第37話 襲来
畜舎建設という肉体労働で疲れたエイジは、この世界に来た当初のように、酷い疲労に襲われていた。
この頃は夢すら見ないような深い眠りにつくことも多い。
かと思えば、疲れすぎて眠れないこともあった。
その日はたまたま後者のほうで、ゴロゴロと寝返りを何度もうっては焦りを感じている。
早く寝ないと明日に差し支えるぞ、と。
何の意味もないと思いながらも、心のなかで羊の数を数えたり、深呼吸をしてみたりと、眠りにつくためにいろいろな方法を試したりしたが、あまり効果はない。
隣では、タニアが熟睡している。
穏やかな寝顔を眺めると、焦っているのが馬鹿らしく感じてしまう。
更に耳をすませば、暗闇の中、飼っているイノブタの気配が感じられた。
エイジはベッドから身を起こし、上着を羽織ると家の外に出る。
見上げれば空には満天の星が広がる。
光がないためか、空気が澄んでいるためか、ここに来て以来、これほどに星があるのかと驚かない日はなかった。
そして月。月は変わらない。
満月にはまだ早いが、それでも明るく地面を照らしてくれている。
周りを見渡せば、どこも明かりがついている家はない。
今村で眠れないのは、どうやら自分独りらしい。
元いた場所では体力はある方だと思っていたんだけどな……。
この村の人の体力には驚かされるばかりだった。
そんなことを考えている時だった。
遠くから獣の遠吠えが聞こえてきた。
「犬。……いや、狼か?」
遠吠えは一度で終わらなかった。
おそらくは何匹もが吠えているのだろう、二度、三度とその数は多くなってくる。
合図を送っているのだろうか。
聞こえてくる範囲が広がりを見せていく。
一体どれだけの数がいるんだ……?
遠吠えの数は増え続けている。その数はもはや、尋常なものではない。
「マイクさん……? ジェーンさんに、タニアさんまで」
それぞれが家の外に出て、東の森を眺めていた。
熟睡していると思われたタニアまでもが起きだして家を出ている事態に、エイジは胸騒ぎを覚えた。
この対応はタダ事じゃないな。
ひとまずはタニアの元に戻り、どうしてこれほどの反応を見せているのか事情を聞く。
タニアは熟睡していたとは思えないほどハッキリとした表情をしていた。
完全に眠気が覚めているな。
「エイジさんも起きたんですね」
「いえ、私は起きていたんです。少し眠れなくて」
「そうだったんですか。聞きました?」
「狼の遠吠えですよね」
「はい。多分、すぐに対策をとるようになると思います」
「対策?」
「エイジさんも呼ばれると思うので、先に説明しておきますね」
狼は村で飼っている家畜――特に羊や
狼が村にまで出てくるのは、基本的に夜なので、女衆は家畜を家や柵内へと移動させることを徹底し、男は狩りに打って出る。
「遠吠えの数から考えると、今年はかなりの数の狼がいると思います。去年は出なかったんですけどね」
深刻そうな顔をするタニアの姿を見て、エイジもこれがかなり悪い状況であるのが分かった。
ただでさえ、食料不足に陥りやすい、ギリギリ限界の生産量だ。
これで家畜が食い荒らされたら、手痛い打撃になるだろう。
こちらに気付いたマイクが小走りで寄ってくる。
いつもの緩んだ表情ではなく、厳しい顔つきだった。
「お前たちも気付いたか」
「私は起きていたんで」
「あの声を聞いたらぐっすり寝てられませんよ」
「まあ、そうだよな。俺も一瞬で目が冴えちまったよ。エイジはこんな時間まで起きて何やってるんだ?」
「いやあ、眠れなくて」
「まあ良いさ。タニアちゃんは鶏が襲われないように、再確認しておいてくれ。エイジは集会だ」
マイクは村長の家に向かう途中にも、各家を周って家畜を含めた安否の確認と、戸締りの徹底、男の参加を命じていた。
その間、誰もが厳しい顔つきだった。
一体どうなってしまうんだろうか。
初めての体験だ。
手に刀を持って戦うのか、それとも弓を放つのだろうか。
それとも罠でもしかけるというのだろうか。
どちらにせよ危険は尽きない。
平和な国で育った。
武器を持ったこともない一般人だった。
事故や病死などを別にすれば、突如として人が死ぬという経験もなかった。
それだけに、これからどうするのか、想像もつかないでいる。
私は、無事に生きてこの騒動を終えることが出来るのだろうか。
いくら考えても答えはなかった。
シエナ村は畜産の村だ。
農業も営んではいるが、主要な生産品として皮革加工で交易が成り立っている。
当然、育てているのは牛や豚だけにと留まらない。
羊や山羊は一人でも大量の数を移動しながら養えるため、肉に毛皮にと役立ってきた。
その羊飼いの一人が、今悲痛な顔をして、集会の場に立っていた。
「今回の狼は、多分俺のせいだと思う」
「そりゃまた何故じゃ」
「普段の放牧地に草が少なくなってきたから、新しいところを探そうと思って、普段よりも森に近づいてしまったんだ。多分、その森が狼のテリトリーだったんだと思う。その場では襲われなかったが、あいつらは後をつけていたんだろうな。うちの羊が三頭、やられてた」
「残念だったな。だがよ、そいつらを狩っちまえば、その森の近くも使えるってことだろう。あんま落ち込むな」
「みんな、すまない」
マイクが羊飼いの肩を優しく叩いて慰める。
どうやら今回の集会の主役は、確実にマイクのようだ。
一応は上座に座っているボーナも、口出しはしなかった。
「これから狼退治に出かける班分けを決める。村に残る奴と、外に出る奴だ。出る奴は俺とフィリッポ、フェルナンド、ジョルジョ、マイク――」
村の男衆の名が次々と呼ばれている。
まだ若い世代はあまり呼ばれていない。
最低でも二十歳を超えた男が、人選の基準のようだった。
確かに体力的に未熟な子どもに任せるには、荷が重いだろう。
「――――エイジだ」
「は、はい」
「初めてだろうと心配する必要はねえ。一番前に出ろとも言わないしな。後ろからついてきて、まずは慣れろや」
「分かりました」
名前を呼ばれた時、思わず声が上ずってしまった。
自分が狼と対峙して、果たしてまともに動けるのか、足を引っ張らないのか、いまだに少しも自信が湧かないでいる。
「それじゃあ今日は解散でいいか、婆さん」
「うむ。今回はお前に任せとる。存分に仕切れや」
「よし、解散だ」
その日は準備もできていないため、明日の夜から見廻ることになった。
それぞれ槍や弓、フォークといった得物は自分たちで準備する。
エイジは頑なに武器を作らなかったから、槍は青銅製だった。
こういう使い道なら、鏃のように作ればよかったな。
後悔先に立たず。無事に生きて帰れたら、害獣対策にいつか作ることを考えよう。
解散が言い渡されると、ぞろぞろと家を出る。
足取りは重く、そして慎重だった。
帰り道、マイクと共に道を歩く。
「しかし、狼はまた来るんですかね」
「間違い無く来る。あいつらは一度得物を見つけたら、しつこいんだ」
「そうですか」
マイクの言葉は確信に満ちていた。
猟師として動物の特性を誰よりも深く知るからこその断言だろう。
曖昧さを許さない自信に満ちた物言いは、普段の馬鹿さ加減が鳴りを潜め、端的に言うと格好良かった。
「考えてもみろ。羊っていう上手い餌が、ごろごろと集まってるんだぜ。あいつらからしたら格好の餌場だろうな」
「これまでに、何度も殺してきたんですよね」
「ああ。冬場になると数年に一度は出てくる」
「根絶やしにはできないんですか?」
「群れの一つでしかないからな。森の奥深くまで狩りに行ったら、こっちが囲まれて殺される」
「そうですか」
殺されると平然と言った。
つまり、大怪我や死者を出したことがあるのだろう。
ますます心が暗くなっていくのが分かる。
「後ろに回すからって油断はするなよ。あいつらに噛まれたら、ヘタしたら死ぬからな」
「は、はい。一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「見廻ることは反対しないんですが、出会える確率ってどれぐらいあるのかと」
「心配しなくても、それも手を打つ。一頭の羊をわざと放して、囮にするんだよ」
「一頭だけでも引っかかりますか」
「あいつらは群れから離れた奴は絶対に見逃さないからな」
マイクの家についた。
ジェーンが寒い中、家の外に出て待っていた。
その隣にはシベリアンハスキーのような大型犬がいる。
マイクの帰りがわかると、尻尾を大きく振りだした。
すぐ傍まで走ってくると、一度飛びかかる。
その後すぐ、じゃれつくようにマイクの足元に体を擦り付けた。
「よーしよし。ジェロ。ただいま」
「大きい犬ですね」
「ああ。ジェロディは俺の相棒だよ。狩りの時こいつが獲物を見つけてくれるから、俺はメシが食えてるんだ」
「うわっぷ!」
「お前のことも気に入ったらしいな」
ジェロは顔に濡れた鼻先をつきつけてきた。
フワフワとした毛は触り心地がよく、いつも綺麗に手入れされていることが分かる。
エイジは頭を撫でてやりながら、立ち上がったジェロを下ろした。
頭を触られても嫌がらず、されるがままにしている。
賢い犬だな。それに大人しい。
だが、一度獲物を見つければ、この猟犬は誰よりも勇敢に駆けるだろう。
無駄な脂肪のないスラリとした姿は、とてつもないバネを秘めているように見えた。
「じゃあな。明日も遅くなるんだから、今日は早く寝ろよ」
「分かりました。さっきまで寝付けなかったんですが、なんだか急に眠気が来ましたよ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
手を振りながらマイクが家へと入っていく。
そのすぐ隣にはジェロがピッタリとついていた。
「おかえりなさい」
「ただいま、タニアさん。家の方は大丈夫だった?」
「はい。もう遅いですし、今日は早く寝ましょう」
「そうですね」
声を聞きつけて出てきてくれたタニアとともに、家に入る。
やはり体は疲れていたのだろう。今度はベッドに入った途端、眠りについてしまった。
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