第2話 腐った種の気づき

 不意に目が開く。ベッドから見る天井ではない。床から見る天井が視界に入った。首にベルトはない。ドアノブに無造作に引っ掛けられたままだ。タオルは傍に落ちていた。私の体も、ドアに沿って床にずり落ちていた。

 早朝の薄明りが部屋を包んでいる。醜い私の輪郭が、聖なる光に照らされ、小さな空間に浮かび上がっている。

 なんて最悪の目覚めだろう。この世から去ることすら選べない人間に、幸福な未来など訪れない。

 排他的な感情が心にじんわりと広がり、体全体が重くなっていく。指先を動かすことさえ億劫だった。いっそこのまま世界が崩壊して、善も悪も、光も闇も、人間も動物も何もかも、違いなどわからなくなってしまえばいい。私が世界に望むことはたったそれだけだ。一人きりの選択ができないのなら、世界を全部巻き込んでしまえ。

 全部、全部、消えればいい。消えれば。

 涙が頬を伝い落ちていく。耳の方まで垂れていく。どこからか入り込んだ風が、涙の痕を優しく撫でていった。それと同時にある音を運んでくる。

 私の意識は途端に覚醒し、慌てて飛び起きる。制服は昨日帰ってきてから着たままだ。鞄だって放ったまま。どうせ髪の毛を整えても無駄だから、適当に縛って、家を出る準備を終えた。

 外から聞こえた車のエンジン音は、まだしている。アパートだから出口は一つしかない。速足で玄関に向かい、ドアノブに手をかける。エンジン音はまだして――

 ガチャリ。

 今一番聞きたくない音が聞こえた。エンジン音はまだしているのに、ドアノブが勝手に動いた。向こう側からドアを開けようとしている人がいる。私の体は恐怖で固まり、その場から逃げ出すこともできなかった。自室に逃げればやり過ごせたかもしれないものを。

 無情に空いた玄関の扉の向こうに、私をこの世に産み落とした、憎い憎い人がいた。その人は私を見て、綺麗に整えられた顔を歪ませる。

「なんで朝なのに家にいるんだよ!」

 甲高い声が耳を貫き、目の前の人間の足が腹に叩きこまれた。その力に抵抗せず、背中から床に落下する。腹と背にやってくる衝撃で、視界が明滅した。

「あたしの視界に入るな! 何度言ったらわかる!」

 激昂したこの人を止める者はもういない。声と足とを使って、私を攻撃してくる。

「このクズが! 腐った種から出てきた死にぞこない!」

 刺さる。言葉が。刺さる。足が。

「ふざけるな! ふざけるな! 全部お前のせいだ!」

 痛くて、苦しくて。これじゃ昨日と同じだ。

 そうだ。同じ。

 痛いのも、苦しいのも、変わらない。どこにいたって変わらない。なら少しだけ耐えて、解放される方がよほど望ましいではないか。

 あっさり出てしまった答えに、薄く笑みが漏れる。

「なに笑って……!」

「ねえ、まだー?」

 男性の声が外から聞こえてくる。途端に猛攻が止んだ。

「ごめーん! あと少しだから、待っててねぇ」

 先程までとは別人としか思えない声で、目の前の人は返事をした。砂糖をふんだんに使った菓子のような甘い甘い声だった。

「お前のせいでダーリンに急かされただろうが」

 舌打ちとともに最後の蹴りが腹を抉る。苛立ちを露わにした足音を聞きながら、唾を床に吐き出す。あの女が出て行ったあと、掃除をしなければならない。一歩間違えばこんなにもタスクが増える。綱渡りをして生きているみたいだ。

 その場に倒れたままぼんやり考えていると、鼻歌とともに女が戻ってきた。もう私のことなど視界に入っていない。女はダーリンの元へ向かって、大人しく家を出て行った。

待たせて申し訳ないといったことを伝える女の高い声が、遠くに聞こえた。それからエンジン音が遠ざかっていく。さすがにもう帰ってはこないだろう。私はのろのろと体を起こし、洗面所からタオルを持ってくる。周りに飛び散った汚物を拭っていく。床が綺麗になるにつれ、私の心は寧ろ暗く淀んでいくようだった。なんとも虚しい気持ちになっていく。

 あの女が見ても特に何も思わないレベルまで拭き取ったら、タオルを洗濯機の中に落とす。そして本来のルートである登校に私は戻る。

 玄関から出ると、初夏の太陽が憎らしいほどに存在を主張している。晴れでも曇りでも、私の心を照らしてくれるものは、何もない。

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