第54話 口伝

 採掘を終えた夜だった。

 星空が広がり、春の空気はシンと冷え込む。

 村の誰もが体を休めて明日に備えている中、鍛冶場では水車が音を立てて回っていた。

 ふだん川音だけが響く夜の河原に、水車の回る音だけが響いている。

 それは普段見られない光景だった。


 エイジは松炭がだいだい色にやわらかな明かりを灯しているのを眺めていた。

 ふいごの風が時折強くなる。

 炭の光が強くなり、火花が小さく飛ぶ。

 パチッ、と弾ける音とともに、顔がぼうっと熱くなる。


 火箸を持つこともなく、金槌を持つこともなく、エイジは火炉を見ていた。

 その顔がぼんやりと照らされている。


 やがて、鍛冶場に一人がやってきた。

 エイジは立ち上がると、入り口を眺めた。

 中は薄暗く、顔を見ることはできない。

 だが、誰が来たかはよく分かっていた。

 こんな時間に鍛冶場に訪れるものなどいない。

 呼んだのは自分だった。


「来たか、ピエトロ」

「はい。なんですか、親方」

「まずは戸を閉めるんだ」

「はい? 分かりました」


 ギッ、と蝶番がわずかに音を立てて、扉が閉まる。

 元より暗かった鍛冶場の中は、月明かりさえ入らず更に暗さを増した。

 火炉の松炭に入れていた松の枝を火皿に盛り、松明にする。


 かんぬきをかけるように指示すると、ピエトロは疑問を抑えられなくなったのだろう。

 訝しげな声で聞いてきた。


「随分と厳重ですね。一体何の用ですか?」

「家族以外にはここに来ることは言っていないな?」

「そりゃ、そう釘を差されましたからね。親方に呼ばれたのを知ってるのは親だけです。行き先はその親も知らないっすよ」

「なら良い。私もタニアさんに行き先も言ってないからね」

「タニアさんにもですか!? 一体これから何を……!」

「これから君に、鍛冶の秘伝を教える」

「俺に、秘伝を……」


 エイジの真剣な態度をどれだけ深く感じたのかは分からない。

 だが、ピエトロの体がブルリ、と一度大きく身震いした。

 ことの大事さを理解しているのかもしれない。


 その昔、江戸時代のことだ。

 かつて一万人以上いたとされる刀鍛冶たちは、一人の親方に十人ほどの弟子がついていた。

 だが、その弟子の内でも最も優れた一人か、二人にしか秘伝は教えられなかった。

 そして教えた技術を他人に教えることを厳しく規制した。

 時に技術が失伝してしまうほどの厳しさだったらしい。

 贋作の横行や、半端物を作って、所有者に損害を与えないための、厳しい自制だった。


 エイジがピエトロを人知れず呼んだのもその一環だった。

 他の弟子たちに万が一でも聞かれることを避けるためだ。

 だが、まだ早いかなとも思う。


 みだりに教えないのは他にも相応の理由がある。

 今ピエトロに秘伝を授けたとして、その技術の深奥を理解するには至らないだろう。

 まだ、自分の作品も満足に扱えていないのだ。

 先に技術を身につけさせて、それからゆっくりと育てていっても間違いではないだろう。


 ピエトロはエイジの懊悩など気付いた様子もなかった。

 これから秘伝を教えてもらえるという事実に激しく興奮しているのだろう。

 暗闇の中、松明の仄明かりでも分かるほど、顔が紅潮していた。


 まあ、良いか。

 早めに教え、考えを深めれば必ず糧になる。

 今は種を蒔こう。

 いつの日か大樹となる日を信じて、じっくりと待とう。


「といっても、今日教えるのは一つだけだ」

「あ、分かりました」

「なんだ、不満か?」

「いえ! そんなこと」

「一度に全部教えても、身につかないよ」

「それもそうっすね」

「丁度明日しようと思っていた作業途中の切出ナイフがある。これを使う」

「切り出しですか」

「ああ、これを焼入れする」


 切り出しは小物を切ったりするのに重宝するナイフの一つだ。

 エイジは火炉の前に立つと、火箸で切出を掴み、松炭の上に放り込んだ。

 熱の中に鉄を潜らせ、鞴を動かす。

 まだ火はそれほど熱くなっていない。

 じっくりと目的の温度まで近づけるつもりだった。

 目的の温度になるまでの間、エイジは前提となる説明をしておく。


「焼入れにはいくつかポイントが有る」

「はい」

「一つは全体的に焼刃土やきばつちに塗るんだが、この厚さを硬くしたい刃の方は薄くする。そして地鉄の方は厚めで構わない」

「これっていつも親方が自分で練り合わせているやつですよね」

「そうだよ」


 焼刃土は基本的には鍛冶場のすぐ近くの材料だけで作られる。


「方法はまた次の機会に教えるが、粘土に炭の粉、それに荒研ぎの粉を混ぜたり、山から良質な土を探したり、硼砂ほうさを入れたりする。流派によって本当に様々だし、それぞれ秘密にしているから、微妙な調合はよく分かっていない。刀剣の備前伝では墨汁の中に焼き硼砂を混ぜたりするらしい」

「備前伝?」

「有名な流派の一つと思ったらいい。私の国で長い間伝わっていた技術だ」

「墨汁とか硼砂とかよく分からないっすけど、分かりました」

「それでいい。色々あるんだと分かったらいいんだよ。詳しくはまた別の機会だ」


 話しながらも、エイジの神経は火炉に集中していた。

 焼きムラができないよう、慎重に見極める。

 この時、鉄の温度にムラができてしまえば、そこだけ粒子が大きくなる。

 すると欠けたり、切れ味がぐっと悪くなるといった悪影響が出てしまう。

 ほんの僅かな差異でだ。

 どの鍛冶師も非常に神経をすり減らす瞬間だった。


 だが、鉄に温度が入っていく瞬間。

 この時がエイジは一番好きだった。

 鍛冶師をやっていないと見れない光景だ。

 冷えた状態では真っ黒な鉄が、徐々に明るくなっていく。


 茶色から赤く。

 そして橙色に、更に熱すれば黄色く、眩いばかりに光を発しだす。

 その光をじっくりと観察し、温度を見分ける。

 何度見ても飽きない。それどころかますます惹かれてしまう。

 より極めたいと思ってしまう。


 鉄が赤くなる姿。

 思わずまばたきを忘れてしまうほどに、美しい光景だった。


「前に言ったかもしれないが」

「はい」

「焼き入れは決して昼間にするな。薄曇りか、戸を閉めるか、夜にやるんだ。明るさによって鉄の色が違って見える。昼間に焼入れをする鍛冶師は二流なんだ」

「分かりました」


 絶妙な温度まで上げておかないと、鉄が軟らかくなる。

 その鉄の色の見極めが、極めて難しい。


 昔の人は、これを様々な色に例えて秘伝とした。

 エイジが知るかぎりでは、例えば備前伝では小豆あずき色、蘇芳すほう色として。

 相州伝では行燈の火を紙に透かしてみた色や、夏の夜の山の端から出る月の色など、やや詩的な表現で色を教えている。


 鉄の温度を知っていれば、それらの表現が正しいことが分かる。

 だが、これを直接ピエトロに伝えるわけにはいかない。

 それらはすべて、日本に伝わるものばかりだからだ。


 どうすれば正確に伝えることが出来るだろうか。

 何度も手取り足取り教えていては、手間が掛かり過ぎる。

 エイジは考え、そして一つの方法を思いついた。


「秋になったら――」

「はい」

「紅葉が出来るだろう?」

「そうですね。黄色から真っ赤な葉まで、すごい綺麗ですよ」

「落ちている葉っぱの中で、もっとも焼入れに適した色があったら、それを取っておこう。毎日眺めると良い」

「それだったら、こうやって親方に見せてもらわなくても、勉強できますね」

「毎日見れるから覚えるのも早いだろう。そして、その色を完全に頭に焼き付けてしまうと良い。それから焼入れを練習し始めて、今度は鉄の色として覚えるんだ」

「俺、秋になるの楽しみっす」

「そうか」

「うす」


 温度計で油の温度を確かめ、焼戻しをしたり、硬度計で硬さを計ったりといった、現代ならではの検査法を使うことは出来ない。

 だから教えるには科学的な数字を頼りにするのではなく、五感を通じて、経験、記憶させるしかない。


 エイジは綺麗に光を放つ鉄を見せながら、焼入れ用の水桶に漬けた。

 ジュゴッ、と一瞬で水が蒸発する激しい音を聞きながら、焼入れを終える。

 鉄はまた、元の黒色に戻っていた。

 これを丁寧に研げば、美しい銀色に光り輝くだろう。


「見たか?」

「はい。しっかりと見ました」

「よし。焼き戻しはまた次の機会だ。今日は早く帰って、両親を安心させてやると良い」

「親方、ありがとうございました」

「うん」


 丁寧に頭を下げるピエトロの姿に、自分も少しは親方らしい仕事が出来たかな、と思う。

 これまで父と子の二人でやってきた。

 小さな子を預かり、育てるということに、最初は少し困惑した。

 ようやく慣れてきたと思えば、次は政治的な思惑も絡んだ問題児たち。

 未来の展望を明るくばかりも考えていられない。

 虚勢を張りながら試行錯誤していくしかない


「今夜のことは誰にも言うなよ」

「はい。絶対に、誰にも言いません。おやすみなさい」


 だが、こうして真面目に取り組んでくれる弟子がいる。

 そう思うと、頑張ろうという気持ちになる。

 帰っていくピエトロの後ろ姿を眺めながら、エイジもまた、帰宅への道についた。

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