第15話 日本の心、風呂

 エイジに劣らず、ピエトロも器用なのだろう。

 次の日から嫌な顔一つせず、石鹸作りに励んだかと思うと、二日目でこれまでより遥かに臭いの少ない物を作りだした。


 どうしたのか、とエイジが訊くと、返ってきたのは意外であり、単純な方法だった。

 水と油を炊いて精製する時に、塩や灰を少し入れると、分離しやすくなるのだという。

 エイジには思いもつかない方法だ。


 もとより石鹸も知らなかったピエトロに思いつけるとは思えない。

 詳しく訊くと、その方法は自分で編み出したわけではなく、ジェーンに教わったものだということが分かった。

 ジェーンは猟師の妻であり、獲物の解体や、皮の加工なども行なっているから、自然とそういった技術を知っていてもおかしくはない。

 不純物が今まで以上に取り除かれたことで、採れる脂の量は減ったわけだが、補って余りある成果だった。


 完成間際の石鹸に、エイジは熟しすぎて腐りかかった柑橘の果物の皮を搾り、匂いをつけていく。

 小さな壺一つ分ぐらいしかない貴重な匂いつき石鹸を、壺に詰めて厳重に蓋をする。

 タニアへのプレゼントにするつもりだった。


 連日家のすぐ外で脂を焚いているためか、日増しにタニアの機嫌が悪くなっている。

 体臭は確実に消えていっている筈なのに、未だ寝る時は床を別にしていた。

 お預けをされた犬の気分だ。


「臭いがつくのに悪いな。親御さんは何も言っていないか?」

「最初は驚いてました。その臭いは何だって」

「そうだろうな」

「でも、親方が新しいものを作っていて、手伝っているんだって伝えたら、逆に応援してくれましたよ。親方の作るものは便利だから間違いない、って感じです」

「随分と信頼してもらえてるんだな」


 普通、村の外から来た人間は信用されにくい、という意識がエイジにはあった。

 生活様式が違うので、大人の場合はいつまでたっても、細かなしきたりなどに慣れられないのだ。

 都会育ちの人間が田舎に引っ越したら、いつまでも馴染めずに村八分になった、などという噂を聞くぐらいだ。

 そんな目に遭う覚悟はしていたのだが……。


「麦の種まきで、芽が出る数がめちゃくちゃ増えたって、喜んでましたからね。豊穣神扱いでしたよ」

「そんなにか……」


 やはり、収穫量が増え、生活が豊かになる実感があるのが、受け入れられている一番の理由かもしれない。

 なおさら、本業の鍛冶をおろそかにするわけには行かない。

 この石鹸作りは、家畜を殺して油が溜まる、この時期だけにしておく必要があるな、とエイジは考えた。


「ピエトロには損な役回りをさせてるな。家にある干し魚を持って帰ってくれ」

「いえ、これも仕事ですから」

「子供が遠慮するな」


 頭をクシャクシャを撫でると、くすぐったそうに払いのけられる。

 それでも、好意が伝わったのか、ピエトロは頭を下げて、礼を言った。


「それじゃあ……ありがとうございます!」

「作れるだけ作ってしまったら、またすぐに鍛冶の方に戻ってもらって、どんどん新しい技術を身につけてもらうから、それまで頼む」

「はい。よろしくお願いします」


 ピエトロが、片付けを始める。

 川から汲んできた重たい水甕(みずがめ)を、全身の反動を上手く使って持ち上げ、鍋に入れていく。

 まだ成長期だというのに、結構な力だった。


 片付けを任せて、エイジは鍛冶場に戻る。

 研ぎ直し、打ち直した鎌や鍬を手に持つと、畑に向かう。




 畑は少しだけ開拓されていた。

 畝の数が増えている。

 まだ始めてから間がないから、大きな変化は望めない。

 少しずつの積み重ねだ。


 開拓が終わったところの土は、荒地に比べると格段に軟らかく、質が細やかだ。

 丹念に篩をかけて、土塊(つちくれ)を潰し、石を取り除いたのだろう。

 地味で根気のいる大変な作業だが、手抜きは見られない。


 エイジやマイクといった監督するものがいなくても、実直に作業を進められる性格の人ばかりだと分かる。

 ベルナルドがエイジの姿に気づき、麦わら帽子を取ると笑顔を浮かべた。


 日焼けした顔の対比で、歯がとても白い。

 その表情が真っ直ぐで、エイジは思わず眩しいものを見るような気持ちになった。


「ひっさしぶりじゃないか、エイジさん」

「本当ですね」

「新しいこともいいけど、ちゃんと俺たちの相談も乗ってくれよ」

「もちろんですよ。なにか困ったことでも?」

「いや、そろそろ早めに種まきをしようとおもってるんだけどさ、前にやり方が違うって言ってただろう?」

「ああ、上からばら撒くんじゃない、って奴ですね」

「そうそう、それ! 麦をまいた奴が驚いてた! エイジさんの知識にはホント驚かされるだ」


 先日の話だ。

 ジョルジョやベルナルドの種まきのやり方を聞いて、エイジは耳を疑った。

 彼らは種まきというと、空中から種を蒔くのだ。


 土をかぶせず、その後水を与えるといったこともしないため、発芽率が非常に低かった。

 親の代から続くやり方なので、疑問を覚えなかったのだという。

 思い込みや刷り込みは、改善をもたらさないといういい例だ、と思う。


「穴を開けて、そこに種を植えましょう。で、軟らかく土をかぶせます。最後に水をたっぷりあげます」

「一つ一つ穴を開けるのは面倒だし、水やりかぁ。このぐらいの広さなら構わんけど、これから広くなったら、汲んでくるのは大変だなぁ」

「種まきは道具は作ってるんですけどね。まだ数が間に合ってないんです。あとは他の場所みたいに、水を引いてこないとダメですね」

「やることが少しも減らんなぁ」

「やればやるだけ収穫が増えるはずです。今ではなく、その時のために頑張りましょう」

「……そうだな。文句を言ったって仕事は進まないしなぁ」


 ベルナルドのがっくりとした声に、思わず苦笑してしまう。

 これぐらいでへこたれるようなら、共同作業とはいえ、ここまで綺麗な開拓は出来ないはずだ。

 エイジに心配はなかった。






 夜、珍しく松明が焚かれ、暗闇を照らしていた。

 空を見上げれば、変わらない満天の星。

 下を見れば多量の湯。


 空気中には湯気が立ち上っている。

 それはレンガとタイルで作られた風呂だった。

 共同用として、それなりに広い。


「あー、気持ちいい。何ヶ月ぶりだろう……」


 思わず声が出る。体の芯から温もり心地よさ。

 エイジがタニアに拾われて以来、ずっと作りたいと思っていたのが、風呂だった。

 上下水道の概念と簡易な設備があるのに、風呂がなかった。

 沐浴の習慣はあるので不潔ではなかったが、やはり風呂には劣ると、エイジは思う。

 風呂には体の汚れだけでなく、心についた疲れや澱みも洗い流してくれると感じるのだ。


 この風呂を作るには、様々な手順を踏む必要があった。

 まずは村人としての地位を確立するために、仕事周りを整えてきた。

 本業の鍛冶仕事で実力を認められ、少しずつ村の運営に対しても助言をしてきた。


 そこまでいって、ようやく、はじめて自分の望みも、村のために実行することが出来た。

 入浴習慣も、そのうちの一つだ。


 フェルナンドにも忙しい所、手伝ってもらった。

 まだ屋根はないし、壁もないから露天風呂に近い作りだった。

 今後建設予定だが、何時になるのかははっきりしない。

 使用に関しては、少人数で使うと水を汲んで火をたくのは大変だから、共同浴場として今後使っていくつもりだ。


「ほら、タニアさん、気持ちいいでしょう?」

「ええ……何だか全身から力が抜けていくみたい」

「体がしっかり温まったら、あとで石鹸で体を洗いましょうね」


 湯に肩までつかり、妻の姿を見る。

 普段暗闇ではっきりと見えない裸体が、松明の光に浮かび上がっていた。

 最近の豪華な食事で、少し肉付きが良くなった。

 また、女性らしさが増えたようだ。


 エイジの視線が湯に濡れた長い髪、細い首すじから、なだらかな鎖骨へと降りていく。

 大きな胸に目が向かう前に、タニアが腕で体を隠した。

 顔が恥ずかしさに赤くなっている。


「あっ……」

「あんまりジロジロ見ないでください」

「キレイだからですよ」

「そんなおだてには乗りませんからね」

「本心ですよ」

「そんなこと言って、見たいだけじゃないですか?」

「見たいだけじゃないですよ」


 夫婦なんだから少しは触りたいです。

 これが結婚してなかったら、けっして見ようとしなかっただろう。


 ……だが、この美しい女性は自分の妻なのだ。

 私が好きにしていい存在なのだ。

 そう思うとたまらなく幸せになる。


 もっと多くを知りたいし、もっと色々知ってほしい。

 エイジは風呂の中を移動して、タニアの後ろに回る。

 柔らかな肢体に腕を絡める。


「石鹸を使うのは初めてでしょうから、使い方を教えますね」

「要りません。最近作っているやつですよね。あれ、臭いじゃないですか」

「大丈夫です。そういうと思って、良い物を作ってきましたから」


 石鹸を入れた小壷を見せて、蓋を開ける。

 ただよった予想外の匂いに、タニアの表情が輝いた。

 顔を乗り出し、壺の中を覗きこんで、小鼻をひくひくと匂いをかぐ。

 その顔がうっとりとした。


「……いい匂い」

「でしょ? タプチェと皆さんが呼んでる果物を搾りました」

「私が臭いって言ったの、気にしてました?」

「少しだけ」

「……ありがとうございます。エイジさんって、スゴイですね。便利なものを作るだけじゃなくって、すぐに問題があったら改善しちゃって」

「さあ、上がって。早速試してみましょう」

「あっ、ちょっと」


 タニアを半ば強引にイスに座らせると、手にジェル状の石鹸を取ると、こすって泡立てていく。

 泡立ちはかつてエイジが使っていた化学石鹸に比べれば劣るが、充分な量だ。

 泡だった手を、使い方を教えるためと言って、全身に這わせていく。


「なんだかヌルヌルして、変な感じ……」

「気持ちいいでしょう?」

「そうですけど……ちょっとくすぐったいです。あんっ!」

「汚れも凄く落ちるんですよ」

「本当ですね。うわぁ、それで作ってたんだ……」


 タニアの感心する態度が心地いい。

 そして背中の洗浄が終わった。

 手の届きにくい背中から、脇や腰へと手を回した時、タニアが声を上げた。


「どこ触って……あっ、や、やっぱりエイジさんはエッチです!」

「ほら、全身くまなく綺麗にしましょう?」

「て、手つきがいやらし……あっ!」


 妻の叱りを受けながら、エイジは楽しく洗い合った。

 後で本気で拗ねられたが、その後もお風呂は二人で入った辺り、本気の拒絶ではなかったのだろう。





「エイジさん、昨夜行商人の方がいらっしゃったようですが、お会いになりますか?」

「行商人ですか?」

 

 村には年に数回、行商人がやってくる。

 これまで接点がなかったのは、エイジが鍛冶の試験があったり、畑仕事の指導に忙しかったりと、機会がなかったためだ。

 村である程度の自給自足はできているので、欲しいものと急に言われても思い浮かばなかったが、逆にこちらから売り込みたいものはあった。石鹸だ。

 冬に向けて布と交換するのも良いだろう。


 そのように軽く考え、行商人の影響力を深く考えなかったことを、のちにエイジは後悔することになった。

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