第55話 浮気

 涼しげな風が吹いていた。

 昨夜遅くに技術継承を終えたエイジは、早朝、いつもよりも眠気を感じていた。

 どことなく体が気怠く、指先に神経が通っていないような気がする。


 だが、家を出て一気に眠気が覚めた。

 目の前に珍しい光景が広がっていた。

 直ぐ目の前は薄暗く曇っているのだが、そのすぐ先には陽の光が当たっている。


 まるで線を引いたように、境界ができていた。

 空を見上げれば大きな雲が、丁度片隅だけ太陽を隠している。


 上空では強い風が吹いているのだろう、雲は勢い良く流され、それに合わせて目の前の陽と陰の境目が移動し、辺りが明るく照らされる。

 朝露に濡れた草が陽光を反射してキラキラと輝いていた。


 珍しい光景を見たな。

 影が目の前で移動していく光景など滅多に見れるものではない。

 これはなにか良いことが起こりそうだ。


 エイジはゲンを担ぐほうだ。

 特別に神を信奉しているわけではないが、茶柱が立ったといったものから、初夢に富士が出たなど、ちょっとしたいいゲンがあると、幸運の兆しだと思っている。


 別段、いいことが起こるというわけではなく、そんな兆しが見られたこと自体が、気持ちを楽しくしてくれると思っている。

 よくコップに半分の水を見て、まだ半分あると思うか、もう半分しかないと思うかで、意味の捉え方はまったく変わってしまうという例えがある。

 だとすれば、エイジはまだ半分ある、と楽観的に捉えたかった。


 エイジは裏の畑に植えたアスパラガスを収穫しはじめた。

 土の中から青々としたアスパラガスを刈り取っていく。

 育ちすぎたアスパラガスは硬くて筋張ってしまうので、取れる時は一気に取ってしまう。


 収穫時期を過ぎたら、あとは来年の根株用に残しておく。

 同時に雑草なども粗方でさっと取ってしまう。


 前かがみの姿勢は腰に来る。

 伸びをして体を休めていると、カタリーナが遠くからやってくるのが分かった。

 まだ日が昇ってそれほど経っていない。

 エイジの家もこれから朝食をとるぐらいだ。


 こんな早朝に一体何の用だろうか。

 ずいぶんと早いなとエイジが思っていると、目当てはタニアだったらしい。


 火の貰う場所や鍋などの調理器具の場所、共同の食料をどうするか、相談しにきたことが分かった。

 家の裏でアスパラガスを洗いながら、聞こえてくる会話に耳を傾ける。


「村共同の食糧庫は村長立会の下で一週間分ずつ分配されるの。今日は私のところから持って行って。あとでしっかり貰ってくるから」

「ありがとうございます」

「水汲みや火の場所は分かる?」

「一昨日教えてもらいましたから大丈夫です」

「これからお仕事でしょ。頑張ってね」


 村全体で収穫された麦は、村長の家のすぐ近くにある食糧庫にまとめて保管される。

 それを一定期間で、各家庭ごとに分配する。


 村長は食糧庫の管理を徹底している。

 空腹だからと盗みを働けば、後で大変な労役を科せられるだろう。


 各家の裏で耕された畑から採れた野菜などは、各家庭のものだ。

 物々交換に応じるなり、自分たちだけで食べるなり、全て自由だった。

 今回この村に来たばかりのカタリーナたちは、収穫できるような畑はない。


 村からの持ち回りで面倒をみることになるだろう。

 特に親方のエイジたちは、その割合が高くなる。


 タニアとカタリーナの会話は、炊事や洗濯、鎧戸の開け方など、細々とした部分にまで広がっていく。

 こうして話を聞いていると、タニアさんは親方の妻として頑張ってくれているなあというのが良く分かった。

 仕事で厳しくすることもあるだろうから、その分のフォローをタニアがしてくれるならば、エイジもずいぶんと気が楽だ。


 ますます頭が上がらなくなるな。

 身重の体で料理や洗濯といった家のことから、部下への気遣いと、感謝の念が湧いた。

 話が終わったらしく、カタリーナは家を出ると裏側に回ってきた。

 元気な挨拶と同時に深く頭を下げられる。


「エイジ親方、おはようございます」

「おはよう。昨日はゆっくり眠れた?」

「それが、興奮しちゃったせいで、目が冴えてしまって、なかなか眠れませんでした」

「そうか。昨日が初めての経験だからね。それも仕方がないか」

「あの硬くてスゴイのを思い出すと、これからこんな立派な物を持つかと思って、ドキドキしてしまって」


 あはは、と照れくさそうにカタリーナが笑い、頬を掻く。

 が、次の瞬間体がビクリと弾かれたように動く。


「あっ……」

「ど、どうした?」

「いえ、少し昨日頑張りすぎたのか、体が痛くて」

「昨日だけじゃなくてこれからもやってもらうことになるから、無理はしないようにね」

「初めてだから、頑張りすぎちゃいました。気を付けます」


 カタリーナの表現は少し独特だな。

 エイジが違和感を感じて苦笑を浮かべていたが、その顔が瞬時にして驚きに引きつった。

 家の影からタニアが驚愕した表情で立ちすくんでいたのだ。

 一体どうしたというのか。


 カタリーナは、位置的に背後になるため、タニアの存在に気づいていないようだ。

 ペコリと頭を下げると、


「それじゃ、私朝食の準備があるんで、これで失礼します」

「あ、ちょっ」

「親方またあとで!」


 ちょっと待って、と呼びかける声が届くこともなく、カタリーナは駆け足で去っていった。

 その途中、タニアとすれ違ったが、カタリーナ自身は全く含むものがなかったのだろう。

 ありがとうございました、と明るい声で、そのまま通りすぎてしまう。


 入れ替わるようにエイジの前に立ったのがタニアだ。

 硬く拳を握りしめ、プルプルと震わせている。

 反面、表情は一切の色がなく、感情を読み取ることが出来ない。

 まるで凪いだ海のようで、普段明るい笑顔ばかりを見ていたエイジとしては、違和感を禁じ得ない。


 そして、タニアの瞳はまっすぐにエイジに向けられて、一瞬たりとも他のものに気を取られることはない。

 凝視されていた。

 タニアの口調は静かに、だが、ハッキリと耳を打った。


「エイジさん、一体どういうことですか?」

「どういうことと言われても、何ですか?」

「昨夜、私に行き先も告げずに出て行きましたよね。あれは、浮気のため、だったんですかっ!?」

「浮気!? いや、そうじゃないよ。昨夜カタリーナとは会っていない」

「嘘ですっ!! だって、あんな夜遅く家を出たのなんて、これまで無かったじゃないですか。それにカタリーナさんのあんな反応、明らかにおかしいです!」


 突如感情を爆発し始めたタニアの様子に、困ったことになったとエイジは頭を抱えたくなった。

 明らかにおかしい反応だと思っていたのは、自分も同じだ。

 独特な表現をするから、誤解を招いてしまったのだろう。

 だが、例えそう説明したとしても、タニアが納得するとはエイジも思えなかった。


 カタリーナの姿を見て、疑惑を抱くのは仕方がない。

 出来ればタニアさんにも言いたくなかったんだけど……。


 他に方法もなく、エイジは昨夜ピエトロと会っていたことを説明することにした。

 ピエトロにも他言無用と言い渡した以上、出来れば避けたい方法だったが、身の潔白を証明するには、他に方法がない。


「昨日、採掘所で弟子と別れてからはピエトロと会っていました。他の子よりも長く働いてくれていた兄弟子に少しでも技を教えて報いてあげたい、と思ったんです」

「……分かりました。では事情を説明せずピエトロに聞きます。ピエトロが会っていたと、そう言ったなら私も信じます」

「そうしてください。私もやましい事をしていないのに、疑われるのは心外です」


 そうして、ピエトロに事情を聞くことになった。

 これでようやく疑いが晴れると思うと、ほっとする。

 ピエトロは朝食を食べたあと、いつもエイジの家を通って鍛冶場に行く。


 今日はそれに加えて、また採掘所の監督として出かけることになっていたから、かならず家に来るのは分かっていた。

 だが、まだ疑いが晴れたわけではない。


 タニアの機嫌が悪く、喉が詰まるような朝食を終えた頃、ピエトロがやってきた。

 昨日の疲れを感じさせない元気そうな表情で、何も心配を感じていない。

 その元気さがうらやましいよ、とエイジは思った。


「ピエトロ、うちのタニアさんが、ピエトロに少し質問したいみたいだ」

「タニアさんが? なんすか。俺に答えられることならなんでも聞いて下さい」

「それじゃあピエトロ君、聞くけど、昨夜、エイジさんと会っていた?」

「親方とですか?」

「ええ、そう」


 どうしてこのような質問をされているのか。

 事情を話さずに質問するとタニアが決めたため、ピエトロは理由がよく分かっていないのだろう。

 不思議そうな表情を浮かべていた。


 ピエトロは、ハッと何かに気付いたかのような表情をしたかと思うと、一瞬エイジに視線を向けた。

 あたりの空気に気付いてくれたか。

 頼むぞ、ピエトロ。昨日は一緒にいたと言ってくれ。


 エイジがハラハラしながら答えを待つ。

 ピエトロは自信満々に、分かっていますよ、というような目線を送ると、深く一度頷いた。


「俺は昨日は仕事を終えてすぐに寝たっす。だから親方とは会ってないっすよ!」

「おいおい」


 違う!

 たとえタニアさんにも答えたらダメだと言ったからって、今は秘密を守らなくていいんだ!

 今すぐ訂正して本当のことを言ってくれ!


 エイジの心を声も虚しく、ピエトロは言い切った。

 ギュン、とタニアの顔がエイジに振り向く。

 エイジは息を呑んだ。


「エイジさん、どういうことか、説明してもらいますよ」


 信頼する妻の瞳が、少しも笑っていなかったからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る