第3話 苦しみからの逃走

 たどり着いた校門はもうあまり人影がない。掃除のせいで到着がぎりぎりになってしまった。これではまたあらぬ疑いをかけられる。心のどこかでそう思うけれど、なんだかもうどうでもいいという気持ちもあった。

 ごみや汚物が詰められた下駄箱に、泥だらけの靴を入れ、白には見えない上履きを履く。もはや屈辱などという感情は残っていなかった。

 廊下を小走りで抜け、教室の引き戸を開ける。予鈴まであと十分ほどだった。

「あっ、やっと来たー。待ってたのに遅いよー」

 中に入ると、濡れ羽色のロングヘアを揺らしながら、一人の生徒が振り向く。この黒髪ロングの笑顔を見て、周りの席の女子たちも笑いだす。

「寝坊ー?」

「疲れてたのかな? 大丈夫?」

 黒髪ロングは見事な笑顔だったが、取り巻きは笑顔の下の下卑た本性を隠しきれていない。思ってもない心配を口に出し、皆と顔を見合わせ、おかしそうに笑っている。だがまだこれくらいの方が可愛いものだ。昼休みに待っている『お遊び』が楽しみで笑顔になってしまっているだけなのだから。黒髪ロングよりよほど素直ではないか。

 私は問いかけを無視して席に座る。ここで何を返そうと状況が好転するわけでもない。もちろん悪化することもない。これより下などない。

 教室に先生が入ってくる。私は淀んだ瞳で黒板を見つめた。



 昼休みを告げる鐘が鳴り、同時に黒髪ロングが指で私を呼ぶ。無関係のクラスメイトたちは、普段通りを装いつつ、私と黒髪ロングと取り巻きの動向をちらちら観察している。傍観者こそ最も罪深い生き物。そんな思いを抱くのももう飽きた。

 私は傍観されながら、黒髪ロングのあとについていった。たどり着いたのはうさぎの飼育小屋の近くだ。生物部の管轄だが、過疎部なのでひと気はない。

「はーい、どうぞ!」

 黒髪ロングが可愛らしい声とともに、私を蹴る。取り巻きの一人が飼育小屋の扉を開けていたので、その中に顔から突っ込んだ。土とふんと、キャベツの腐ったような臭いが、鼻腔を通り抜けていく。気持ちは冷めていたが、吐き気はそれとは別だった。

「せっかく待っていたのに、そんな気持ちを無下にした子には、飼育小屋のお掃除を任せちゃいまーす」

 腕をついて顔を土から離そうとすると、黒髪ロングの足が後頭部を押さえつける。私は再び顔面から土に突っ込んだ。鼻や目に細かい土が入り込んで涙がにじむ。頭に乗った足は土を味わえとばかりに揺らされ、私の頭も連動して揺れた。

 取り巻きはくすくすと笑いながら、何かを用意する。同時に足がどかされたが、顔を上げた方がより酷い目に遭うことは明白だった。

「だめよ、雑巾。サボっちゃ」

 黒髪ロングが今度は髪の毛を鷲掴みにして、無理やり私の顔を持ち上げる。目の中の土が落ち、最初に視界に入ったのは、ほうきとちりとりを持つ取り巻きだった。ちりとりの中に入っているものは、想像すらしたくない。

「地面を掃除したあとは、この中にあるごみを綺麗にしないとね」

 黒髪ロングの合図で、取り巻きが近寄ってくる。反射的に口を閉じるが、手の空いている取り巻きが私の口をこじ開けた。

 このまま指を噛んでやる。抵抗して、抵抗して……そのあとは、いったいどうなるというのか。結局何も変わらない。今この場のこの行為が多少変化したとしても、それ以外は何も変わらない。それなのに逆らうなど、無駄でしかないのだ。それより早くこの場をやり過ごし、家に帰って、そう、解放される。それが望ましいことではないか。

 黒髪ロングが私の髪を引っ張る。顔が上がる。取り巻きが上顎と下顎を引く。口が広がる。

 ほうきを使って、ちりとりの中のうさぎのふんが、私の口の中に次々流し込まれる。

 そんな苦しみも、今日で、終わりだ。

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