第40話
見ているだけで心が安らぎそうな優しい表情のその人が、何処か心配そうに己を見ているという現実に、男のささくれていた心がゆっくりと凪いでいく。
「お……、おお……、私などの為に、なんと慈悲深い……!」
安心感と感動でか、目尻にうっすらと涙を浮かばせながら、男は感嘆の声を上げた。
己のような後ろ暗い事だらけの薄汚れた貴族にさえも、心配してわざわざこんな場所にまで足を運んでくれるなど、なんと素晴らしい人物だろうか。
男は今の今までラインバッハ侯爵には何の感情も抱いていなかった。
だが、ボロボロに傷付いた心を癒すように、己などの為に優しい言葉を掛けてくれた侯爵に、崇拝にも似た感情を抱いた。
そんな侯爵が不意に、言葉を濁しながらも、何処か不安そうに口を開く。
「しかし、驚きましたね、まさかヴェルシュタイン公爵様が賢人となっていたなんて」
「はい、寝耳に水とはこの事です」
大きく頷く事で同意してみせれば、何故か侯爵の表情は更に不安げに歪んだ。
「……ですが、あれは果たして真実なんでしょうか……」
「どういう事でしょう」
呟くように告げられた侯爵の言葉。
意味が理解出来ずに真意を問うように尋ねると、侯爵はその優しい面差しに苦笑を浮かべながら、やはり不安げに視線を逸らした。
「……いえ、ただ、少し不安になってしまったのです。
もしや、あれ全て、己の地位を確立する為だけにやったのではないかと……」
侯爵から告げられたそんな言葉に、男はハッとする。
「まさか、やはりあれは公爵本人ではないと……!?」
だとすれば、自分は間違っていなかった。
寧ろあの時、誰も気付かない事実に気付いてしまったのではないだろうか。
そうだ、だから自分はあんな風に断罪されたのだ!
あの場でバレてしまうのが都合が悪かったから!
男はそう考えた。
それが自分にとって都合の良い逃げ道であり、事実無根であり、ただの推測であるという事実にも気付かず。
そんな男に対して、侯爵は何処か困ったような表情で答えた。
「姿形は確かに公爵でしたが、本物かどうかは……、私には判断出来ません。
しかし、あの光、あのくらいならその辺りの魔術師にも出来るように思います」
光を浮かべ、消す事も、声音を変えてあの場に居た全ての人に伝える事も、魔法で出来る。
侯爵が暗に告げたそんな言葉に、元平民故に魔法に詳しくない男は、そうなのか、と素直に納得し、信じた。
「……それはつまり、あの公爵は、偽りの賢人、と?」
「いえ、断言は出来ません。
ですが、その可能性の存在に、つい不安になってしまったのです」
男の確認するような問いに、侯爵は不安げにそう答えながら苦笑した。
「いえ、分かります、分かりますとも」
自分にとって都合の良いだけの、ただの推測でしかないその考えを、勝手にも事実なのだと思い込みながら真剣な顔で頷く男は、真実を知る者から見れば滑稽でしかない。
「……ただ、もしもそれが真実なら、この国は大変な危機に直面している事になります」
「それは、一体?」
ごくり、と生唾を飲み込みながら、緊張した表情で男が尋ねると、侯爵は困ったような不安げな表情のまま、答えた。
「あの公爵が偽りの賢人であり、公爵本人ではないとなれば、まず狙うのは国の簒奪、でしょうか……」
「なんと……! 一大事ではないですか!」
大仰に驚き焦る男に、侯爵は不安げな様子で言葉を返す。
「そうですね、断言する事は出来ませんが……」
侯爵の表情は変わらない。
だが、自分はただ、可能性の話をしているだけ、という姿勢を崩さない。
しかし愚かな男は全く気付かず、真剣に考え始める。
「何か方法は無いのでしょうか……」
「難しいですね、証拠もありませんし……、ドラゴンでも連れて来ない限りは……」
変わらぬ表情のまま、世間話をするように、さらりと告げられた言葉。
それは男にとって打開策としか考えられなかった。
「ドラゴンですか?」
「ええ、本当に賢人ならば、例えドラゴンでも簡単にあしらう事が出来ると聞きます」
「なるほど! 偽りの賢人ならば、対応する事すら出来ないと」
愚かな男は素直に納得し、さすがは宰相様、と感嘆の溜息を零す。
「……ですが、これも難しいですね」
「何故です?」
「公爵の力量が不明ですから、よほど長命で強力なエンシェントドラゴンくらいは連れて来ないと」
それは、伝説や昔語り、英雄譚などに登場するような荒唐無稽さだったのだが、男は気付かない。
「ふむ、しかしドラゴンなどどうすれば良いのやら」
「一番簡単な方法は、卵を強奪し公爵の領地へ置いてくる事ですが、余り現実的ではありませんね」
「そうですな、まずエンシェントドラゴンの巣を見付ける事が困難です」
「ドラゴンの巣など国を覆う山々のあちこちにありますからね」
そう言って苦笑する侯爵。
その言葉に男は思った。
いくらでもあるなら、質よりも量を用意すればいいんじゃないか? と。
「あぁ、すみません、そろそろ時間ですね。
私に出来る事は少ないかも知れませんが、困った事があれば相談に乗りますので」
「おぉ、ありがとうございます……!」
「いえいえ、では失礼致します」
優しい言葉を掛け、相談にまで乗ってくれるとまで言ってくれた侯爵に、尊敬と崇拝の感情が高まっていくのを感じながら、男は去って行く侯爵を見送った。
ふと我に返った男は、こうしては居られないとばかりに、慌ててその場から離れる。
不作法にもバタバタと足音を立てながら去って行く男は気付かない。
その場所には、もう一人、居た事を。
地下へと向かう扉の向こう、そこで一人の少年が蹲っていた。
「凄い会話を聞いてしまった……!」
小さな声でそう呟く少年は、己を落ち着ける為か心臓の上辺りを小さな手で押さえながら息を吐く。
国を憂う家臣達が、膿を処理する為の密談。
徹底して穏やかだった侯爵の様子の印象のせいか、彼にはそんな風にしか聞こえなかった。
彼の脳裏に浮かぶのは、下卑た笑顔を浮かべる、横にも縦にも大きい、よく肥えた家畜のような男。
「おのれ、ヴェルシュタイン公爵め……、ルナミリア王国第一王子として、貴様の好き勝手にはさせんぞ……!」
彼はぐっと拳を握り締め、決意新たに立ち上がった。
ルートヴィッヒ・シェヴァ・ルナミリア第一王子。
齢12にも関わらず聡明と評判の彼が何故こんな場所に居たのかと言えば、年齢のせいで建国記念パーティに参加出来ない腹癒せに、少し周りの大人を困らせてやろうと隠れたのが、たまたまこの場所であっただけだ。
聡明だが、やはり彼はまだ子供であったのだろう。
結果、彼等の会話を始めから聞いてしまったのである。
ちなみに、幽鬼のような貴族の男が現れた時は本気で怖がってしまい、微動だに出来なくなってしまった結果、気付かれる事無く現在に至るのだが、本人は至って気にしていないので放っておいてあげよう。
そんな王子はさておき、問題は侯爵である。
あの場所から馬車乗り場とは反対の方向へ進んだ先、会場へと戻る為の道へ続く廊下を歩く老人は、柔和な笑みを浮かべたまま、一際小さな声で呟いた。
「ふん、賢人だと? あの公爵め、一体どんな手を使ったのか」
その声は、鬱陶しいという感情が篭った、表情とは全く正反対の声音であった。
そこへ一人の少女が姿を見せる。
齢は17、8だろうか、少女から女性へと変わろうとして行く、一番華のある時期。
ピンクブロンドの緩やかなウェーブの掛かったロングヘアを、一本の太い三つ編みに纏め、パールを散りばめるように飾った、水色のプリンセスラインドレスを着た彼女は、世間でも良く話題に上るほどの美貌を持っていた。
優しく、穏やかそうな表情、十人が十人、美しいと認めるだろう容姿は、様々な者を虜にする。
ある者は女神、ある者は聖女、そう言って褒め称えた。
中でも彼女が良く呼ばれるのは“白の聖女”である。
何故“白”なのか、それはこの世界で聖女といえば異世界より召喚された黒髪の少女と相場が決まっているからであるのだが、それはこの際置いておこう。
誰にでも分け隔てなく、心優しく、美しい、貴族令嬢の見本。
そんな彼女は、ニコニコと微笑みながら侯爵へと声を掛けた。
「あら、また悪巧みですの?お爺様」
まるで、いつもの事であるかのように、さらりと。
「おぉ、ジュリエッタか、悪巧みとは人聞きの悪い」
「お爺様のやる事ですもの、悪巧み以外ありませんでしょう?」
「ふふ、手厳しいな」
国の宰相、ラグズ・デュー・ラインバッハ侯爵を祖父に持つ、世間一般には白の聖女と名高い、ジュリエッタ・ラインバッハ侯爵令嬢。
彼女が侯爵令嬢なのは、幼い頃両親が事故により他界した際、“心優しい”祖父に引き取られたという経緯がある為だが、これもどこまで真実かは不明である。
彼女は、聖女と呼ばれるに相応しい優しげな笑みを浮かべたまま、鈴の鳴るような可愛らしい声で、彼女を崇拝する者が聞けば卒倒するような言葉を紡ぐ。
「それで、あんな小物を使って今度は何をなさるの?」
「ふん、果たして役立つかな、アレが」
それに応える侯爵も、聖人君子と呼ぶに相応しい優しげな表情と声音で、辛辣な言葉を放った。
そんな祖父に、少女は驚いたような表情を返す。
「まぁ、お爺様ったら。
使えるかどうか分からないのに
会話の内容さえ聞かなければ、穏やかに歓談しているようにしか見えないだろう。
どうみてもほのぼのとしていそうな程の穏やかな表情で、侯爵はふわりと笑う。
「なに、ただの小手調べだよ」
力量が分からなければ、対策も立てようがない。
侯爵はそんな思惑の元に、ともすれば国が大混乱に陥るような大罪を唆したのである。
「あら、という事は、次はオーギュスト・ヴェルシュタイン公爵様なのね?」
「邪魔になりそうな者はなるべく早目に潰しておくに限るだろう?」
確かめるように尋ねる少女にさらりと言い放つ侯爵の目は、全く笑っていない。
しかし、少女にとってはいつもの事なのだろう。
全く気にした様子もなく、変わらぬ愛らしい笑顔を浮かべながら、彼女は、こてり、と首を傾げた。
「なら、完全に潰す前に、あの公爵様をわたくしに下さらない?」
新しい玩具を見付けた幼子のような無邪気さで、ねだって来る己の孫の姿が予想外だったのか、侯爵の表情が不思議そうなものへと変化する。
「うん? 何故だ?」
「あの冷たい美貌、是非とも苦渋に歪ませたいわ……、苦痛、辛苦、悲痛、どの表情も、きっと素敵……」
まるで恋する乙女のようにポッと頬を染めながら、ほうっと息を吐く少女が、恋焦がれるように告げていく言葉はどこからどう聞いても不穏で凶悪であった。
そんな孫に対して、侯爵は全く気にした様子も無く、やれやれ、と肩をすくめる。
「またジュリエッタの悪い癖か」
「まぁ、良いじゃありませんの、貴族の女に自由は少ないんですもの。
ね? お願い、お爺様」
愛らしく首を傾げながらのおねだりは、その辺の男は勿論、同性でさえも絆されてしまいそうな程に可憐である。
例外なく祖父である侯爵も絆されてしまったのか、それとも、公爵の存在など表舞台から消えてさえくれれば、その後はどうなろうと心底どうでもいいのか。
一体どちらかは不明だが、侯爵は困ったように笑いながら頷いた。
「仕方ないな。やはり孫には甘くなってしまうようだ」
「やった! さすがわたくしのお爺様! 大好きですわ!」
「まったく、仕方ない孫だ」
そんな風に笑い合う二人は、誰がどう見ても仲の良い家族であった。
「あぁ、今から待ち遠しいわ...! あの方は一体どんな声で啼いて下さるのかしら...!」
会話の内容さえ、聞かなければ。
なんだか不意に、気持ち悪い感覚に陥った。
「む……?」
意味が分からなくて、確認の為につい辺りを見回すけど、特に何も無い。
え、何今の。
でも、なんかどっかで同じ気持ち悪さを感じた事がある気がする。
馬車から降り、とりあえず執務室へと向かいながら考えた。
あれは一体どこで、だったか。
「旦那様、どうされました?」
私の変化に気付いた執事さんが、確認するように声をかけて来た事で、不意に思い出す。
「いや、何か不愉快な感情を向けられたような気がしただけだよ」
あれは、変態にハアハアされた時の気持ち悪さと同じ感覚だった。
オーギュストさんの感覚は常人とは掛け離れてるから、多分オーギュストさんに向けて誰かが変態的な感情を抱いたのを察してしまったのかもしれない。
別に察しなくて良いと思うんだけどなあ。
スペック高過ぎる弊害なんだろう。
スルーしとこう。
「何処からですか? 叩き潰して参ります」
「あ、待って、俺も俺も」
いや、スルーしようよ。
「……面倒だ、捨て置け」
なんでわざわざ変態と関わろうとするかな、止めてよ、これ以上変態増やさないでくれ。
「何故でしょうか?旦那様によからぬ事を思う輩など潰すべきです」
「そうだよ旦那サマ、とりあえず一帯の奴ら皆殺しにしたら良いよね」
うん、色々と待って?
なんでそんな大量殺人する気マンマンなの? 大騒ぎになるからね?
「……後始末が面倒だ、今は泳がせておく」
「えー、残念」
「何かお考えがあるのですね。ならばシンザ、今は我慢致しましょう」
「はーい」
いやいやいやいやなんでそんな残念そうなんだよ、止めてよ怖いから。
あかん、ダメだ、考えなかった事にしよう。
よし、スルーしよう。
そんな事を真剣に考えながら辿り着いた執務室
何も意識せずに扉を開けると
『あ、帰って来た』
『おかえりー』
『意外と早かったですわね』
会場でウロウロしてた筈のあの六人が、思い思いに寛いでいた。
うん、一言良いかな。
なんでや。
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