよ先ほどの執事がやって来て

「ご主人様はお部屋で召し上がられるそうです。申し訳ありませんが、奥様はこちらで召し上がって下さいませ」

と言われてしまった。


何となく分かっていたが、せっかく綺麗に仕上げてもらったのに、なんだか申し訳なさが込み上げる。


それでも出された食事はすごく美味しかった。




食事を終え、部屋に戻り考える。


(祝福の聖女は、聖女自身が幸せになることは叶わないのかしら。自分自身が幸せを感じられないのに、人様を幸せにすることなんてできるかしら?)


それならば、私は私自身で幸せを掴む。

幸いにも旦那様は私に無関心だもの。

何かできるかもしれない。




次の日、私は持ってきた刺繍道具でハンカチに刺繍を施した。

簡単なものだったけれど、旦那様のイニシャルと公爵家の家紋を入れた。

一番お気に入りの青い糸で仕上げる。


(で、これをどうしましょう…旦那様、私が作ったものなんていらないわよね)


刺繍をじっと見つめる。


(でも、すごく良くできたわ)


意を決してサーナに聞いてみることにした。

「これ、刺繍をしてみたのですけれど、旦那様はこれを受け取ってくれるかしら?」


サーナは刺繍をまじまじと見る。

「これは、奥様が?」

「ええ、趣味程度のものですけれど…」

「…失礼ですが、旦那様は受け取りません」


(ですよねー!分かってましたとも!)


「それにしても、見事な刺繍ですわ…奥様はこのような才能がおありだったのですね!」

サーナは突然キラキラした目で私を見た。


「えっと…良かったらサーナの分も作りましょうか?」

と言うと、パッと明るい顔になる。

こちらに来てから初めて見る笑顔だ。

「よろしいんですか!?で、では!これに!」

そう言ってサーナは予備らしい白いエプロンを持ってきた。


「ふふ、イニシャルとお花でいいかしら?」

と言うと、彼女は見たこともないほど明るい笑顔になる。

しかし、すぐにぎゅっと目を瞑ってサーナは言った。

「奥様…申し訳ありません、その…聖女様なんてどんなに偉そうな人が来るんだろうと怖かったのですが…奥様は気さくで、私嬉しいです」

「あら、そうだったの?そう言っていただけるなんて嬉しいわ」

なるほど、初日の使用人達の素っ気なさは私と同じく不安を感じていたからなのだなと思うと内心ホッとした。


くるくる変わる表情の、綺麗な赤い髪の侍女。そばかすが少しだけ幼く見える。

私にとってサーナのイメージは緑色だ。


一刺し一刺し心を込める。

ちくちく集中しているうちに少しだけ目が疲れてきた。


うん!と伸びをして出来上がった刺繍を見る。

(上出来だわ)


すぐにサーナを呼んでエプロンを渡すと、すごい喜び様で他の侍女にも自慢しにいくと嵐の様な速さで行ってしまった。


しばらくすると、お茶を運んできた侍女が言いにくそうに

「あの…奥様、サーナの刺繍見ました…とっても素敵で…その」

と、もじもじしている。


「あなたのエプロンにも刺繍して差し上げましょうか?」

と言うと、お願いできますか!?と飛びつく勢いで言われた。


今度はエプロンにピンク色の糸でイニシャルと葉の刺繍をして渡した。


この侍女も大変喜んでくれたのは良いのだけれど、翌日から次から次へ私も私もと侍女が刺繍のお願いに来た。

みな大変申し訳なさそうにしていたが、

「私は皆さんと仲良くなれるような気がして嬉しいですわ」

と言って、引き受けた。


もとより、ここにいてもやることは何もないのだ。

手を動かせるだけありがたい。

なによりも、誰かに求められていることがすごく嬉しかった。


旦那様とは初日以来会えなかったけれど、使用人達とは少しずつ距離が近づいている気がする。


ある時、老齢の執事が私に言った。

「使用人達に刺繍をして頂いていると聞きました。皆それは喜んでおります。わがままを聞いてくださり、ありがとうございます」

「いえ、とんでもない。私が楽しくてしているのですから」

と言うと、執事は目を細めた。


「そうだ、もし良かったら貴方の分も刺繍しましょうか?」

「滅相もありません」

と言うと、執事は少し咳き込んだ。


「申し訳ありません。奥様の前で…歳をとりますとな、少し動くだけで動悸がしまして…」

「それなら少し休まれたら?そうだ、私の刺繍に付き合っていると思って…ね?」

「ありがとうございます…」


執事の手袋を取り、茶色の刺繍を施した。

マイアンと言う名だと聞き、イニシャルを入れる。


出来上がった刺繍を見て、マイアンは細い目をさらに細めた。

「見事なものですなぁ…ありがとうございます。大切にします」


丁寧に言って、マイアンは部屋を出た。


その日の晩餐には、珍しく旦那様が見えたので緊張して食事が喉を通らない。

実に初日ぶりにお会いする。


一通り食事が済むと、コーヒーを飲みながら旦那様は言った。

「君は使用人達に刺繍をして回っているらしいね」

「あ…勝手なことを…申し訳ありません」

「いや、良いんだ。皆喜んでいるようだから」

少しだけホッとしたが、次の言葉に絶望した。

「これからは僕の目につかないようにしてくれたまえ」

その言葉に執事や侍女はオロオロとする。

「申し訳ありません」

私は下を向く。


すると旦那様は自嘲するように笑って

「僕が気持ち悪いかい?」

「はい?」

玻璃の様な目で射抜く様に見つめられた。

なぜかドキリと心臓が跳ねる。


「あの、そのように思ったことはありません」

恥ずかしいが、目をじっと合わせて言った。


すると旦那様は立ち上がって私の横に来ると、肩を掴み、突然くちづけをされた。

私は驚き目を見開く。

瞬間、ぼんやりと視界が霞んだ。


唇を離すと

「本気で言っているのか?こんなに細い身体の僕をか?」

と捲し立てるように言う。


「そんなこと、ありませんわ」

一生懸命に言うけれど、目が霞んで、色がなくなっていく。

目を瞬いたけれど治らない。

それどころかどんどん酷くなっていく。


「?」

旦那様も何か異変を感じたようだった。

「君は何をした?」

「分かりません…ああ…」


遂に私の視界は白と黒の世界に変わってしまった。


「色が…見える…これが、これが色か…」


旦那様はそう言うと、突然はらはらと涙を流した。


その様子を見て私は悟った。

(時が来たら分かる、確かにそうだわ。こういうことだったのね)


「旦那様は、色のない世界で生きていたのですね」

そう言うと、

「もしかして…君」

「そのようですわ。今見えるのは白と黒の世界です。旦那様の美しい瞳もわからなくなってしまいました」

その瞳の色が分からない、それだけは悲しい。


旦那様は私の額を包みこみ、涙でぐしゃぐしゃの顔ですまないと言った。

「良いのです、私が聖女として何もできなかったらと思うと不安でした」

と言うと、旦那様はため息を吐きながら座った。


「イェーナ…イェーナ……すまない」

「旦那様、あまり気に病まないでくださいませ」

「僕の父は、色が見えないこの目を酷く気にしてね。それで祝福の聖女を娶れば治ると思って…それで婚約が交わされたのだ」

「お望みを叶えることができて私も嬉しいです」

「違う!僕はこんな…君に不自由な思いをさせてまで治るだなど」

「それでは、なぜ旦那様は晩餐にも姿を表さず、私が存在しないかの様に振る舞えと仰ったのですか?」


おろおろしているばかりだったマイアンが言う。

「ご主人様はお身体が弱く、あまり社交の場にも出席なさいません。たまに出席されると、公爵家の財産を狙う者や、か弱い見た目を嘲笑されることも…あったのです」

そう言った執事の声は震え、目を瞑って天を仰いだ。


「そうでしたか…しかし、公爵家の財産といえば、私は売られてきたも同然ですから、そのご令嬢達のことを悪く言うことはできません。ですが…私個人は旦那様がどうであろうとも、何を言われようとも添い遂げますわ」

「君…」

必死に笑ってみせる。


色が失われて分かった。

視覚から得る情報は多大だ。

それが欠損している。

不便なだけじゃない。

心をも蝕んでゆくのだろう。


なんとなく、旦那様の人生を見た気がした。




それから、旦那様は朝晩の食事を共にしてくれるようになった。

会話も増え、色が失われた私を気遣ってくれる。

旦那様が食事の色などを教えてくれ、それが少しだけ私に食欲を与えてくれた。


(今なら受け取ってくれるかしら)


そう思って、旦那様へいつかの刺繍入りハンカチを差し出す。

もう私には白黒にしか見えなくなった刺繍。


(きっとサーナが受け取らないと言ったのは、旦那様は色がわからなかったから…そして、女性に対して良い思いを持ってなかったから…)


「これは君が?」

そう言って、旦那様は刺繍を撫でた。

「青い色、こんなに美しい色の糸があるのだね」

「私の一等お気に入りの糸で刺繍をしました」

と言うと、そっと頬を手で包まれた。


「ずっと言いたかったことがある」

「何でしょうか?」

「初めて会った時、あの様な態度を取ってすまなかった」

そう言って柔らかく口づけされた。

優しく、温かい。


「…もしかしたら、またくちづけすれば元通りになるかもと思ったけれど…ならないのだな」

「旦那様…」

この人はなんと優しい人なのだろう。

少し散歩をしようか、と言ってそのまま私の手を握ってくれる。


「使用人の皆も、君の人柄に触れて近頃明るくなった様に感じるよ。話すことといえば君の話題ばかりだし」

と言って微笑んだ。

私は面映く下を向く。



少しだけ心の距離が近づいてきた様に思う。




そんなある日、父から珍しく手紙が届いた。

(嫁いだら二度と関わらないと思っていたけれど、何かしら?)


書面に目を落とすと、本日公爵邸に来る旨が書かれているではないか。


マイアンに伝えると、目を見開いて慌てて飛んでいった。


「何という急なこと…我が父ながら大変失礼をして申し訳ありません」

気にすることはない、と旦那様は言ってくれたがあまり快く思っていないのは感じられた。


昼過ぎ、父のハイドリッヒ男爵が公爵邸に到着した。

「よくぞいらっしゃいました。シエン・アストリアです」

父は旦那様をジロジロ見てから、以前よりもでっぷりと太った腹を揺らせて言った。

「いやあ、ははは…お初にお目にかかります。ブライアン・ハイドリッヒです。娘はよくやっておりますか」


(父とも初対面なのか…旦那様は社交場には滅多に出ないと言っていたけれど、父も母もそれは良くでかけていたのに)


「お噂通りの…あ、いや失礼」

その言葉に旦那様は口を歪ませた。

なんとも失礼な態度に私は早く帰ってくれと祈った。


「ところで今日はどんな御用でしょうか?」

と旦那様は切り出して、父に座るよう促す。


「聖女の力がくちづけによって発現すると聞き及びましてな」

「!」

私は驚き、狼狽した。


「なぜそれをハイドリッヒ男爵は知っているのです?」

「…風の噂、ですかな…」

父はお茶を濁したけれど、私は輿入れ以来公爵邸を出ていないし、旦那様もそう多くは外出していない。

一体なぜ…。


「単刀直入に言いますとな、私は少々毎晩の酒の量を誤りまして最近どうも調子が悪い。医者を尋ねたところ、肝臓が良くない様で」

「だから?」

旦那様は鋭い目で父を威圧した。


「私も娘に治してもらおうと思いましてな」

この言葉に旦那様は激昂した。

「無礼な!イェーナは僕の妻だ。いくら父君とはいえ、公爵夫人に手を出すのか!?仮にも自分の娘だろう!汚らわしい!」

と一括した。

父はたじろぎ、よろめいた。


マイアンが近づき

「おかえりくださいませ」

と言った。

「貴様、使用人の分際で指図するのか」

父はマイアンを突き飛ばした。

「おい、公爵邸の使用人に手を上げたな?ただで済むと思うな」

「ひっ!」

父は私を見て、何とか納めろと言う目をしたので私は目線を外した。


「おい!今まで育ててやったのに何だその態度は!」

父は喚いたが


「私は公爵夫人です。お父様こそ無礼ですわ」

言って、旦那様と父の間に割って入る。

「本日の父の非礼、どうか私に免じて許してくださいませんでしょうか。お父様、もう二度と公爵邸を跨がない様お願い申し上げます」


父は逃げる様に去っていった。


「大丈夫かい?」

旦那様が私を見つめる。

「それよりも、マイアンが…ああ…」

「私めは大丈夫です。……奥様?」


私はゆっくりと崩れ落ちた。

沢山の声が聞こえる。

騒がしいなあ、と思った。




ひどい耳鳴りがして、目が覚める。

どうやら深夜のようだ。

起き上がると、天蓋付きのベッドの上でここは私の部屋じゃないと知る。

水が飲みたくて周囲を見渡すと、旦那様が私の手を握って椅子に座ったまま眠っていた。


(看病していただいたのかしら)


「旦那様、こんなところで眠っていては風邪をひきます」

と声をかけると

「ん」

とだけ言って、もそもそとベッドに潜り込んできた。

「ひゃ!?」

少しだけ大きい悲鳴をあげてしまった。

旦那様はその声に意識を取り戻して慌てる。

「す、すまない!寝ぼけていて…気がついたのだね!?」

と言って飛び起きた。


「あ、はい!お陰様で!」

二人、ベッドの上で座っているのもなんだか滑稽だった。

ふふふ、と笑うと旦那様は首をかしげる。

「こんな風にお話しするのも、温かくていいですわね」


旦那様は照れた様に顔をかく。


手が伸びて一束髪をすくった。

「君の髪の色は美しいブラウンなのだね」

私はにっこりと笑う。


「最近、とても調子が良いのだ。健康とはこの事かと…食べるものも美味しいし」

旦那様は私をじっと見た。


「もしかしたら、僕の虚弱体質まで君の健康と交換してしまった様だ」

そう言われてハッとした。

今まで倒れたことなどないし、最近めっきり食が細くなった。

それに比べて旦那様はだいぶ召し上がる量も増えて少しだけ肉付きが良くなってきたようだ。

最近ではたまに体を鍛える様子もあった。


「それは、聖女冥利に尽きますわ」

「なぜそうなる」

旦那様は私を力一杯抱きしめた。


「祝福の聖女として産まれてしまったのですもの、こうなる運命は決まっていたのですわ。私はそれよりも旦那様のお身体が回復したことが嬉しいのです」

旦那様は何も言わなかった。

意を決して口を開く。

「わがままを聞いてくださいますか?」

「なんでも言うと良い。君の願いはみんな僕が叶えよう」


頬に涙が伝う。

どうか悟られない様にーー


「今晩は、温かい旦那様の腕の中で眠らせてください」


そうして、私は一晩の温もりに溶けた。



夢を見る。

この世界とは違う、聖女などいない世界でごくありきたりな生活に、つまらないなと思う夢だった。


起きてしばらく、贅沢な夢を見たものだ、と思って旦那様の腕を静かに抜けた。




どうか私を忘れて、お身体の丈夫な方を奥様に迎えてくださいませーー

離縁状と一緒に手紙を書いて机に置いた。

婚姻から一年経てば受理されるはずだ。


聖女としての役目は果たされた。

体が弱った私は子をなすことはできまい。

どことなり、姿を消そう。

私のことなど誰も知らない、遠く、遠くの地へ。



早朝、私は誰の目にも触れず、そっと公爵邸を後にした。






それから一年後

私は身分を隠して服飾デザイナーの元で働いた。

色は見えないが、縫うことは出来るので指定書の色番号に従って針を通した。


健康ではない体と色の見えない目で給金が貰えるのはありがたかったし、やりがいも感じている。


ある日、男物のジャケットの仕立てが入り、裏地にイニシャルを刺繍するように指示があった。


(懐かしいな)


公爵家では自分には分不相応な暮らしだった。

使用人のみんなも優しく、旦那様は…

思って自分が泣いていることに気づく。


(集中しなくちゃ)


仕立てたジャケットの刺繍は今までで一番良い出来だ。

師匠もその出来に大きく頷く。



数日後、仕上がったジャケットを受け取りに来た男性に、刺繍をしたのは誰かと聞かれたらしい。

普段お客さんとやり取りをするのは師匠か姉弟子だったので、私の名を伝えると血相を変えて出ていった言われた。


まさかと思い、私はすぐに工房を辞めた。

慌てて荷物を纏める。

工房を出ると、見慣れた馬車が停まっているではないか。

一歩、また一歩と後ずさった。


馬車から鍛えられた身体の旦那様が降りてくる。

ああ、健康になられてーー


「あちこち探したよ、この刺繍は君のだね。マイアンが見つけてくれた」

「なぜ、放っておいてくれないのですか?」

涙で霞む。

「愚問じゃないか。なぜ愛する妻を放っておくのだ」

「離縁状は?」

「とっくに灰になっているよ」

旦那様は私の手を取る。


「僕と生涯添い遂げる約束を反故にする気かい?」

「あ…」

確かに私はそう言った。

でもあれは、こんなに身体が弱くなるとは思っていなかったから。


「君は僕の身体が弱くても添い遂げると言った。ならば僕とて同じこと」

旦那様は跪いて、手の甲にくちづける。


「どうか、一生僕のそばにいて欲しい」


溢れた涙に滲んだ景色は少しだけ色鮮やかに見えた気がした。

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【短編】身売り同然の祝福の聖女は、溺愛された公爵の手を振り解く あずあず @nitroxtokyo

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