Seven's secrecy

藤原くう

第1話

「すぐ戻ってくるから!」

 玄関から声がやってきたのち、扉が慌ただしく閉まった。

 白を基調とした部屋に残されたユウは、所在なさげにもじもじとする。部屋をきょろきょろとして、でも、女の子の部屋を見回すというのはどうだろう、と思い直して、俯く。

 ユウは大学生になるまで、彼女というものに縁がなかった。それどころか、女性というものにあまり縁がなかった――ユウは男子校出身なのだ。

 先ほど部屋を出て行った虹野ななとは、一週間前に付き合い始めたばかり。

 そのななが、手料理を振舞うというので彼女の家にやってきたのだが、準備に不備があったようである。料理を始めてすぐ、ななはあたふたしはじめ、部屋を飛び出していったのがさっきのことだ。

 はじめて女性の部屋に上がったものだから、居心地の悪さをユウは感じていた。ななとはそれなりの付き合いがあるとはいえ、いやだからこそ、一緒についていくべきだったのではないか。

 一抹の後悔を抱きながら、ユウは石像のようにじっとしていた。……じっとしていることにも次第に疲れてくる。それに何より、彼女のことを知りたいという気持ちが、むくむくと頭をもたげてきた。

 ユウはななをよく知らない。ユウだけではなく、ゼミ仲間もサークルの一員も、ななという女子大生のことを知らないのだ。いい人だ、という曖昧な印象しかなかった。気が利くし、誰にでも優しい。無遅刻無欠席で、髪は今時珍しく、何ものにも染められていなかった。優等生、という単語がぴったりと当てはまる女性だった。

「夢みたいだ……」

 ぽつりと呟く。告白したときだって、付き合えるとは思っていなかった。好きという気持ちはあったが、同時に好かれてもいないだろうな、という気持ちもあった。ダメでもともと――そんな覚悟を抱いていたものの、実際はそうではなかった。

 騙されているのではないか。

 そのようなことを考えるべきではないのは、ユウだって理解していた。それでも、考えてしまうのだ。

 疑念から目をそらすように、ユウはテーブルに並べられたリモコンの一つを手に取り、テレビへ向ける。

 液晶テレビに光が点る。バラエティ番組のくだらないギャグが、空虚に響いた。

 スマホを取り出せば、ななが買い物に行ってから十分も経っていない。ユウの口からため息が漏れた。

 麻雀でもしようかとアプリを開けば、臨時メンテ。バラエティ番組を見たいわけではないし、擦り切れるほど放映された映画を見たいわけでもない。

 ユウの注意がななの部屋へと向くのは、ある意味自然と言えた。

 部屋の中央にはテーブルがあり、その正面にはテレビがある。テレビに背を向けるようにして小さなパソコンデスクと椅子が置かれており、パソコンモニターにはネズミのぬいぐるみがあった。壁には、五人組アイドルグループのポスターが貼られている。ピンで留められていないのは、ここが賃貸だから。壁紙は真っ白で、シミ一つホコリ一つない。

 壁から、入り口の扉の方へと目線を向ければ、扉の隣にはしごがある。はしごの先はロフトになっていたが、星があしらわれたカーテンによって仕切られており、その先を見ることはかなわない。

 他にもクローゼットなどがあったが、ぱっと見ではそんな感じだ。詳しいことを知りたければ、何かしらの行動を起こすしかない。彼女のことを知りたいなら、何かしらに手を伸ばさなければ。

 同時に、そんなことをしてはいけないという気持ちもユウの中にはあった。なながいる時ならともかく、今ここにななはいないのだから。

 不意に、眩暈がした。目をつぶる。瞼の内側で、光がついたり消えたりチカチカする。意識が、波打つように遠のいたり近づいたり。

 明滅する光が、次第に像を結んでいく。

 映像には、ユウがいた。今のユウと同じように部屋の中でななの帰りを待っていた。ほどなくして、ガチャリと玄関の扉が開き、ただいま、というななの声。ななが帰ってきたのだ。ほどなくして料理が再開された。少しすると、カレーのいい香りが――。

 映像はそこまでだった。像がピンボケして霧散すると、ユウはハッと我に返る。

「い、今のは?」

 周囲を見渡す。そこがななの部屋であることは変わりなかったが、カレーの香りは全くしない。先ほどのは幻覚か、白昼夢だったのだろうか。

 このまま待っていたら、先ほど見た映像のように展開していくのではないか。

 そのような直感が、ユウのうちに湧き上がる。理由はなかったが、そんな気がした。

「これでいいのかな」

 なんとなく呟いた言葉を、ユウは自ら否定する。このままではいけない。このまま、終わってはいけないという焦燥感が、理由もなく湧き上がってきた。

 ななのことが知りたい。彼女のことを愛しているから――それだけでは説明できない感情がユウを突き動かした。

 立ち上がったユウは、改めて、部屋を見回した。

 視線がぶつかったのは、パソコンデスクの上のぬいぐるみであった。ぬいぐるみの曇りのない瞳が、ユウを見つめる。ぬいぐるみが凝視するなど、心霊現象でもない限りありえない。だが、感じるのだ。警戒するような視線に、ユウもまた警戒する。

 背中に汗が滲んだ。

 目線をそらしたら負けるような気がして、ぬいぐるみを見つめ続ける。そうやって、無機物とにらめっこしていたが、すぐに馬鹿らしくなった。

「そんなわけないよね」

 ユウはぬいぐるみから目をそらし、リモコンへ手を伸ばす。

 そこで、またしても眩暈が起きた。

 ――速報です。

 瞼の奥に映し出された映像の中で、アナウンサーが声を上げる。目を見開いた彼女は「か、怪獣が現れました」と言った。はじめは冗談かと思ったが、今日は四月一日ではない。それに、原稿をリアルタイムで渡されたアナウンサーの声は緊張に震えている。

 今まさに、映像がテレビに映し出される。そこには、怪獣と言われて思い浮かぶままの異形の姿があった。怪獣は口から火を噴き、街を蹂躙していく……。

 建物を車を、そして人を踏みつぶさんとする、怪獣の前に、突如として光が花開く。

 刹那、怪獣の前にネズミ耳をした女の子が現れる。

 その顔には見覚えがあった。というか見覚えしかない。それもそのはず、女の子はななその人なのだから――。

「魔法少女っ!?」

 気になるところで、映像は終わってしまった。あの後、どうなってしまうのか気になってしょうがなかったが、そっちに行ってはいけないような気がした。ユウは残念そうにリモコンを置いた。

 眩暈の気持ち悪さが抜けたところで、他のものを見てみる。といっても、他に見てよさそうなものはない。クローゼットを勝手に開けるのは、もはや下着泥棒と変わらない。そう思いながらも、心の奥底では開けたいという欲求が渦巻いていた。

「……冷静になろう」

 女性の部屋にいるから、変なことを考えてしまうのかもしれない。そう考えたユウは、暖房の効いた部屋を出て、廊下へ。廊下は初冬の寒さに包まれている。ほうと息をつけば、白い息となる。

「心頭滅却心頭滅却……」

 肩をさすりながら、冷静になろうと努める。

 廊下の先には玄関がある。その中間にはキッチンがあるのだが、そちらの方はあまり見ない。ななには、料理ができるまで来ないでと言われていた。キッチンに意識を向けないように、廊下を右へと折れると、バスルームがある。その前には洗面所もあった。鏡の前に立つと、そこには冴えない男が立っている。ユウであった。よくもまあ、付き合ってくれたものだ。ユウはため息をつく。

 顔を上げると、バスケットに目が行った。バスルームのすりガラスの前に置かれたその中には、エプロンが入っていた。

「さっき汚したのかな」

 ドジなところもあるのかなと、ユウは微笑ましい気持ちになった。ピンク色のエプロンには、そのかわいさを汚すように、茶色いしみが派手に飛び散っていた。それを見ていると、妙に胸騒ぎがする。茶色いしみとエプロン。それが意味するところは醤油をこぼしてしまった、そんなところだろう。そうに決まっている。

 バスルームの向こうから、鉄くさい臭いがした。エプロンからするのか、バスルーム自体からするのか。

 体がブルリと震えた。決して寒さからではない。

 ゆっくりと、バスルームへと近づいて、扉に手をかけた。

 ――絶叫がこだました。

 眩暈がする。三度目の映像が始まったから、というのもあるが、それだけではない。映像の中のユウもまた眩暈を感じていた。感じないわけがない。バスルームの中は真っ赤で、自分は椅子に縛り付けられている。それに何より、エプロン姿のななが縛り付けられた自分のことを見ている。

 ななが口角を上げる。そのしぐさに、ユウは恐怖していた。

「ごめんね。ユウくんのことは好きなんだけど、これを知られちゃったからにはさ」

 ――わかるでしょ?

 ユウは首を振る。ななは悲しそうな顔をする。しかし、彼女はその手に包丁を握りしめ、ユウの腕に這わせた。

 皮がそがれる痛みを感じる前に、映像はぷつんと途切れた。

 動きを止めたユウの胃が、気持ち悪さを訴えた。ユウは洗面台へ駆け寄る。たどり着いた瞬間、すっぱい液体が喉を通り、口からあふれ出る。夕食前というのが幸いしたのか、酸性の液体しか出て行かなかった。

 ひとしきり吐いたユウは、蛇口をひねり吐しゃ物を流す。水を出したまま、ユウは荒い呼吸をする。

 今のは何だったのか。

 自分は何をされそうになったのか。

 ユウは首をブンブンと振った。考えたくもなかった。考えるだけで、吐き気がぶり返してきそうだった。

 口元を拭ったユウは、水を止めて大きく深呼吸する。

「さっきのは何かの間違いだよ……」

 うん、そうに違いない。ユウは自らにそう言い聞かせて、部屋へと戻ることにした。

 扉を開けると、暖かく、しかし乾燥した空気がユウを包み込む。自然と吐息が漏れた。テーブルの前へ腰を下ろすと、ようやくひと心地つけた気がした。

 しばらくの間、ユウは正座をしていた。先ほどの映像は、恐怖を伴っていた分、非常に鮮明であった。あれが、幻覚だとは思えなかった。しかし、ここにいるユウは傷ついていない。ななに生きたまま皮を剥がされるという経験をした覚えもない。

 眩暈とともにやってくる、あの映像は一体何なのか。

 考えてはみるものの、真実らしい真実は思い浮かばない。創作物であれば、ユウが辿った未来ということになるのだろうか。

「……未来なんてそんな」

 そんなのあり得るわけがない。バッサリ切り捨てたユウは、しばらくぼんやりとしていた。

 ふと、喉の違和感に気が付いた。嘔吐したためか、喉がひりついた。我慢できないほどではなかったが、不快ではあった。

 水が飲みたい。そのためには、キッチンへと行かなければならない。キッチンは、部屋と玄関の間の短い廊下に設置されている。流しも冷蔵庫も、そっちの方に置かれている。

 ただ、流しに行けば、何をつくっているのか見てしまうことになる。それはためらわれた。さりとて、喉はヒリヒリ。一度、気になってしまうと忘れることができなかった。

 立ち上がったユウは、再び廊下へ出た。キッチンへ行こうか行くまいか、扉を開ける間も悩む。

 寒い廊下で悩んでいると、何度目かの眩暈がユウを襲った。先ほど見たような凄惨な映像が再生されるのではないか――ユウは体をこわばらせる。

 しかし、ユウが想定したようなグロテスクな映像ではなかった。ただし、空腹感を覚え始めていたユウにとっては、ある意味でグロテスクもいえなくもない。

 キッチンでつくられようとしていたのは、宝石のような輝きをたたえた絢爛な料理たちだ。先ほど見た時とは違い、おいしそうな香りが鼻腔をくすぐる。お腹の虫が空腹を訴える。

 キッチンの前には、フライパンを前後に動かすななが立っていた。ななは、真っ白なエプロンを身にまとい、二つのIHヒーターの前を行ったり来たり。ななが手首を返せば、ルビーのようなエビが宙を舞った。

 汗を滴らせながらフライパンを動かす彼女を見ていると、胸の中が沸き上がるのを感じる。ななに対する愛情だけではない。静かだが強い闘争心。負けられないと思うユウは、懐からエプロンを取り出して。

 しかし、現実には料理はなかった。たった今見ていたのは、ただの映像。ただの幻覚だった。今回の映像に関しては、見てしまった理由が何となくユウにも理解できた。お腹が空いていたからだが、ななに対してある種の敵対心を抱いていたのはどういうことなのか。それにユウは料理が苦手だ。ユウは、寮生活が長かったし、大学生になり一人暮らしをしているとはいえ、日々の食事は外食ばかりだった。料理なんてしたことがない。映像のユウは、料理マンガの登場人物のような闘志を燃え上がらせていた。あれは一体。

 空腹だけが原因とは思えなかった。

 やはり、これまで見てきた映像は――。

 ユウは息を飲んだ。信じたくはなかったが、そんな気がしてならなかった。

 不意に、同じような映像があと二つ見られるような気がした。どこだろうと考えて、まだ見ていない場所があることに気がついた。

 部屋へと戻ったユウは、梯子の先を見る。カーテンによって仕切られたロフトには、何かがある。部屋には寝具がないのだから、寝室に違いない。となれば、星柄カーテンの向こう側は、きわめてプライベートな場所ということになる。彼氏だからといって、無断で入ってはいけないだろう。

 ユウはカーテンへ手をかける。ダメだと理解していても、その奥に何があるのかを確認したかった。カーテンを払おうとして、一瞬、手が止まった。バスルームの扉に手をかけたときのことが思い起こされた。この先にも血の海が広がっていたらどうしよう。

 ゆるゆると首を振って否定したユウは、思い切ってカーテンを開けた。

 そこには、血も刃物もなかった。マットレスが置かれており、その近くには目覚まし時計やぬいぐるみといったものがあるありふれた寝室だ。

 なんでもない寝室だったが、妙に枕が気になった。シンプルな枕自体には、何の異常もない。膨らんでいるように見えるのは、その下に何かがあるから。

「し、失礼します」

 ユウは誰もいないのに断りを入れて、マットレスの上に手をつく。バラの香りともつかないかぐわしい香りを振り払い、枕の下に手を突っ込んだ。

 指が硬いものに触れた。ちらりと見えたそれは黒くて、L字の形をした、いうなればそれは。

 映像とともに、パンと弾けた。

 胸に受けた衝撃は体をのけぞらせるほど強く、それなのに痛みは不思議なほどない。それどころか、背中から倒れたというのに、痛みはない。

 誰かが近づいてくる。その影は、髪型は見たことがある。その目は悲しみに暮れていた。

「ごめんね。――でも、これがわたしの仕事なの」

 手が持ち上がる。革手袋に握られていたものを、見上げるユウの眉間へと向ける。

 瞬間、映像は終わった。

 デコピンを受けたように、ユウは身をのけぞらせる。その拍子に、天井に頭をぶつけた。うずくまって、痛みに悶える。

 頭がガンガンと痛んだ。それは、ぶつけただけではないような気がした。ほかに理由は思いつかなかったが、映像に関係しているような気がした。

 ユウは、そろそろと枕の下から手を抜いた。そこにあるものを知る必要はないし、勝手に見ることでななが傷ついてしまうのは嫌だった。

 枕から目線を横へとスライドさせると、小さな窓の前に、いくつか写真立てが並べられているのが見えた。家族の写真だろうか。幼い頃のななと、ななに似た相貌の男女が傍らには立っている。

 写真立ての一つが伏せられていた。どうして、伏せられているのだろう。

 気になったユウは、写真立てに触れる。

 眩暈が畳みかけるようにやってくる。

 そこはやはり、ななの部屋の中。先ほどと違い、ユウは椅子に縛り付けられていた。目の前には、普段通りの――血まみれのエプロンだったりスーツを身にまとったりしてないという意味で――ななが立っていた。服装はいつも通りであっても、その目の輝きは、いつもと違った。

 愛情には満ち溢れている。ありすぎるくらいの愛がユウを包み込み、縛り付ける。身もだえしても、きつく結ばれた縄が解けることはない。

「どうして縛り付けられているのか分からないって顔してるね。ユウくんのことが好きだからだよ。好きだから、誰にも奪われたくないの」

 誰も、奪おうなんてしてない。

 ユウは、本心からそう言ったつもりであったが、ななは首を振った。

「ユウくんは知らないかもしれないけれど、結構モテてるんだよ?」

 ――ユウくんはわたしのものなのに。

 ななが嗤う。歪なその笑みを、ユウははじめて見た。

 怖い。

 血まみれのエプロンを着たななが思い起こされるが、また違う怖さが今のななにはあった。

「怖いだなんてひどい」よよよ、とななが泣きまねをする。「わたしはこんなに愛してるのに」

「愛しているなら、縄を」

「それは無理」

 すっと、声が平板さを取り戻す。調子の変化に、ユウは戸惑う。そのような感情のない声を発するような人ではなかったのに。

 目前までやってきたななは膝をつき、ユウと目線を合わせる。その瞳は黒が塗りたくられたような、おおよそ生気を感じられないものであった。ユウは目をそらすと、そんなユウの両頬に手が添えられる。死人のように芯まで冷えた手が、ユウの顔を力づくでななの方へと向けさせる。

「どうして目をそらすの」

 ユウは答えられなかった。怖かったと言い出せるような雰囲気ではなかったし、口が震えて言葉にならないというのもあった。それだけの迫力が今のななにはあったのだ。

 ふうん。なながぞっとするような声音で口にした。

「思い知らせてあげる……」

 言いながら、なながユウの太ももへ跨る。その蠱惑的な唇がユウの唇へと重ねられたところで、映像は終わった。

 ユウは呆然とする。そっと唇をなぞると、冷気が残っているような気がした。

 キスされた。

 映像であっても、キスはキスに違いなく、女性と付き合ったことのないユウにとってはあまりにも刺激的であった。

 しばらく動けずにいたユウであったが、ぶるぶると首を振った。

 ――女性の寝室にいるから、よこしまな妄想をしてしまうんだ。

 そう考えたユウは、いそいそとマットレスから離れ、はしごを下りた。

 テーブルへと戻ったユウは、スマホを開く。ななが家を飛び出してから、まだ三十分も経過していない。一時間くらい経ったと思っていたユウは、驚いた。

 それにしても、遅い。

 ななはいつになったら帰ってくるのだろう。

 いつもなら、もうそろそろフラグが立っていてもおかしくはないのに――。

「あれ?」

 ユウは、自分の思考に違和感を覚えた。フラグとかなんとか。まるで、ゲームでもやっているかのような発言ではないか。

 そう思った直後、スマホにノイズが走る。同時に、今までのものとは比べ物にならないほどの眩暈が、押し寄せてきた。

 くらり。前へ体が倒れていく。

 テーブルへとぶつかる直前、ユウは痛みを覚悟する。

 しかし、痛みはいつまで待ってもやってこない。ぎゅっと閉じていた瞼をそろそろと開ける。

 視界に広がるのは部屋――ではなかった。

「え」

 目の前に広がるのは、広大な空間だ。ワンルームなどでは決してない。時折ノイズの走るその空間には、文字化けした文章が浮かんでは消えていく。

 文章に目を凝らせば、それが英数字からなっていた。内容まではわからない。文字化けは広範囲に広がっており、文章のほとんどを埋め尽くしていたからだ。読み解けたのはいくつかの英単語くらいのものであった。

 しかし、文章の内容はどうでもよかった。文章が宙に浮いている――それも点滅するように出現と消失を繰り返すというのは、異常な光景であった。目の前に、液晶があるわけではなく、頭を触ってもVRゴーグルの類はつけていない。

 では、眼前の異様な空間は、現実なのか。……そんなわけない。先ほどまでいたななの部屋こそが、現実だ。

「そうだよ。そうに違いない……」

 ユウは、目の前の文章を突っ切るように、歩みを進める。ユウと接触した文章は、四角い泡のように変化し、消えていく。

 空間には、文字化けした文章とノイズとごくまれに表れる0と1という数字しかない。人の形をした存在はユウ以外には見当たらない。

 ただただ空間が広がっている。

 どれだけ歩いただろうか。

 歩けど歩けど先は見えない。歩いているはずなのに、疲れも感じなかった。スマホは圏外で、時計でどのくらい歩いていたか計測しようにも、その時々に応じて、時間は戻ったり進んだりした。物理原則に反するような挙動に、ユウはますます困惑する。

 視界の先に、違うものが見えてきたのは、眩暈が生じてから長い時間が経過した後のこと。

 それは黒い四角だった。空間に浮かぶそれは、立体というよりはカーテンのような紙のような平面のもののように見える。

「あれは、窓?」

 ユウにとっては、窓のように感じられた。窓だとしたら、あのノイズ交じりの先には、何が広がっているというのだろう?

 好奇心と恐怖心の板挟みになりながら、ユウはそれに手を触れる。

 手から体へとノイズが走るのを感じる。頭の中を数列が駆け巡り、どういうわけか、それがプログラムであると直感した。

 闇が払われると、その先に見えたのは、どこかの部屋であった。やはり窓だったのか。窓だとしたら、目の前に映し出された部屋は誰の部屋なのか。パソコンとサーバーで埋め尽くされたその部屋。それをユウは天井のあたりから眺めている。この視点だって、奇妙な感じがした。まるで、監視カメラから見ているようだ。

 パソコンの前には、白衣の女性が座っていた。キーボードを打鍵する彼女は、時折、マグカップに口をつけながら、何かを打ち込み続けている。

 不意に、部屋の扉が開いた。部屋へと飛び込んできたのは、女性と同じように白衣を身にまとった男性である。

「問題が発生しました」

「問題ならいつも発生しているじゃない」

 その声に、ユウは聞き覚えがあった。だが、記憶の中のそれとは、ずっとハスキーだ。

「それに、わざわざ走ってくるなんて殊勝な心掛けね。問題が発生したならメールで――」

「AIが暴走しました」

「暴走?」

 女性が声音をさらに低くさせる。男性が頷いた。

「ええ。プログラムで設定された区域を飛び出して、今は行方が知れません」

「AIっていうのは、ゲームの中で疑似体験させている?」

「それです。どうやら、ゲームのバグの影響で、ゲームが強制終了。その結果、サーバーへと戻るはずのAIの意識は、ネットワークに残留してしまったようです」

 なるほど、と考え込む女性。そのしぐさにもやはり見覚えがある。

「でも、別にいいじゃない?」

「へ。い、いいんですか?」

「ええ。放置しましょう。何かするかもしれないけれど、もともとAIの反応を記録するためのゲームだったのでしょう? それが現実世界に影響を及ぼすかもしれないってだけのことじゃない」

 それじゃあ、と女性はキーボードへと向き直る。それで会話は打ち切るつもりらしい。男性は不服そうな顔をしながらも、部屋を出て行った。

 冷房がよく効かされた部屋に、静寂が戻る。

 しばらくの間、女性はタイピングを続けていたが、大きく伸びをする。作業がひと段落したようである。

 立ち上がった女性がカメラの方を向いた。

 その顔は、大人びてはいたものの、ユウの知るななその人であった。

「まさか、ゲームを飛び出しちゃうなんてね。ゲームの登場人物のもとになったわたしに会いに来たりして。なんてね」

 大きなあくびをしながら、女性が部屋を出て行く。

 ユウは見ていることしかできなかった。先ほどの会話の意味を考えると、動くことができなかった。

 自分は人間ではない。

 愕然とし、膝をつく。

 その時に見えた、腕は0と1からなっていた。腕だけではない。手も足も太ももも胸も何もかも。

 ――嘘だ。うそだうそだうそだうsoda0101010101010011。

 祈るような声を漏らし、バイナリーの集合体はネットの海を彷徨う。その声に耳を傾ける者はいない……。

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Seven's secrecy 藤原くう @erevestakiba

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