第8話 くだらぬ芝居

 目を覚ます。重苦しい感情が身を包んでいた。夢の中で最後に感じた絶望の残滓が、私の体を取り巻いている。それは私の体を床に貼り付けるようだった。このまま動かず、堕ちていけたら。

 そんな投げやりな思考で、しばらく床に寝転んでいた。時計の秒針がカチカチと時を刻んでいる。コロンと音がした。視線だけそちらにやると、赤い種だった。夢でありったけ拾い集めたものだ。そこに視線を向けたことで、自分が着ているものが制服だと気づく。

(家を出なきゃ……!)

 日の入り方からして、もう刻限は近い。早く出なければまたあの女と鉢合わせしてしまう。この前は偶然男を待たせていたからどうにかなったが、毎回そうとも限らない。

 私は慌てて荷物をまとめ、部屋を出る。

「おっと」

 ドアを開けたところで、誰かに鉢合わせする。あの女曰く『ダーリン』だ。ダーリンはドアにぶつかりかけたのをすんでのところでかわしていた。

「あっぶないなぁ」

 ダーリンの声が私に向けられるのは初めてだ。この男が家に来ているときは、絶対部屋から出るなと言われていたし、そもそも会いたくもない。だからその口調を聞いて、存外柔らかに喋るのだと驚いた。

「ごめ……っ」

 ひとまず謝罪をしようとすれば、言い切る前になぜか体が吹っ飛んでいた。いや、なぜかなんて馬鹿らしい。男の足が私の体を蹴り飛ばしただけだ。

 私の体は床に投げ出され、頭を壁にひどくぶつけた。大きな衝撃で目の前が揺れる。遠くで種が床に飛び散る音がした。

 ――種。種があれば、救われる。

 私は倒れたまま、手だけを種が落ちたであろう場所に伸ばす。

「その制服なに? まさか今日が平日だと勘違いしてる? それで慌てて飛び出して、人に怪我させかけたって?」

 ダーリンは私を蹴った。言葉と同じリズムで何度も蹴った。私は種を拾うどころじゃなくなった。

 今日が平日じゃないから、ダーリンがこの家にいることも遅れて理解したし、土日は部屋から一歩も出てはならないことも、後から思い出した。そしてそれを今理解したところで、何の意味もないことを知っている。

「うわっ」

 ダーリンが一瞬足を止めた。私は瞑っていた目を開ける。目の前に赤い種が転がってきた。どうやら蹴られているうちに、勢い余って飛んできたようだ。

「何その気持ち悪いの……どんだけ持ってるの」

 もうダーリンの声は聞き取れなかった。私の全ての意識が、赤い種に、私の救世主に注がれている。

 手を使っている暇はない。私は目の前に落ちているたくさんの種を床に直接口をつけて拾った。

「きったないな……!」

 体に衝撃が走る。また蹴られた。でも口の中の物は吐き出さなかった。そのまま歯に力を込める。

 鈍い音ともに殻が砕けた。殻に隠された中身も一緒に潰れる。何かの液体が中から出てくる。

 甘くて、しょっぱくて、苦くて、すっぱい。ありとあらゆる味がやってくる。主菜でもあり副菜でもありデザートでもある。この世の美味しい料理を全て味わっているような気分にもなったし、まず人の食べる物じゃないという気持ちにもなった。

「うわ、食べたよ……」

 ダーリンの声が水の中で聞いたようにくぐもって聞こえる。それと同時にまた蹴られたような気がするが、今度は何も感じなかった。体が揺れている感覚すらない。でも体の内の感覚はある。とにかく熱い。先程の液体が体内を巡り、私を守っているような気がした。

「きゃっ、なんでいるの」

「娘のしつけなってないね。怪我させようとしてきたよ」

「えっ。ごめんなさい。本当にごめんね。いつも言うこと聞かないから、あなたが来る時は何もしないよう言ってあるの」

「ふぅん」

「ほんとよ。あなたのことこんなに好きなのに」

 女の声と男の声と、二種類聞こえる。会話をしている。でもどうでもよかった。守られている私には関係なかった。

 身の内に感覚を集中させていく。深く深く沈んでいく。

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