第14話 牛脂石鹸と寂しい夜

 さて、石鹸を作るか。

 そう考えてはみたものの、エイジには石鹸作りの確かな記憶などはなかった。

 学生時代、一度理科の実習で作った記憶がある程度で、その時はグリセリンや苛性ソーダなどの精製された物質と文章が最初から準備されていた。

 手作りとなると、おぼろげに脂と灰を使うらしい、というぐらいの知識しかない。


 といっても、一度でも手作り石鹸の経験があるため、想像できることも十分にある。

 灰をそのまま使う訳にはいかないから、これを苛性ソーダのように、液体で成分を採らなくてはならない、と仮説をたてる。


 ならばどうするかと考えたのは、水に溶かして、それを濾す方法だ。

 しかし、漉し器に使えるような細かな目のフィルターなど、そう簡単に作れるものではない。

 綿などの布は、衣服に使用するのが精一杯で、とても余裕が無い。

 濾過といってエイジがイメージしたのは水の浄水だ。

 あれは石や砂利を積み重ねるんだったか。

 キョロキョロと家で目に当たるものを探すエイジに、唐箕を使っているタニアが声をかけた。


「何かお探しですか?」

「いやぁ、ちょっと漉し器を作ろうと思いましてね」

「漉し器……? 何ですか、それは」

「うーん、ふるいのもっと細かいものです」

「藁など使えばいいのでは?」

「ああ、そうですね。それに石を置くか。ありがとうございます。あと、この桶、いただきますね」

「また何かお作りになるんですね?」

「ええ。まあ、何が出来るかは、楽しみにしておいてください」

「期待しています。あっ、ちょっと待って下さい」

「何ですか?」

「お仕事、頑張ってくださいね」


 チュッと、頬にキスをされる。

 軽いキスをお互いの頬や唇に交わし、エイジは照れくさそうに笑う。

 ほんの少し前まで、こんな幸せがあるとは思わなかった。

 がんばろう、とやる気が湧いてくる。


 結局桶に石と藁、砂利などを敷くことにした。


 桶に一部、穴を開けた。

 藁を均一に敷いていく。

 その上には大き目の小石を並べ、その上に細かい小石と目を細かくしていく。

 灰を被せて、水を流していくのだが、あまり細かくしすぎても、必要な成分まで取り除かれそうで、かと言ってあまりに目が粗いと、不純物が多くなりすぎる。


「なかなか難しいな」


 砂利の量を調整すること4回で、茶色をしたいかにもな液体を抽出することに成功した。

 ポトッ、ポトッと落ちてくるその液を、かめで溜めておく。

 どれほど脂が取れるのかわからないので、余裕をもって作っておく必要があった。

 時折灰を足して、水を加えていく。

 いつもと違う、初めての作業に、心がワクワクと浮き上がるのをエイジは感じた。





「おーい、頼まれてた脂、持ってきたぞ」

「ありがとうございます。……くさっ! スゴイ臭いですね」

「あー、まあ普段嗅ぎ慣れてない奴からしたら、その反応が普通か」

「これは牛の臭いですね?」

「ああ。年行っちまって、乳の出なくなった雌牛だ。これで一頭分だな」


 マイクが持ってきてくれたかめに入れられた脂は、たっぷりと入っていて、とにかく重い。

 両手でガッチリと抱えなくてはならない程で、およそ30キロはあるだろう。

 エイジが見たところ、このあたりの牛一頭はかなり軽い。

 それだけ食べさせられていないのだろう。

 記憶にあるデップリと肥えた牛に比べれば、半分ほどの体重しかなかった。

 それでも、これだけの脂が取れるのか。


 蓋を開けたら、すさまじい動物臭と血の臭いがする。

 このままではとてもではないが、使えないだろうな、と思う。

 白い脂がたっぷりと入っている。

 集められて時間が経っているのか、固形化していることが救いだった。

 これを純粋な脂だけに分離させなくてはならない。


 龜を家の外においた後も、マイクからは獣の臭いが取れていなかった。

 いいものが出来たら、なおさら石鹸を渡さなくてはならないな、と思う。


「それで、何を作るんだ?」

「石鹸です」

「石鹸? どういう物なんだ?」

「汚れを落とすものですね」

「ああ、あの肉の丸焼きを作った後の灰に出来る奴だな。うちも服が汚れた時は使ってるぞ」

「それをもっと効果的に作るものです」

「そりゃあ良いな。楽しみにしてるわ」

「初めて作るんで、上手くいくかは分かりませんけどね」

「脂ならこれから幾らでも出てくるから、何回でも試したらいいさ」

「ちなみにどれぐらい……」

「この龜10個はラクショーだな。さっさと使いきってくれよ」

「は、ははは」


 大変なことになった。

 一体どれだけの作業が続くのか、心配になりながら、その場を離れるマイクに礼を言う。

 急いで作業を開始した。


 大鍋に半分ほど水を張って、火にかける。

 ある程度温度が上がりはじめたら、そこに脂を足す。

 温度が上がることで、臭いは更にきつくなる。


「外でやって正解だったな」


 思わず呟きながら、鍋を撹拌する。

 取り切れていない小さな肉片や腱、内臓の一部などの軽い部分が浮き上がり、同時に不純物が沈み込んでいく。

 湯は一瞬にして濁り、表面に油が浮き始める。

 浮き上がったゴミを取り除き、後は冷めるのを待つ。

 表面の油が冷えて白く固まっていく。

 それを新しい龜に移す。

 先程に比べれば純度が上がっているのだろう、色もより白く、臭いもマシになっている。


 残った湯を捨て、新しく水を張り、同じ作業を二回繰り返す。

 龜には先程よりも量の減った脂が、それでも25キロほどだろうか、しっかりと溜まっている。

 あまりにも臭いがキツイからか、家の中からタニアが様子を見に来た。

 扉から近づいてこない。


「今回のは臭いがスゴイんですね」

「すみません。もう少しでマシになると思いますので」

「はぁ……」


 今回の製作物はいつもと随分様子が違う、という困った表情を受けながら、作業を続ける。

 人に手間を掛けさせてまで始めた以上、中途半端には終われなかった。


 朝から始めた作業も、ここまでで昼になっている。

 一段落ついたタニアが、食事の準備ができたと呼んでくれる。


 その日の昼食は、牛肉のステーキだった。

 年老いているためか、それとも日にちを置いていないためかやや肉質が硬いが、噛み締めると牛の脂が、じわっと口の中に広がる。


 先日の鹿肉といい、最近の食事は豪勢だな。

 冬の前の贅沢かもしれない。

 フォークとナイフを使い、切り分けていく。

 鉄が使えるようになるまでは、ナイフは有っても、フォークがなく手掴みだったのが懐かしい。

 エイジが一人箸を使うと、タニアに不思議な顔をされたものだったし、使い方をなかなか習得できなかったが、フォークは比較的にすぐに覚えた。

 一度覚えれば、手が汚れることのないフォークの利便性は理解され、村中に広がりつつある。


 空腹を満たした後は、再び石鹸作りに挑む。


「どうやって作ったかな……」


 まずは少量で作って見ることにする。

 鍋で脂を溶かし、灰汁と水を入れて火にかける。

 成分がマダラにならないようにグルグルと時折撹拌し、水分量が減るのを待つ。

 濃度が高くなるにつけ、少しずつ粘度が増し、ジェル状になっていく。


「さて、固まりはしないけど、これでどうだ」


 お玉で掬って、布の汚れにつけてみる。

 しかし泡が立たず、汚れも水に比べて際立って落ちているわけではない。


「灰汁の量が少なかったかな」


 二度目の挑戦。

 今度は反省を活かして、灰汁の量を増やす。


「今度こそ! ……ダメか」


 ふぅっと息をつく。

 もとより最初から全て上手くいくとは思っていない。

 鍋を綺麗に洗い、もう一度最初からやり直す。


「これはどうだ……」


 少量の水をつけてこすると、ヌルヌルとした触感とともに小さな泡が立って、汚れが落ちる。


「おっ、ひとまずは成功だな。後は脂の量と灰汁の量の割合で、どれほど安定するか確認しよう」


 五パターンほど組み合わせて、最適な割合を見つける。

 脂一に対して、〇.七程度の割合が一番泡立ちがよく、肌のヒリツキなどもないようだった。

 分量が分かれば、あとは大量に作るだけだ。

 お玉で計り、割合通りに入れていく。

 大鍋いっぱいのジェル状石鹸が出来上がり、新しい壺に分けて保存する。


「完成だ!」


 早くも一日が終わりに近づいている。

 長時間火の前に立っていたので汗ばんでいるが、日頃の作業比べれば、風を受けることが出来る分、体力的には随分と楽だった。


「終わったんですか?」

「はい。これが作っていたもので、石鹸、汚れ落としですね」

「エイジさんはなんでも作れるんですね。何だかスゴイ人が夫になってしまいました」

「いえ、そういう訳じゃ」

「でも、私が使っている千歯扱きも、唐箕も、ナイフやフォークも、全部エイジさんが作ってくれましたよ?」

「たまたま知っていただけです」

「知っていても、それを実際に出来るかどうかは別だと思いますよ。エイジさんは誇っていいと思います」

「俺はそんな誇れるような人間じゃないですよ」


 タニアの優しい言葉に、胸の中が暖かくなる。

 口で否定しても、やはり褒められると嬉しいものだ。

 それが不慣れな挑戦なら、なおさらだ。


 愛しい妻の言葉に感動して、エイジがタニアを抱き寄せる。

 よく櫛を入れているのか、髪の毛は艶があってサラサラだった。

 残りはラベンダーやカモミールのハーブのようなものがあれば、それを混ぜて香りの良い石鹸をプレゼントしよう。

 未来を考えて、嬉しい気持ちになる。

 食事が終わったら、今夜は愛を確かめ合おう。

 まだ生活が安定したとはいえないが、子供も欲しい、と思っていた。


 だが――。


「ごめんなさい」

「タニアさん?」


 すっと胸を押され、タニアが抱擁から抜け出す。

 表情からは申し訳なさと、困惑が伝わってくる。


「ごめんなさい、エイジさん。今夜は一人で寝てください」

「な、何故……?」


 どうしてこんな反応なのか。

 エイジは本当に分からなかった。

 タニアの先程の言葉からは、拒否されるなど予想もつかないことだった。

 しばらく押し黙っていたタニアだったが、理由を言わなければ納得しないと思ったのだろう。

 おずおず、という態度で口を開いた。


「今のエイジさん……凄く――です」

「え?」

「凄く獣の脂臭いんです……」


 申し訳無さそうなまま、クルッと体を反転させ家の中に入ってしまう。

 ああ、そうか……。

 鼻が慣れてしまったが、エイジも最初、マイクに対して感じたことと同じだ。

 確かにあんな体臭をしていたら、一緒の布団で寝られないよな。

 理解はする。だが、完全には納得出来ない。

 夜までしっかりと体力が残っている日は、限られている。

 初めて畑仕事をした日など、体の節々が痛くて食事も満足に取れずに寝てしまったぐらいなのだ。

 捨てられた子犬のような目が、タニアの後ろ姿を追いかける。


「どうしてこんな事に……」


 ガクリ、とうなだれるエイジだった。





 次の日。


「ピエトロ、ご苦労様。実は今日は研ぎ以外にピエトロに頼みたい仕事があるんだ」

「何ですか? 何でも言ってください!」

「うん、ありがとう。それじゃあ、早速だけどやり方を教えるから」


――僕の代わりに、石鹸を作って欲しい。



 その日以来、エイジが率先して石鹸を作ることはなかったという。

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