第10話 小話1
尊敬に足る人物というのは、意外と身近にいるものだ。
タニアにとっては、村長を務める祖母であり、女衆をまとめるジェーンであり、そして様々なものを生み出す夫だったりする。
その夫は、最近また一心不乱に何かを製作していた。
ふぅ、とタニアはため息をつく。
足元にはうり坊が鼻をこすりつけていた。
自宅の家畜部屋で飼っている一頭だ。
他には雌のイノシシが一頭いて、まだ小さなうり坊に乳を与えていた。
家畜部屋からはタニアの作業場が見える。
大量に束ねられた麦と、千歯扱きと、篩ふるいがある。
薄暗い部屋の中で、エイジが大きな木造機械を弄っていた。
今日で三日目だ。
タニアは出来上がるものに対して心配はしていない。
以前作られた千歯扱きは、仕事を大幅に改善してくれたからだ。
しかし、自分のために本職を疎かにすることを許す訳にはいかない。
「エイジさん」
「はい。何ですか?」
「最近ずっと家にいてますけど、お仕事の方は大丈夫なんですか?」
「フィリッポさんに薪を作っていただいているので、それ待ちですね。それに水車が完成したんで、前よりもはるかに早く作れるようになりました。砥ぎのために、下働きの子も入れてもらえましたし」
鍛冶をしなくても良いのかと聞いたら、大丈夫だと笑われた。
薪の消費量が非常に多いので、一度休みが必要になったのだ、と。
エイジの言う水車を初めて見た時、タニアは水車の立てる音の大きさに驚いた。
巨大な歯車の動きに合わせて、ゴウンゴウンと大きな音を立てるのだ。
水車はエイジが言うには数多くの仕掛けがあるらしい。
鍛冶場には紐が何本も空中に伝わり、その紐を引っ張ると、水車が動いたり止まったりする。
鞴、ハンマー、三台の研磨機が、二つの水車で動くようになっていて、これも紐で動かすのか、止めるのかを選べるようになっている。
タニアにはその仕組みは見ただけでは理解できなかった。
実践され、詳しく説明を受けても、やはりわからないだろう。
自分の夫は天才だと思う。
「それでエイジさん、何を作っているんですか?」
「
「とうみ?」
「千歯扱きで脱穀したら、石や
「
「結構大変ですよね?」
「手間ですよ。何度も繰り返す必要がありますから」
篩の目の細かさが違うもので何度も腕を振り、ゴミを落としていく。
同時に少しでも収穫漏れがないように二度、三度と篩にかける必要がある。
とはいえ、タニアは夫を持った身だから、農作業の手伝いをするならばこれらの仕事は免除される。
タニアがこの過酷な仕事を続けているのは、一つしか無い千歯扱きを持っていることと、その労力の軽減具合を知らない村民に上手く働きかけ、麦の分配を増やしてもらったためだ。
以前タニアは千歯扱きについて口を滑らせたことがあったが、他の人間はまさか作業効率が七,八倍にも跳ね上がるとは思ってもいないだろう。
快く了承してくれ、エイジとタニアは少しだけ豪勢な食事を摂ることができる。
「篩にかけるのと、その大きな機械は何の関係があるんですか?」
「この把手をクルクルと回しながら、麦を落としていくと、風の力でゴミを吹き飛ばして、重さの違う実を分けてくれる機械なんです。回転部分には鉄をちゃんと使ってるんですよ。鉄を使うことで力のロスを抑えて、しかも薄く済むので軽くすることも――」
タニアにはエイジの言うことも、鉄を使っていることのこだわりの意味もよく分からない。
だが、自分の仕事を楽にしようとしてくれているのは分かる。
タニアは、自分が理解できていないのに、少しでも分かりやすく説明しようと、困った表情をして説明を続けているエイジを好ましく思う。
ブタの世話を終えて、エイジの隣に立つ。
エイジは実演したほうが分かりやすいと、唐箕の上部に麦を入れていく。
左手で板を操作し、流れる麦の量を調節し、右手に把手を回す。
把手の先にはうちわのような形の薄い鉄板がついていて、それが回ることで風を送り込む。
パラパラと落ちる麦の粒が、少しだけ動かされて機械に近い麻袋に入る。
軽い実は少しだけ飛ばされ、機械に遠い麻袋へと吸い込まれていく。
そして籾殻もみがらや麦藁むぎわらといったゴミは、風で飛ばされていく。
ああ、やっぱりスゴイ……。
ようやく理解できた。
そして、どれだけ仕事が楽になるかも、予想できた。
タニアは自然と開いてしまう口を手でおおった。
これから、この機械にどれだけ助けられるんだろうか。
どれだけ、他のことに時間を使えるようになるんだろうか。
「うーん、やっぱり流す麦の量と、送る風の調節幅がシビアですね。タニアさん、しばらく慣れるまで大変かもしれません。でも慣れればきっと楽になるので、これ使ってもらえます?」
やっぱり困った表情で、こちらに頭を下げる、優しく丁寧な夫に、タニアは幸福を覚える。
――いつまで続くのだろうか。
どれだけ生きることが出来て、どれだけこの人の側にいられるのだろうか。
叶うならば少しでも長く、自分がもらった以上の幸福を感じてほしい。
嬉しい気持ち、楽しい気持ち、そして、人を好きになるという気持ちをより多く感じてほしい。
タニアは笑った。
心から笑顔を見せること。
嬉しい時には隠さず、精一杯喜ぶこと。
エイジのような技術もなく、知識や知恵もないなら、せめて気持ちよく過ごしてもらえるように努力しよう。
少しでも美味しく料理を作り、疲れて帰ってきた夫に、心安らいでもらえるように努力しよう。
そして、この幸せを継ぐ、子供がほしい……。
タニアは、そう思い、決めた。
笑顔は決して、作っているわけではない。
ただ、自分の心に従えば勝手に溢れ出てくるのだ。
優しい、尊敬できる夫に巡り会えたことを、タニアは神に感謝した。
ゴウン、ゴウン、という低い音が連続的に響きわたっている。
水車が歯車を回す音だった。
普段は炉の炎で温かい鍛冶場も、その火が消えた今は涼しい。
普段鞴とハンマーに使われる水車が回るのは、研磨機のためだ。
大きな円形の砥石がクルクルと回っている。
砥石で慎重に鍬くわ先を当て刃を研いでいるのは、12、3歳の男の子だった。
まだ成長途中とはいえ、線の細い体格だ。
名をピエトロといった。
ピエトロは無心になって砥ぐ作業を続ける。
砥石が動いてくれるので、角度を決めてブレないように当て続けるだけでいい。
今当てている砥石は中砥石で、鍬先の形は定まっている。
砥石から鍬を外し、刃を見る。
刃先は薄く鋭くなって、キラキラと輝いている。
厚さが均一になったのを確かめると、鍬を横に置く。
ピエトロはこの一ヶ月世話になっている人物を探した。
この鍛冶場の主、エイジだ。
「親方、出来ました」
「ご苦労様。角度は分かるようになってきた?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、次は荒砥石から任せるから」
「ええ! 刃先の削りだしから俺がやっていいんですか?」
「出来ない?」
「……いえ」
「難しく考えすぎなくていいよ」
ピエトロにとって、エイジは頼れる大人だった。
いつも上機嫌で、ピエトロを信頼し、次々と色々な技を教えてくれる。
鉄鉱石を採ってきたり、薪を貰いに行ったりと走り回ることは多いが、これは下働きだから当然のことだ。
砥石の使い方、磨き方、削り出し方は大切な技術だ。
すぐに教えてもらえるとは思っていなかった。
教えるだけでなく次々と仕事を与えてくれる。
言葉の裏に感じられるのは信頼だった。
この人の下で頑張ろう、と思える。
「ピエトロにはどんどん覚えてもらって、僕がいなくてもこの鍛冶場が回るように一日も早くなってほしい」
「気が早くないですか……」
「そうかな。惜しみなく技術を教えていけば、五年もあればそれなりの作り手にはなれると思うけど」
「親方の腕前にまでは?」
「……一〇年、いや一五年かな。単純な作業だけに、経験がものを言うしね」
五年後、ピエトロはまだ一七,八歳だ。
大きな怪我や病気をしなければ、多量の物が作れるだろう。
「そして僕は別のものを作る仕事に回りたいんだ。……この村は、あんまり便利な道具がないからね」
「そうですか?」
ピエトロにはエイジの気持ちがわからなかった。
それはそれ以上の快適な環境を知らないためかもしれない。
どれほど大変でも、それが当たり前ならば、文句をいうよりも受け入れるしか無いからだ。
エイジは言う。
「移動するには歩くか馬に乗るかしかない、と思うだろう。でも、自転車という道具がある。それがあれば馬よりも遅いけど、人が走るような速度で動くことが出来るんだ」
「そんな物が有るんですか」
「ああ。イメージだと……そうだな、手押し車はピエトロも見ただろう。あんな車輪が前後についていて、台には自分が乗る。で足の力でペダル、という把手を回すと、歯車が咬み合って、水車の力で砥石が動くように、車輪が動くんだ」
「はぁ……」
なんとかイメージは出来た。
しかし、それがなぜ早いのかは分からない。
エイジもそれ以上説明する気はないのだろう、木版に木炭で図を書いている。
次の製作物について考えているのだろう、その顔はとても真剣だった。
「次は何を作るんですか?」
「うん。これは我が家にとって、とても大切な物だ」
「はい」
「名をブラジャーという」
「ぶらじゃあ……」
「うん。ピエトロは出来上がった物の砥ぎをどんどん頼むよ。鎌に鍬に鉈に包丁と、砥ぐものはいくらでもあるからね。仕事は区切りの良い所で終わってくれて構わないから。水車を止めるのだけ忘れないでね」
「は、はい。エイジさんは?」
「僕はこれからこのブラジャーを完成させる。まずは計測からだ」
エイジは真剣な表情のまま、鍛冶場を出て行く。
きっとまた、スゴイものを作るのだろう。
エイジが何かを作ると、いつも村人全員が驚き、喜ぶ。
フェルナンドは
マイクはトラバサミという獲物をとる罠を仕掛けている。
それらは全て鉄を使った道具ばかりだ。
きっと、ぶらじゃあも鉄を使った、便利な道具に違いない。
尊敬する発明家に向けて、ピエトロは黙って頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます