第31話 豊穣祭

 空が赤く染まり出すと、広場に人が集まり始めた。

 随分と先から集まっていたエイジはその最前席から全体を眺め、ほうっと息をつく。

 こんなにも人がいたのか。


 村の人口はおよそ二五〇人。

 それぞれ思い思いの間隔を開けて集った広場は、人で埋まっている。

 かつて似た光景を見た覚えがある。

 学生時代の全校集会だ。校長の長々と続く訓示を恨めしく思ったものだ。特に夏と、今のように寒い冬は。


 知らない人ばかりだな、とエイジは思う。

 村の中央部に住む人達ならば、挨拶を交わすこともあるが、端の方だとなかなか顔を合わせない。

 普段は姿を見かけることもない乳飲み子や、小学生ぐらいの子ども、そして腰が曲がり杖をつく老人の姿もある。


「あんたがエイジさんだね?」

「そうです。はじめまして」

「うん、挨拶が遅くなってすまないね。今日は楽しんでな」


 年老いた男が笑顔でエイジに頭を下げる。

 顔を合わせることはなかったが、村に馴染みのない顔ということで、エイジは目立つ。

 それにリーダー格になったこともあり、名前と実績だけは覚えられていることが多かった。

 みな顔を合わせれば挨拶の一つもして、時には少し話し、それぞれ祭りの自分たちの位置へと移動していく。


 集まった人の顔からはみな暖かな笑顔が浮かんでいて、それを見ているだけで、いかに祭りが人の楽しみになっているかよく分かった。

 本当に一年に一度の楽しみなのだ。

 娯楽らしい娯楽もない、遊べるほどの余裕もない。

 畑仕事は手を抜けば、収穫が減るという結果で返ってくるから、どれほど気が向かずしんどくても手は抜けないのだ。

 それは別に畑仕事に限らない。

 それぞれの仕事は手作業で多岐にわたり、一人でなんでもこなさないといけない。

 それゆえに専業制のような決まった作業を繰り返すわけにはいかず、効率は低下する。


 仕事を休んでいい理由ができる年に数度の祭りや祝日は、かぎりなく特別な一日だろう。

 短い時間で遊べるもの――オセロでも教えようかな、とエイジは思った。


 ――まさかそれが後に騒動の種になるとは、この時思いもよらなかった。


 祭りの開始が告げられる前に、酒が配られた。

 麦酒エールだ。

 寒い体を温めるためか、麦酒は温められていた。

 エイジは酒を受け取ると、隣へと渡していく。

 木を繰り抜いて作られたコップは、冬の空の下でも柔らかな温もりがある。

 口に含むと麦の香だけでなく、ハーブが使われている。さわやかな口当たりで飲みやすく、体が芯から温もるようだった。

 しばらく飲んでいると、胃の方からポカポカと温かみが全身に伝わってくる。

 雪国の人がアルコールに強いわけだ。飲まずにはいられないだろう。


「もうすぐ始まりますよ」

「これから出番ですか? アデーレさん」


 隣を見れば、非常に綺麗な身なりをしたアデーレがいた。

 神事に使うためか、村中で最も上等な衣服だろう。村長の服よりも手入れされている。

 毛羽立ちもなく、なめらかな生地だった。

 それが真っ白に漂白されていて、今は夕日に赤く染まっている。

 顔にも化粧が施されていて、綺麗な顔立ちがより美しく映えていた。

 アデーレはエイジの言葉に深く頷いた。


「エイジさんは初めてでしたね。壇上で豊穣の女神に供物を捧げますの」

「捧げるのは牛と聞いていますが」

「村でも役にたってくれた古牛や、あとは女性の腕輪、畑道具の象徴である鍬なども捧げるのですよ」


 腕輪や鍬は最終的に沼に捧げ、飲み込まれる。

 鍬を作った身にとっては、少しもったいない気もするが、エイジも幼い頃からふいご祭りの時に神主を呼んだ家庭で育っているから、その気持はわかる。

 そして、この行事の責任も。


「村の代表として行うんでしょう、大役ですね」

「小さな頃から決められたことですから。それに他の人には出来ないことです。名誉なことですわ」

「綺麗で物腰の落ち着いたなアデーレさんにピッタリの仕事ですね」

「あらお上手ですわ。知っています? 私、タニアと村一番の美人はどちらかって、いつも比べられてたんです」

「そ、それで?」

「エイジさんは両手に華をお求めですって、タニアに言いつけてしまいましょうか」

「ちょっ、ちょっと!?」

「冗談ですよ」


 まったく、冗談にしてはたちが悪すぎる。

 タニアさんが本気にしたらどうするつもりだろう。

 というか、恐らく本気にする。本当に止めてほしい。


 エイジの真剣な表情に、笑いながらすみません、と謝られる。その動作一つとっても、タニアとはまた別の華がある。


「儀式自体はすぐに終わります。あとは踊りと歌と料理と、もう騒ぐだけになってしまうので、どうか村で初めての豊穣祭、お楽しみくださいな」


 自信に満ちた表情でアデーレは一礼するとその場を離れた。



 エイジがぼんやりとその後姿を眺めていると、隣に近寄る気配を感じる。

 振り向いて、ぎょっとした。

 アルコールで顔を赤くしたフェルナンドが睨みつけていた。


「嫁に色目使ってるんじゃねーぞ」

「違いますよ! というか、折檻されたとか言いながらベタぼれですね?」

「お、おう……。嫌なこと思い出さすなよ。またすねが疼いてきやがった」


 フェルナンドは急に怒気を収め、青い顔になったかと思うと脛を押さえだした。

 薄暗闇の影のなかでは分からないが、恐らく腫れているのだろう。

 完全に尻に敷かれていますね。

 どのような目にあったのか想像したくはない。

 丁寧な物腰の反面、夫には顔に似てキツい性格のようだ。


「お酒を飲むと疼きが強くなりますよ?」

「こんな日以外、大量に飲めないだろうが」

「あとで苦しんでも知りませんよ」

「おうとも、僕だって知ったことか」

他人事ひとごとみたいですね」

「明日の僕は、今の僕とは別だからね。明日の苦しみは明日味わえばいい。そして明日の楽しみは今味わえばいい」

「そして明日には苦しみしか残らないと」


 早くも出来上がっているのだろう。

 グイグイと麦酒の入ったコップを傾けると、おかわりを求めてその場を離れていく。

 再び一人になったエイジは、改めて周囲を見回し妻の姿を探す。

 タニアの姿がないのは、まだ料理番をしているのか。

 このような日に一人で開始を待つのは少し心寂しい。


 やがて空が赤から紺へと変わり、広場に夜の帳が下りてきた頃、篝火が焚かれはじめた。

 パチパチと音を立てて木皮が弾け、火の粉がわずかに舞う。

 壇上の上が宵闇の中、明るく照らし出された。

 それまでざわついていた空気が、一瞬にして静かに張り詰める。

 虫や獣までもが息を潜めたようだった。


 どこからか錫杖しゃくじょうの音が鳴り響いた。それと同時に太鼓の音も響く。

 シャン、と一鳴りすれば、闇に女の姿が浮かぶ。

 アデーレが杖を片手に広場の脇から壇上へと歩いて行く。

 歩く度に清らかな音が鳴り響き、アデーレの後ろに女の姿が続く。

 村長のボーナ、女衆のまとめ役であるジェーン、そしてタニアが、手に手に供物を持っている。

 道理でいないはずだ。

 その後ろにはマイクとフィリッポが、大きな牛を牽いていた。


 壇上に立つと供物が並べられた。

 静寂は続く。

 それまで深酒で正体をなくしていたような男たちでさえ、軽口一つ叩かない。

 誰もが口を閉じ、神聖なひとときを待っていた。

 祭りとは祀り――神を奉るときでもある。

 人は本気で神を信じている。


「この地におわします豊穣の女神に、この一年の恵みの慈雨に感謝いたします。来る収穫の春にも変わらぬ慈愛を願い奉ります」


 アデーレが膝をつき、頭を下げた。後ろに並んで座る村の代表たちも、同じように頭を下げる。

 一際大きく、篝火の炎が弾けた。


 鉄の棒が風を切って振り下ろされた。

 ぶつかった牛の眉間が陥没し、短い悲鳴のあと、一瞬にして絶命する。

 牛は横に倒され、的確に素早く処理されていく。

 驚くべき手際、早業だった。

 やがて牛の魂が宿るとされる肝と心の臓が取り出され、皿に盛られて供えられた。

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