第44話 水車小屋 前編

 朝、目覚めてみると、いつもは寝ているはずのタニアの姿がなかった。

 エイジは左肩に手をやっていた。

 普段と違い一人きりの起床というのは、どこか肌寒く感じる。


 いったい何処に行ったのだろうか。

 エイジは部屋を見渡した。

 ベッドの横には大きなチェストがあり、貴重品はそこに入れている。

 部屋の隅には麦束に千歯扱きが積まれ、タニアの仕事場所になっていた。

 何処にも姿はなく、また音もなく気配を感じられなかった。


 部屋には壁一枚隔てて、家畜部屋になっている。

 そちらの様子も眺めてみるが、牛が壁を見ながら尻尾を振っているだけだった。


 イノシシの子ども、ボタンはエイジの姿を見かけると、プヒプヒと鼻を鳴らして近寄ってきた。

 ボタンは頭がよく、放し飼いにしても必ず戻ってくるので自由にさせている。


 餌をもらえると勘違いしているのか、それとも純粋に触れ合いたいのか。

 頭を軽く撫でてやる。

 ノミやダニ対策にタニアが目の細かいクシでいつもいているので、毛はおどろくほど柔らかく細やかだ。


「タニアさんを知らないか?」

「プヒ?」

「まあ、知るわけないか」

「プヒプヒ! プヒー!」

「どうしたんだい?」


 ボタンは首を横に振ったかと思えば、鼻を玄関の扉に向けた。

 エイジにはそれが、タニアがそちらにいる、とボタンが答えているような気がした。


 いや、それはないはずだ。まさかウリボウに言葉がわかるはずはない。


 そう思いながらも、なんとなく無視できない気持ちになり、家を出る。

 ボタンはなにやら真剣な気がした。

 すぐ隣にボタンがついてくる。


 朝一番の女性の仕事は、火を借りてくることと水を汲んでくることだ。

 大きな桶に水を汲み、食事の準備を始めるのが女性の仕事。

 その間、男は裏の畑の世話をしている。


 ボタンは前に立つと、鼻をスンスンと動かし、プヒ、と一角を向いて鳴いた。

 その先にはマイクの家がある。


「本当にそっちにいるのかい?」

「プヒ! プヒプーヒ!」


 まあ、信じるしかないか。

 イノシシの鼻は意外にも鋭敏だという。

 豚がトリュフを見つけるという話を思い出した。


 隣同士ということもあって、エイジの家とマイクの家は一直線に道ができている。

 そのすぐ横には草が生え放題で、人が通るところだけ踏み固められ、草が生えないでいる。


 マイクの家はエイジたちに比べるとやや大きい。

 そして、少し古びている。

 板壁などは補修したエイジの家よりもはるかに隙間が目立っていて、張替えの必要があるだろう。


「おはようございます。エイジです。早朝から失礼します」


 扉を叩き、返事を待つ。

 他の村人なら無断で入り込むのが当たり前の行動だが、一般常識を刷り込まれているエイジには、そこまで出来ないでいた。

 早朝から訪れるだけでも、若干の気後れがある。

 扉が軋みながら開くと、眠たそうなマイクが出てきた。

 目がまだ開ききっていない。


「……おう、エイジか。タニアちゃん来てるぜ」

「おはようございます、タニアさんが?」

「おう。まだ日が昇る前から来て、ジェーンに相談してたわ。ふあ、眠い」

「それは、すみません」

「おう、良いってことよ。それだけ何かあったんだろう」


 相変わらず、マイクはタニアには甘い。

 本当に妹のように思っているのだろう。

 最近ではようやく夫として認められたが、最初は見知らぬ男と、随分と当たりがきつかったか。


 入れ、と促されて扉をくぐる。

 うっすらと獣の匂いと木の匂いが漂ってくる。

 皮革鞣ひかくなめしを続けているのだろう。


 家の中ではジェーンがタニアに話しかけていた。

 タニアはその言葉を真剣に聞き、何度も深く頷いている。

 エイジの姿に気がつくと、ジェーンがタニアの方を軽くつく。


「ほら、言ってやんな。喜ぶよ」

「で、でも」

「でもも、しかしもないよ」


 ジェーンがニヤニヤと笑っている。

 一体何を言われるんだろうか。


 タニアが立ち上がって、目の前に移動する。

 恥ずかしいのか、目がきょろきょろと落ち着かない。

 指先を絡め、頬が上気し、何度も言いよどむ。


「え、エイジさん!」

「は、はい!」


 急に大きな声を上げられて、驚いた。

 一体全体、何があったんだろうか。


「あのですね、その、落ち着いて聞いてください」

「あ、はい。私は大丈夫ですよ? タニアさんこそ落ち着いてください」

「そうですね。あのですね、実は私――」

「はい」

「どうも妊娠してたみたいです」

「そうだったんですね。無事でよかったです」


 そうかそうか。何か病気か何かだと思っていたら、妊娠だったとは。

 最近小食だったりしていたのは、ダイエットじゃなかったんですね。


「……妊娠!?」

「はい……。ジェーンさんに相談したら、間違いないって」

「そう、ですか。体は大丈夫なんですか?」

「今は大丈夫です。ときどき気分が悪くなる時があるんですけど」

「無理はしないようにしましょう。あと、困った事があったら何でも相談してください。そうだ、消毒用アルコールの生成と蒸留水、それに部屋中を煮沸消毒できるぐらいに綺麗にしないと。家畜小屋を分離して、糞を綺麗に掃除して、産湯! 産湯用の桶も作って。やることが一杯ありすぎるな――!」

「エイジさん、産まれるのはまだ先なんだから落ち着いてください」

「そ、そうですね。いやぁ、父親になるんですね。名前何にしようかな」


 全然落ち着けなかった。

 子供を作るとは決めていたが、実際に出来たと分かるまで、親になるという実感が少しも湧かなかった。

 いや、今も分かってはいないのかもしれない。

 だが、胸の奥から熱いものがこみ上げてきていた。

 これまで以上に、タニアが愛おしく見えていた。


 守るんだ。絶対に。

 たとえどんな困難が待ち受けていても。


 少しでも負担を減らすためにも、やはり村の発展は欠かせない。

 そして、領主との関係も改善しなくてはいけないだろう。

 今のように一方的に搾取されていては、いつか不満が爆発し、戦になる。


 だが、それよりも先に。


「タニアさん。ありがとう。頑張って元気な子を産もうね」

「はい、頑張ります!」

「あの、ここ俺の家なんで、そういうの帰ってやってくれない?」


 エイジは力強く、そして優しくタニアを抱きしめた。

 ほとばしる愛情そのままに口付けを交わす。


 げんなりした表情で、マイクが小さく文句を呟いた。






 その後、タニアには力のいる仕事は極力控えてもらうようにして、主に自宅で出来る仕事に専念してもらうことにした。

 妊婦でも畑仕事に駆り出される時代だ。

 力仕事を完全に排除することはできないが、それでも極力は配慮したい。


 幸いにも脱穀は座った状態でもできる仕事だ。

 水汲みは手押し車を改良して運ぶことで、楽にできる。

 料理は出来る限りは続けてもらう。

 そうしないとエイジ自身の仕事が進まなくなってしまうからだ。


 エイジは今、手の空いた女性陣と、フェルナンド、トーマス、フィリッポとともに、川べりへと来ていた。

 水車小屋の建造が決まって、初めての実行日になる。

 今日は下見と説明だった。


 川幅は五メートルほどで、水深は七〇センチぐらいまである。

 水流はさほど早くはない。川底が何の妨げもなく見えるほど、非常に澄んだ水が流れている。

 川の水音が絶え間なく鳴り響いている。


 エイジは手を川面に突っ込んだ。

 ひんやりと冷たい。

 これから作業するのに、この冷たさは障害になるだろう。


 川べりには大きな石がゴロゴロとしていて、まずは石を避ける作業から始めなければいけない。

 エイジは石の一つを持って、適当に投げた。

 ドボン、と低い音とともに石が沈む。


 更に移動して、二つ、同じような距離に石を投げる。

 石は重いが、持ちあげられないほどではない。

 極端に大きい物は木の棒をテコにしたりすることで、動かすことができるだろう。


 一度実際の作業を確認した上で、エイジは立ち上がった。

 集まってお喋りをしている参加者たちに、手を叩いて注目を集める。


「はい、では役割ごとに仕事を頼みますので、呼ばれたら来てください」


 エイジの指示で女性陣が集まった。

 示した先には大小様々な石。


「今私が投げた、川の中に少しだけ離れて大きな石がありますよね。あそこまでの幅で、この川べりの石を運んで、壁を作ります。この壁をL字型に作っていただき、川水が入らないようにしてください。完全に止められなくても結構です。体を痛めないように、ゆっくりやってください。急ぎません」


 第一は土台作りだ。

 女性陣には川べりの石を移動させて、同時に一度、水車のグルグルと回り、水を受ける場所――水輪を設置する場所の水を堰き止めてもらう。

 そしてその後、水の無くなった川底を一部掘って、水輪の水を受ける場所を高くする必要がある。


 水車は水を受ける場所によって、上掛け式や中掛け式、腰掛け式、下掛け式と分類されていく。

 高い位置から水を受けるほど、水の重量と勢いを受けることができるため、大きな力を生み出せる。

 川の水深から考えると、腰掛け式が一番適当だろう。

 そのための作業だった。


 その後も、軸受けの台座部分を作るために、地面を均し、固めなければならない。

 この村の女性は男顔負けに肉体労働をしているから、急がなければ十分な仕事をしてくれるはずだった。


 指示を受けると、女性陣はテキパキと動き出した。

 作業の途中もお喋りは止まらない。

 楽しそうに話しながらも、順調に手を動かしていく。

 ドボン、ドボン、と石が投げ込まれる音が繰り返し聞こえ続けた。




「なあ、エイジくん」

「なんですか、フェルナンドさん」

「今後、この水車ってのは、数を多めに作るつもりなんだよね」

「ええ。最低でも五つぐらいは欲しいところですね」

「了解。じゃあ、同じ部品をまとめて作れるようにしておくよ」

「あー、それはちょっと待って下さい」

「ん? なんだい?」

「川の水量や流れの速さによって、水車も大きさを変える予定です。同時に作るのは止めましょう」

「じゃあ、毎回同じ工程を繰り返すことになるのか」

「軸受けや歯車の部分などは同じ部品でも作れるはずですから、そういうところだけ量産するようにしてはいかがですか?」


 水車の基本的な構造は、鍛冶場を建設する際に、同時に作ったからフェルナンドも把握している。

 構造的にはやや単純化され、作業効率は落ちているが、それでも十分な働きをしてくれている。

 今回は前回の反省点などを踏まえ、よりエネルギー効率の高いものを作ろうと、フェルナンドもやる気を出していた。


「エイジくんも今回は指示だけじゃなくて、軸の部分を鉄で作るんだろう?」

「ええ。こればっかりは他の人に任せられませんからね」

「楽しみにしてるよ。ああ、あと」

「何ですか?」


 真面目な表情になったフェルナンドに、エイジも顔を引き締めた。


「今回は、これまで以上の物を必ず作る」

「期待してますよ」

「当たり前だろ。僕を誰だと思っているんだ。村中のあらゆる木材を加工する男だぜ? おい、マーク、いつまで石運びの手伝いやってんだ! お前の仕事はこっちだろうが」


 この村は、変わりつつある。

 畜舎が出来て、畑を広げて、今水車が出来つつある。

 水車が出来れば、麻や麦藁を叩く仕事や、皮鞣しの叩く仕事を水車動力に任せられる。

 生活物資の面でも一気に貯蓄が増えるだろう。

 余剰生産力は開拓や更なる開発に使うことができるはずだ。


 そして私生活では子どもが出来た。

 全てが上手くいくような気がして、エイジは体の内側から力が湧き出てきて仕方がなかった。


 残った指示を全て伝えると、エイジは湧き上がる情熱そのままに、駆け足で鍛冶場へと向かった。

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