第8話 水車
朝、エイジが目を覚ますと、ふくよかな乳が目に入った。
そうだ、昨夜は……と思い出しそうになる思考を止める。
タニアがまだ眠っていることを良いことに、髪を撫でて感触を楽しむ。
最近暇があれば櫛を入れているのを見た。
さらさらと柔らかい手触りだ。
ひとしきり楽しんでいると、動き出す気配を感じる。
目が合う。
大きな瞳がまだ眠たそうに、いたずらを咎めていた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
気まずい空気が流れ、ゆっくりと手を戻す。
目を合わせずに立ち上がり服を着る。
何も言わず水を飲んでいると、服を着たタニアが前に立った。
耳まで赤く紅潮させながら、もじもじと指先をもてあそばしている。
上目づかいの表情が可愛らしかった。
「タニアさん?」
「エイジさんって、結構エッチなんですね。私あんな目に会うなんて思ってもいませんでした」
初めての女性にさんざん手を出した翌日だ。
一切反論できず、言い逃れの余地はない。
「あ、朝の野菜採ってきます!」
「あっ、もう!」
上手く謝る方法も思いつかず、エイジは結局、脱兎のごとく逃げ出した。
○
裏の畑に水をやりながら、ケールを収穫する。
影干ししたキノコも今日は使おう。
まだ交換ができておらず、青銅のままの鍬を使って畑を少しずつ拡げていく。
三ヶ月欠かさず続ければ、いかに硬い地盤といえど、それなりに耕せるものだ。
森から落ち葉を集めて堆肥も作った。
露出した鉄鉱石を村に運ぶ途中にあった森を、通れる程度に路を広げる必要があったから、その時同時に落ち葉を拾い集めたのだ。
「おう、アンタか」
「マイクさん、おはようございます」
「今日はケールか。うちは里芋だ」
毎日の日課で畑の作物を交換する。
「お前さん、毎日変わったことしてるなあ。馬鹿丁寧に石をよけるし、草は抜くし。そんな黒い土を混ぜて何の意味があるんだ?」
「土を肥やしてるんです」
「……相変わらず意味が分からねえ」
「野菜がよく育つ土にしてるんですよ」
「本当かよ。あれか、土の神様に捧げ物をしてる訳か」
「あー、まあ、そんな所です」
「で、神様が喜んでお返しをしてくださると。確かにお前のところの野菜、最近良く育ってるよな。で、どうやるんだって?」
普段あまりエイジに関わろうとしないマイクが、珍しく興味を示した。
少しだけ残っていた堆肥を、じっと見つめる。
堆肥はよく乾燥していて、パラパラとした質感がする。
軽く、黒い色合いだ。
植物が望む様々な微量栄養素を含んでいる。
「基本は落ち葉で作りますが、麦わらが余ったらそちらも入れてください。魚の骨や牛や豚の骨があれば、砕いて混ぜます。麻袋に入れて、水をかけて風通しの良い日陰に干します」
「ふんふん」
「途中で上下を入れ替えたり、中身を撹拌させたりすると、細かくなって、乾燥していきます。湿気がなくなり、黒土のように見えたら完成です」
説明を聞いたマイクは感心したように深く頷いた。
どういう原理が働いているのか知らなくても、やり方をそのまま真似することは出来る。
そしてそれが土壌の改善につながり、暮らしを豊かにしていく。
むしろ生半可な知識が邪魔しない分、効率が高くなる利点まである。
「お前さん難しいことばっかり言って、俺にはよく理解できんやつだが、頭は良いんだろうな。良いことを教えてくれたお返しに、今度イノシシかシカを狩ったら、一番に肉を分けてやろう」
「ありがとうございます。良かったら他の人にも教えてあげてください。僕が言うよりも、皆さんに信頼されているマイクさんの方がよく動いてくれるでしょうし」
「お、そうか。まあ俺は人気者だからな。任せとけって」
機嫌よく承諾したマイクに、見本の堆肥を渡す。
失敗すれば異臭騒ぎになるだろうが、おそらくは大丈夫だろう。
エイジとタニアの暮らしを楽にするには、村の暮らし自体を改善する必要がある。
道具は自分で作れるが、食料生産は指導するしかない。
人の手が二つしかないことが恨めしい。
どんなに頑張っても、目につく全てを改善するには圧倒的に時間が足りないのだ。
○
火の入っていない鍛冶場は静かなものだ。
鎚の音も、箱
エイジは細く削り、尖らせた炭を使い木版に図を書き込んでいた。
もとより手先が器用なのだろう。
緻密に描かれた図は分かりやすい。
正面図と側面図、そして平面図、三点からの図が描かれることで、どのような形になっているかを表している。
――それは水車だった。
水車の歴史は古く、紀元前一世紀には存在したと言われている。
最初の形は横型で、石臼を動かすのに使われたらしい。
鍛冶との関係も強く、昔ながらの製鉄法が廃り、高炉による大量生産に取って代わったのは、水車動力を利用した送風技術の向上のおかげだ。
といってもエイジ一人が鉄を打っている今、製鉄にそこまでの生産力は必要がない。
今後弟子が増えた時には世話になることだろう。
むしろエイジは、水車の力を動力ハンマーと自動研磨機に使おうと考えていた。
鍛冶に相槌はなくてはならないものだ。
細かな調節を行い、形を決め、弱い所を叩き補強する先手小鎚に対し、力強く鉄を伸ばし、種類の違う鉄を溶かしくっ付けるのは、相鎚、大鎚の仕事だ。
エイジ一人では小さな物で精一杯だが、動力ハンマーがあれば、鉈のような長物も扱えるようになる。
自動研磨機も同じ考えによるものだ。
刃物は打てば終わりではない。
それと同じぐらい研ぐことも大切だ。
砥石にも種類があり、荒砥石、中砥石、仕上げ砥石がある。
日本刀であれば、荒砥・備水・改正・名倉・細名倉・内曇砥と研いでいき、更に観賞用として艶、という作業を行なって完成する。
特に最初の荒砥石の段階では、打ち加減によって非常に重労働になる。
本来ならば分業にしても良いくらいの工程だった。
エイジの体はこの僅かな月日でも大きな影響を受けていた。
毎日の高温下での作業により、体重が落ち、頬が痩(こ)けた。
右腕は力仕事により太くなったが、首から手にかけて鈍い痛みが続いている。
特に手首が痛かった。
完全な腱鞘炎だ。
両の肘から先は飛び散る火花によって、火傷が絶えない。
少しでも負担を少なくし、良い物を作るためにも、絶対に必要なのが水車だった。
○
「で、それを作れと言うわけだ。その水車がどれだけ役立つか分からないけど、よくもまあ、次から次へと発想が出てくるね。よっぽど腕の良い技師だったんだろうねえ」
「そうでしょうか」
フェルナンドの呆れたような声に、エイジはただ返事を返すことしか出来なかった。
「エイジくんは記憶が無いと聞いたけど、案外海向こうの生まれなのかもな。アッチじゃなんでも進んでるっていうしな。この村の家の建て方だって、海向こうから伝わってきたんだよ。それまでは穴掘ってた」
「…………」
「悪い悪い。まあふっと思い出すさ。こうやって色々な物を思い出せているのが、何よりの証拠だよ。それに悪いけど、僕だって海なんて話だけで見たことがないんだ」
「そうなんですか?」
「ここは山手だろう? 村の外に出たっていっても、たかが知れてるしね。そんな遠くにはいけないよ」
「仕事もありますしね」
「そーいうこと。で、これの対価は?」
「台車、あれから村でも流行ってるらしいですね。女子供でも重いものが運べるって随分評判だそうです。設計料いくら頂けますか?」
目を合わせる。
お互いの顔からは笑みがこぼれる。
フェルナンドは動かなかった。
自分の優位を確信しているのだろう。
エイジの製作期限が近いのを把握しているのだ。
結局折れたのはエイジの方だった。
「釘でどうでしょうか」
「おお、いいね。釘はいくら有っても困らないからなあ。二〇〇と、今回の水車に必要な分を頼むよ」
「水車の分は早めに渡します。二〇〇は出来上がって、こちらが必要な物を先に作ってからにしてください」
「まあ、流石に釘が三ヶ月待たせた成果だって言われても、あの村長が納得するとも思えないしね。良いよ、それで手を打ちましょう」
ノコギリを渡すのは当分先にしよう、と誓うエイジだった。
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